和真:03話 君だったのか

 午後八時過ぎ、駅に向かう道で、僕は前を行く人の背中を見ながら歩いていた。ほんの一瞬注意が逸れたのは、後ろの女性の突然の笑い声に気を取られた時だった。強く体を弾かれて、誰かとぶつかった、そう思った途端に突き飛ばされるようによろけ、気がつくと数人の男に囲まれていた。


 僕は不注意でぶつかったことを男たちに侘びたが、相手はどうやらそれでは気が収まらないらしい。すれ違いざまに、肩が触れただけのことをどうしろというのか……僕は困ってため息をついた。


 相手はそれがまた気に触ったらしく、いっそう声を荒げて詰め寄ってくる。乱暴な言葉遣いに、こちらを不安にさせる距離感。僕はますます萎縮して更に一歩後ずさった。相手が急に動く気配がして、身をすくめるとバランスを崩して尻もちをついた。


 誰もが帰宅のために足早に駅に向かう時間。アスファルトについた僕の手のすぐそばを、たくさんの足が通り過ぎていく。逃げ場もなく追い詰められたような不安と、こみ上げる嫌悪感に、僕は嫌な予感がした。鼓動が早くなり、耳の中には街の雑踏と男たちの怒鳴り声が渦を巻いて響く。


 以前にも同じことがあった。パニック発作と言うやつだ。ようやく一人で電車に乗れるようになった頃、思ったより混雑した車内で人の気配に息が詰まった。その不快感を押し殺してきつく目を閉じて耐えていたら、突然心臓がうるさく鳴り始め、目を閉じているのに酷い目眩がした。


 やがて何度深呼吸しても上手く息が吸えなくなり、気がつくと知らない駅のホームでベンチに座っていた。そばにいた駅員が救急車を呼ぶと言うのを断って、僕はそのままベンチに一時間以上も座っていた。


 あの時と同じだ。それが迫るのをひしひしと感じながら、何もできずにいるのが更に苦しい。僕は道路に手をつき、這いつくばってでもその場を逃げ出したかった。もうすぐ呼吸ができなくなる。


 ――そう思って固く両目を閉じたとき、僕の肩に誰かの手が触れた。大きくて、気遣うような遠慮がちな手のひらが僕の肩と背中に触れる。その感触で、この手はさっきの男たちのものではないとすぐにわかった。触れられた場所から、体温がじんわり戻ってくるような気がした。息苦しさに喘いでいた口からは酸素がゆっくりと入ってくる。耳の中で渦巻く轟音もやがて収まり、街の喧騒が戻ってくる。


「どうしたんすか」


 鋭く問い詰めるような声音だが、それは僕に向けられたものではないとわかる。その人の手のひらは労るように僕の背中を支えて、立ち上がるように促しているのだから。僕はその声に覚えがあった。またこの感覚——確かにどこかで聞いたことがあるはずなのだけど……


 ついさっきまでの緊張と不安をよそに、僕は呑気にそんなことを思った。なぜだか、背中に触れるその手のひらが、僕から恐怖を取り去っていくような安心感があった。


 僕の視界を遮って、その大きな人影が男たちと僕の間に立つのが分かる。威圧的に僕に詰め寄っていたあの喚き声が遠くなった。耳を澄ませて何が起きているのかを必死に拾う。どうやら男たちはお金を要求しているようだった。


 それで済むならもうそれで構わない、そう思っていると、低い声でのやり取りの後、急に男たちが静かになり離れていく気配があった。どういうことかと考えを巡らせているうちに、急に腕に触れられたことに驚いて、僕は抱えていた鞄を落とした。慌てて落とした鞄を手繰り寄せ、胸に抱えて様子を窺っていると、僕に触れた人影が話しかける。


「あの、都筑さん、大丈夫ですか?」


 僕の名前を呼ぶ聞き覚えのある声に、ハッとして僕はその人物を見上げた。僕のことを知っているのか……


「……あの、どこかで……? あ……駅前のカフェの……?」


 僕は曖昧な記憶のページを捲りながら呟く。


「……川瀬です。こないだ原稿見てもらおうとしました」


 その答えを聞いて僕はようやく緊張から開放されて、忘れていた呼吸を取り戻した。川瀬くんは早口に何かを呟いたあと、僕を歩道の端に連れていき、ここで待ってろと言ってどこかへ遠ざかる。


 安心した途端に僕は自分の手がヒリヒリと痛むのに気が付き、確かめると手のひらが擦りむけて血が滲んでいた。すぐに川瀬くんが戻ってきて、僕の手に水をかけて汚れを洗い流してくれた。ハンカチで手を拭いていると、バイクで送っていくと申し出てくれた。だけど僕はバイクに乗ったことがないし、二人乗りだってコツがいるだろう。上手くできる自信がない。


 しどろもどろになりながら辞退すると、川瀬くんは僕が彼を警戒してると思ったようで、申し訳無さそうにしていた。僕はなんと言ったものか、少しの間考えたが、このまま隠していては彼に申し訳ないと思い、決心して彼を夕食に誘った。


 行きつけの小さなレストランで、夕食を済ませ、僕は川瀬くんに自分の目のことを話した。三年前から急激に視力が落ちたこと、そして編集長からは降りたが、幸いなことにどうにか仕事を続けていること。川瀬くんはこちらが気の毒になるくらい、体を縮めて俯いていた。


「この前の君の原稿、そんなわけで僕は読めないけど、宮原に見せてみるのはどう?」


 それが僕にできる精一杯のお礼だ。川瀬くんは僕の編集長時代に熱心に読んでくれていたようだけど、今の編集長は宮原だし、川瀬くんに実力があればチャンスを掴むだろう。


「今度お店に行った時、僕が預かるよ。宮原に渡しておこう」


 そう提案した僕に、答えた川瀬くんの声が心なしか沈んでいたのは気のせいだろうか。



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