Flight

平山芙蓉

フライト

 灰色の教室に、僕以外の誰もいなかった。教室の時計によると、時刻は十五時過ぎ。やることもないので、中央の席に座り、ぼんやりと外に耳を傾けていた。廊下にも校内にも、人のいる気配はない。お昼で授業は全て終わり、課外活動も禁止の日だから、そもそも僕以外の誰もいないのは当たり前だ。見回りをしていた先生や管理員も、みんな下校を確認して帰っただろう。ここに僕が残っていることを知っているのは二人だけだ。


 二人。


 それは、僕自身と彼女の二人。


 彼女は僕のクラスメイトで、仲が良くて、世間一般的な言葉で間柄を表すのなら、恋人というやつらしい。僕はその関係性の名前なんて、どうだって良い。そんなものを規定しなければならないのは不自由だ。きっと、何にでも名前を付けたり、捏ねた理屈を言葉で押し付ける人間は、自分が世界の中心だと信じて疑っていない種類なのだろう。僕は、僕という人間を、水のような存在のままにしておきたい。誰にも規定されず、形のない曖昧な存在のままに。恐らく、彼女も同じように考えているはずだ。


 教室前方の壁に掛けられた時計を見遣る。時間は全然進んでいない。秒針が止まっているんじゃないか、と疑ったけれど、もちろんそんなことはなかった。約束の時間は少し過ぎている。気にしてなどいない。気にするほど、僕は神経質じゃない。彼女には彼女の事情があるだろうし、彼女の近くにある時計が壊れていて、ズレている可能性だってある。そもそも、流れていく時間を表そうとしたモノに、最初から期待なんてしていない。


 それでも暇であることに変わりはない。こういう日に限って、いつも本を忘れてしまう。何故だろう。もしかしたら、脳のよく分からないところに、そういう悪戯をする奴が潜んでいるのかもしれない。


 持て余した暇を潰すために、窓の外を眺めることにした。何もしないよりはマシだ。


 空は分厚い雲に覆われていて、雨も降っている。窓に時折、雨粒の打ち付けられる音が聞こえてくるけれど、雨自体の音はほとんど聞こえてこない。大地を威圧しているわりには、行儀が良い。昨日も雨だったから、地面の湿りが原因かも。予報によると、しばらくはこんな天気が続くらしい。教室の空気もその湿気をたっぷりと吸い込んで、息苦しさを覚えるくらいには、冷たくて重たかった。そいつを逃がしたくて、制服の襟を開けてみても、大して好転はしない。こんなものだ。


 少しの合間そうしていると、廊下の側から微かに足音が聞こえてきた。ローファーの踵がリノリウムを叩く、定期的で綺麗なリズム。もし楽器があったら、メトロノームの代わりにでもしていたかもしれない。


 こちらへ近付いてくる音に反比例して、呼吸の回数が減っていく。間隔だけは一定のままだ。けれど、鼓膜の奥では歪んで聞こえた。それは、自分の意識と随伴する時間が、撓んでいるからかもしれない。まだ先にあるはずの死のイメージが、ゆっくりと僕の顔を後ろから覗いてくる。


 このまま、静かに止まってしまうとしたら、


 彼女には会えない。


 それならそれで、ドラマティックじゃないか。


 笑う。


 結局、僕だってそんな陳腐なモノを、


 命やら自分やらに求めているという事実が滑稽で、


 笑ってしまう。


 教室の前で、足音が止まった。ドアの小窓に長い影。引き戸が仰々しい響きと共に開くと、僕に圧し掛かっていた空気は我慢を強いられていた子どもみたいに、廊下へと逃げ出していく。鈍色の光を孕んだ風が、影を揺らした。


「ごめん、お待たせ」


 待ち人である彼女が来た。彼女が後ろ手にドアを閉めると光は再び遮られ、影を色濃くする。どうしてだろう。こちらの方が外よりも薄暗いのに、輪郭はハッキリとしている。白いセーラー服と、黒いスカート。簡単に折れてしまいそうな、細い四肢と首。そして、血の通っていない、死んだみたいに冷たい肌。彼女だ。僕は二度、彼女のことを認識していた。大事なことは、何度だって確認しても良い。


