本編

第7話 地下鉄ダンジョン

 その日、緒方は酷く眠かった。

 前日からの疲れがとれなかったのだろうか。社会人になって三年目。後輩もできて仕事もそれなりにうまくいっている。ブラック企業ではないが、ホワイト企業でもないという中途半端な会社だが、それなりにうまくやってきたつもりだ。それなのに今日はなんだ。びっくりするくらい眠い。地下鉄の揺れも手伝って、ガクンガクンとまぶたが何度も落ちてくる。深い眠りに落ちかけては、はっと目を覚ますのを繰り返している。これじゃ社会人失格ではなかろうか。

 いやいや、そんなことはない。

 むしろこうして朝の通勤ラッシュの満員電車で運良く座れたのだから、この間に眠ってしまえばいいんだ。休めるときに休む。それこそ一人前の社会人というやつだ。きっと自分の降りるべき場所で降りられるはずだ。

 駅の一つに停まり、がくんと車体が揺れた。

 その途端に、緒方のまぶたも一緒にがくんと落ちた。地下鉄の扉が開いても、誰も降りようとしなかったし、誰も乗ろうとしなかった。ばきばきと緒方を中心に白い糸が伸ばされ、地下鉄の内部は青白く変化していった。緒方の体は次第に繭に包まれ、やがてその場に倒れ伏した人々の姿が異形の姿へと変わっていった。







 爽やかな目覚めだった。モモは腕を上にあげ、ぐっと体を伸ばす。


「ん~~!」


 腕を下ろすと、謎の疲労感から回復したような心地よさがあった。

 長い夢から目覚めたような心地よさだ。

 ふああ、と息を吐きながら腕を降ろす。廊下から「モモー! 朝ごはん食べちゃってー!」という声が聞こえた。はーい、と答えながら、すっかり「モモ」が家庭内で浸透したことを気にもしなくなっていた。モモの本名は、桃花と書いてトウカである。友人たちがモモと呼ぶので、そのうち両親までモモと呼ぶようになってしまった。

 さっさと制服に着替えて、モモは廊下に出た。


 ――なんだろう、何か忘れてる気がする……?


 思い出したら面倒な事になる気がして、モモは思い出すのをやめた。

 リビングに向かうと、既に朝食が用意されていた。テーブルについて食パンに手を伸ばす。テレビからは朝のニュースが流れてきた。


『F市の図書館が変化したダンジョンは、市民の通報によって二時間後に鎮圧され――』

 テレビでやっていたニュースは、市の図書館がダンジョン化したというものだった。カメラの中にはダンジョン探索課のジャケットを着た人々が、調査のために入っている。食パンに塗ったバターが、口の中でじんわりと広がった。食べながらモモは聞き入っていた。

『ダンジョン化の増加が問題となっていますが、研究はどこまで進んでいるのでしょうか』

 コメンテーターが熱い議論という名の、あんまり中身の無さそうな会話を繰り広げている。

『いまのところはその都度対処していくしか方法は無いじゃないですか』

 それしかないのだろう。


「相変わらず多いわねぇ、ダンジョン化」

「うーん」

「モモも気をつけてね。見つけたらちゃんと連絡して」

「うん。そうする」


 もしダンジョン化に気付いたら、ダンジョン対策課へ電話をするのが一般人の役目だ。それが普通である。ダンジョンには許可が無いと入れない。耐性のない人間が面白半分に入っても、中のダンジョンに取り込まれてしまうだけだ。

 モモは朝食を食べ終えると、身支度を済ませて鞄を肩にかけた。


「それじゃ、気をつけてね」

「うん、お母さんも気をつけて。行ってきまーす」


 玄関で見送られ、外へ出た。マンションの外では鳥が鳴いている。

 清々しい朝だ。モモはマンションを出ると、まっすぐに通学路への道に向かった。マンションのある住宅地から大通りへと抜けると、出勤や通学で歩く人々とすれ違うはずだ。


 ――なんか今日、人が少ないなあ……?


 いつもだったら地下鉄の階段へと急いで走っていく人もいる。大通りにあるとはいえ小さな入り口なのだが、そこを使っている人は結構いるはずなのだ。いつもと同じ時間なのだから、ある程度は人通りがあるはずだ。

 モモの中学は公立で、いくら遠くても自転車があれば何とかなる。だから普段の通学に電車を使うことはほとんど無い。繁華街に出る時は必要になるくらいだ。しかしこの町には、地下鉄も高架の中央線も走っている。公共交通機関の利用は活発で、例え人通りの少ない小さな駅でも乗り換えに便利という所まで存在している。