「ううん、全然待ってないよ」と、僕は答える。笑ったままだったので、わざわざ作り直す必要はなかった。呼吸はいつの間にか元通りだ。


「始める?」僕の前の席に座りながら、彼女は言った。


「君が良いのなら」僕は机の天板に目を落とす。鼻の奥は既に、彼女の長い髪から香る匂いに侵されている。


「いつでも」


「本当に?」僕は顔を上げ、目を合わせようとした。でも、勢いが足りなかったからか、視線は鼻の頭辺りで止まってしまう。「苦しいと思うけど……」いつか、彼女が苦手だと言っていたことを思い出す。僕も同様に、これからする行為は苦手な質だった。


「必要だから、構わないわ」彼女は髪を耳に掛けた。首筋の白さに、目を奪われる。「それに、あの世は地獄から巡るのがセオリーでしょう?」


「そうだね」


 僕は微笑んだ。世界の配列は、いつだって最初に苦しみがやってくるようになっている。生まれるための、苦しみ。死ぬための、苦しみ。それから目を逸らして天に至ろうとするから、理想ばかりを語りたがるのだ。


「じゃあ、始めよう」


 僕たちは立ち上がり、服に手を掛けた。丁寧に一つずつ、上着とシャツのボタンを外していく。彼女もスカーフを解いてから、同じようにボタンを外す。僕はズボンを、彼女はスカートを脱いだ。彼女の手つきは、魚を捌くみたいに丁寧だったので、僕もそれに倣った。最後には下着も全て取り払い、衣服は畳んで机の上に置いた。


 生まれたままの姿で、僕たちは向き合った。彼女の身体は、彫刻刀で彫られたみたいに骨が浮き彫りになっている。肉質な膨らみは、胸部と臀部くらいだ。肌には産毛の一つも生えていなくて、代わりに、窓に降った雨の影を躍らせていた。


 無駄を極限まで削ぎ落した美しいフォルムは、何となく、設計に尽力された飛行機を彷彿させる。恥ずかしがっている様子はない。ただ優しく、微笑んでいるだけだ。


「どうかな?」


「どうって?」彼女の言葉に、僕は聞き返す。


「私の身体」

「うん……、すごく美しいよ」僕は目を見て正直に言った。「すごく、美しい」彼女の真似をするつもりで、優しさを思い浮かべながら微笑む。


「触れてもいないのに?」


「触れなくても、分かるじゃないか」


「そう……」


 彼女は机越しに手を伸ばし、僕の鎖骨に触れた。細い指先が、胸の中心から肩へとかけて、それをゆっくりとなぞる。冷蔵庫みたいに冷たい温度だった。


「私は今、あなたの温度を感じているわ」


「僕も同じさ」


「ふふ」


「どうしたの?」


「ほらね、触れないと分からなかったでしょう?」彼女はそう言って、鎖骨をなぞっていた指を下げていく。「こうやって、触れることで解る美しさもあるのよ……」胸を通り、腹を通り、骨盤の辺りでようやく止まった。


「温かい」


「生きているから」


「そうね」僕の答えで、彼女の表情が崩れる。「なら、私はどう?」


「死んでいるみたいだ」僕の口は、勝手に動いた。表面張力の掛かったコップに、コインを落としたようなモノだ。


「本当に死んでいて、私は幽霊かも」彼女は再び笑みを作る。でも、さっきみたいな優しさはなかった。頬に触れれば、壊れてしまいそうなくらい、脆い表情だ。


「幽霊はいないと思うな」


「うーん……。じゃあ、ゾンビは?」


「それもいないかな」


「どうして?」


「そんなの、悲しいじゃないか」


 死んだのに、生きているみたいに振る舞っているなんて、想像しただけでも悲しい。死は張り詰められた意識と時間、そして、世界からの解放なのに。苦しみの次にある素敵な自由まで、否定されたくはない。


「なら、証明しようか」彼女は僕の手を取ると、机を回ってこちらに来た。「私たちが今、生きているって」


 間近になった暗い瞳に、僕は映っていない。井戸の底のように、得体の知れない液体の揺れる様が見えるだけだ。


「うん……」


 首肯した途端、彼女は僕の唇を奪った。頭が放れないよう、腕を首に回される。僕も同じように、背中へと手を回した。身体と身体が密着する。指先だけではない。彼女の身体は、ありとあらゆる部位が、陶磁器人形みたいに冷たくて硬かった。そのせいか、僕は今まで忘れかけていた、自分自身の体温を思い出す。


 そう。


 僕は生きている。


 抗えない欲求を放つ、哀れな肉体に縛られながら、生き続けている。それも、数えるのもやめたいくらい、長い年月。その証が、子の熱だ。だから、彼女が死んでいるみたいだという感想は覆りそうにない。けれど、交わった唇と舌の感触、熱い唾液の滑らかさは、明らかに生きていることを証明していた。


 必死だ。


 僕たちは、誰かに認められなければ、生きていると証明できないから。認めてもらえないと、死んでいることと変わらない。僕を証明してくれる人は、彼女だけで良い。彼女にだけ、僕が生きていると認めてもらえれば、あとの誰にどう判断されたって構わない。


「どうしたい?」唇を離すと、間近に迫った彼女が聞いてきた。


「良いのなら」くっついた二人の、クレバスみたいな境界に目を落とす。自分の中では、狡いやり方だと思った。


「そのための今日よ?」


「なら……」


「ああ、でも」続けようとした僕の言葉を、彼女は遮った。「ちゃんと言葉にしてくれないかしら?」と、意地悪な笑みで返事をされる。涎に汚れた口元は、雨よりももっと鈍く光っていた。


「どうして?」


「何となく、よ」


 ゲームみたいな問答に、つい辟易してしまった。どうにも僕はこういった類の行為を、言葉にするのが苦手だ。


 でも、今日は違う。

 僕たちは、生きていると証明しなければならない。

 死ぬためには、それが必要だ。

 だって死は生きている中で、たった一度の経験だから。

 もしその経験を、どこかでしてしまっていたら。

 ここで終わらせても、その死に意味なんてない。


「ほら……」


 彼女に促されたけれど、僕は無言で唇を塞ぎ、机の上に押し倒した。机は年季が入っているせいか、僕たちの体重が乗るだけで簡単に軋む。そんなことは気にせずに、頬に触れ、髪を乱し、細かな喘ぎと息遣いを耳に拾わせながら、甘い匂いを嗅いだ。外と呼べるモノは、もう何もない。まるで、自分が彼女になっていくような錯覚。頭の中にある言葉も感情も、徐々に失われていった。


 僕の名前は、何だったのだろう。

 僕の記憶は、何だったのだろう。


 全てが無意味な羅列の連続へと帰されて、意識はそのスピードに乗せる他なかった。


「目を閉じて」


 どちらからともなくそう言った。瞼が降りると、灰色と紫色の闇が訪れる。それからは、手探りに闇の中を泳いだ。痛みが奔る。赤い苦痛が、液体となって脚を濡らした。呼吸の裏で苦しみが、圧迫の内側で収束が始まる。


 そうして……。

 彼女が溶けていく。

 僕が溶けていく。

 二人の境界が融解する。

 夢を見ている気分だ。

 終わることのない宇宙のような夢を。

 でも、現実なのだ。

 終わりの予兆が、血液の中を駆け巡るから。

 存在の終着に、例外はない。


 小銃を構えて、弾丸を撃ち込むイメージ。吸い付いた銃口は、容赦なく彼女を貫く。撃ちたいという欲求のままに、全てを。弾丸は数発。銃身は諦めたように柔らかくなり、混ざり合っていた僕たちの意識は再び離れていった。その最中、彼女も僕を錯覚してくれていたのかな、と考えていた。


 熱い呼吸が教室に。気を利かしたのか、それとも、雲の威厳を守ろうとしたのか、雨脚は強くなっていた。窓硝子は雨粒で覆われ、外の様子はぼやけている。室内では、僕たちの息を縫い合わせるような秒針の音が聞こえてきた。それに気付けるくらいに、僕の頭は冷静さを取り戻しているみたいだ。


 机の上に寝転がる彼女を抱きしめる。彼女も応えてくれるかのように、僕の首に回した腕に力を込めた。身体は火照り、肌は汗ばんでいる。それが苦しみの後に生まれた熱だと悟った。そんな僕の心に、陰鬱な雲の気配が罪悪感となって付け込んでくる。


「生きていたね」


「うん……」


 彼女が耳元で囁いた言葉に僕は頷く。弾み切らないゴムボールみたいな、喜びとも悲しみとも判然としない声だった。


「これでやっと、私は終われる」


「そう、そうだね」


「ねえ、あなたは?」


「今更、聞くのかい?」


「言ったでしょう?」僕の首に回した腕から、力を抜いた。僕は身体を起こして彼女を見下ろす。「ちゃんと言葉にして、って」


 真剣な表情で目を覗かれたので、飛んでくる石を躱すように何度か視線を逸らした。仕草や動作で誤魔化すことは、僕の悪い癖の一つ。でも、この苦しみに向かうことも、必要なのかもしれない。身体にそう言い聞かせて、僕はしっかりと彼女の瞳を見つめた。


「一緒に行くよ」僕は自分の意思を言葉にする。


「うん、ありがとう」彼女は破顔して、僕に口づけした。


 彼女の上から僕は退き、手を貸して立たせる。教室の灰色はより濃くなっていた。靴を履かずに踏む床の感触は、砂と埃のせいでざらざらとしていた。何より、無機質な冷たさがそれを助長している。


 手を取り合ったまま窓辺へと近寄る。窓を開けると、威嚇しているかのような隙間風が断末魔もなく止まり、雨音が入り込んできた。硝子越しではない空の色は、幾分か明るかった。


「行こう」


 隣へ顔を向ける。彼女の視線は真っ直ぐに外へと注がれていた。白い肌に、丸い雨粒。横顔には笑みが滲んでいて、頬に乗った雨も相俟って、喜びのあまり泣いているように見せている。


 そうか。

 そんなに嬉しいのか。

 僕もつられて、笑ってしまった。

 なら……、

 早く済ませよう。


「……行こう」


 返事はない。

 合図としては充分すぎたから。


 互いの手が離れないように硬く握り締めながら、窓枠を乗り越えた。


 世界を見下ろす必要はない。


 加速も墜落も、一瞬の出来事。


 ぐるぐると宙で回り、位置が忙しなく変わる。


 それも束の間……。


 硬いコンクリートに打ち付けられて、飛行が終わった。痛みも響きも、身体には遅れて伝わってくる。


 鐘のようだ。


 絶望を孕むものじゃない。祝福に満ちた鐘だ。


 彼女の望みは、ちゃんと叶えられたのだろうか。確かめたくても、痛みで上手く首が動いてくれない。思考が不安というヴェールに包み込まれる。でも、今更そんなことを考えても仕方ない、と言い聞かせておいた。


 顔が雨に濡れていく

 寒い。

 冷たい。

 全身が痛い。

 呼吸ができない。


 彼女の手の平だけが、まだ温かい。


 笑みが零れる。この世界から僕たちがひっそりと旅立つことを、誰も知らないから。


 生まれたままの姿で門出を迎えられるなんて幸せだ。


 こんなにも幸せなのに、


 どうして、生きていたのだろう。

 どうして、終わりがくるのを静かに待ち続けていたのだろう。


 誰もが他人の生き方を邪魔する。

 誰もが他人の死に方を邪魔する。


 そんな世界に縛られることに、疑問を持てなかったのは何故なのだろう。こんなにも、虚しい想いをしているというのに。


 ああ、でもきっと……。


 僕たちがこの世界に墜ちてくる時も、同じことを考えていたのかもしれない。こんな世界で生きるのなら、と旅立ちを決心した結果、産まれてきた。つまり、変化のない繰り返しをずっとやりすごしているのだろう。苦しみの果てにある世界に、ずっと希望を抱き続けていて、それが叶うことなんてない。そんな大事なことを忘れてしまうくらいに、人生は苦しい。


『終わらせよう?』


 揺れる意識が、彼女の誘惑を思い出させる。


 彼女と一緒なら、この繰り返しに終止符を打てるかもしれない、と僕は感じた。


 どうしようもない世界を最後の苦しみとして、天へと至れるかもしれない、と。そこまで昇れば、後は静かに沈むだけだ。


 目覚めた先が、そうであってほしい。


 ……もしそうじゃなかったら。

 ……その時はまた、彼女と次を探そう。


 ずっとずっと、永遠に。


 視界が曇り、身体が透き通っていく。

 次第に闇が降りて、

 鉄の臭いが閉ざされる。


「ありがとう」


 雨の雑音の中でも、彼女の声だけはハッキリと聞こえた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Flight 平山芙蓉 @huyou_hirayama

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説