 それなのに――。


「おい待て、モモ」

「えっ?」


 急にどこからともなく聞こえたウラの声に、モモは一瞬ピンとこなかった。

 ウラは突然、何もないところからモモの肩を蹴って現れた。足元にスタッと降り立つ。


「こっちだ。来い」

「え、え!? ウラちゃん!?」


 ウラは地下鉄の入り口で、下を見ていた。慌ててモモがウラに走り寄った。


「虫の匂いがする」

「……」


 モモはしばらくまじまじとウラを見下ろした。


「うわー!? 夢じゃなかった!」


 喋る猫も現実だ。言ってしまってから、ハッと周囲を見渡した。ちょうど誰もいなくてよかった。モモは声を潜めてしゃがみこむ。


「え? 本当にウラちゃん? 夢じゃなくて?」

「夢じゃねぇよ、おれ様と契約しただろうが」

「というか、どっから出てきてんの?」

「おれ様はおまえのいるところなら出てこられると言わなかったか。とにかく行け。その中だ」


 ウラはもう一度モモの頭に飛び乗ると、髪の毛をひっかいた。


「いだだだ!? いや、私いま、学校行くんだけど!?」

「後にしろ、そんなの。おれ様の食事を無にするつもりか」


 ぎゅる、と至近距離でお腹の音がした。


「あれ食事だったんだ」


 だいぶグロテスクな光景だったんだけど……というのはやめておいた。とはいえ同情からウラを撫でておく。心外だったらしく、噛みつかれそうになったが。


「っていうか一般人はダンジョンに入っちゃ駄目なんだってば」

「おまえたちの作った法律など知らん。歩いてたら巻き込まれたで通じるだろ」

「それで通じるかなあ!?」


 ここで地下鉄に入る理由は無いんだけと、とモモは思った。

 しかし、入り口に僅かに足が入り込んだ瞬間に、周囲の景色は一変した。

 あっという間だった。

 すぐ後ろにあった入り口がうねり、入り口そのものが消失した。同時に、今回は入った瞬間にそれが起きた。モモの髪の毛が毛先からピンク色に変化していく。ぱちぱちと目を開けた時にはその瞳がピンク色に変わって、鞄は消え去り、制服は姿を変え、海賊を思わせる赤い衣装へと早変わりする。腰にはそれぞれ、銃と剣があった。最後に黒いマントが揺れた。前回とまったく一緒の展開だ。ただ一つ違うのは。


「なんか、前と服違うね」

「そりゃ一応はこの空間に即したものになるからな」

「この空間って……」


 改めてあたりを見回す。

 あたりは深い青に沈んでいた。

 下に向かって続く通路の端々に古びた珊瑚のような錆びた色がこびりついている。海水に沈みきってずいぶんと時間の経った鉄にも見えた。下には広い空間があるらしく、やや明るく見えた。モモが少しずつ階段を下っていくと、そこは海の中のような空間が広がっていた。向こうの方には沈没船が見える。海底と違うのは、見た事もない矢印の看板があちこちの方向を向きながら設置されていることだ。明らかに地下鉄の中には無さそうな、道路標識が斜めに突き刺さっていたりする。ただ、そこに描かれている画像はすべて地下鉄用の運転標識や、距離標識、そして案内板だった。その道路標識を無視して、魚の群れが泳いでいる。


「なんで海の中なのに、恰好が海賊なの」

「それは知らん」


 せめて人魚とかならまだ理解できた気がした。

 大体、恰好が海賊なのに海の中を歩けているのも奇妙だ。この不条理さも、ダンジョン故なのかもしれない。さすがに顔が骸骨になってるとかないよな、と指先や顔を触って確認する。別に普段通りだった。よくわからない。

 だいたい、周囲を泳いでいる魚だって、どことなく違和感がある。顔の側面の半分以上の大きさを持った目の灰色のサメが、悠然と泳いでいく。サメはどことなくぶよぶよした体で、一般に知られているサメとは大違いだった。他にも、鱗のない、巨大な青白い背びれを生やした魚がうねうねと泳いでいく。長い牙の生えた顎は深海魚のミズウオにも似ていたが、その尻尾は異様に長く、青白く光り輝いている。この付近には上からと思われる光が入っているのに、薄暗くて雰囲気はまるで深海だ。そのくせ奥にはまだ地下に続く穴があり、暗い雰囲気が漂っている。


「とにかく行くぞ、虫はまだ先にいそうだ」

「ええ……」


 モモはこの空気にすっかりうんざりしてしまっていた。

 とはいえここに入ってしまった以上、ちょっとやそっとでは出ることができない。


「ぐぬぬ……や、やるわよ。やるしかないっ!」

「おう、その意気だモモ。早くおれ様の朝ご飯を確保してくれ」

「なんかその理由聞くとヤだなぁ!?」

「そう言うな。その辺の猫だってゴキブリくらい食うだろ」

「猫飼ってる人が一番見たくない光景だよそれ!!」


 それを他ならぬ猫の姿をしたウラがいうのだから、たまったものではない。というかあまり想像したくない。

 モモはマントを揺らしながら、広い空間を歩いていく。


「せめてウラちゃんのご飯じゃなくて、人助けとかそういう意味合いが良かったな~」

「でも結果的におまえたちを助けることになるだろ」

「それはそうだけどさあ~」


 それでももっと「選ばれた戦士」感は欲しかった。ヒーロー願望じゃないけれど、そういうのが満たされてくれた方がいい。恰好が変わるのはそれっぽいけれども、もっと精神性を求めたい。


「それにしても、ダンジョンってこんなにまるっと変わっちゃうんだね」


 モモは目の前を通っていく魚の群れを避けながら言った。

 ここが地下鉄の中だったなんて信じられない。この最寄り駅も何度か使っているが、面影というのがまったくなかった。


「ああ。内部がまるっと変わる変異型と、現実を反映した延長型があるからな」

「昨日のスーパーみたいなのは?」

「あれも変異型だ。延長型もそのうち見れるだろ」

「あんまり見る機会は無いほうがいいと思うんだけどね!?」


 そもそもここにわざわざ来ているのも法律違反だ。

 無許可だし、許可をとるにしても年齢も学歴も足りていない。少なくとも十八歳以上で、確か高卒認定以上が必要だ。何もかも足りてない。


「何度も言うがな、おまえたちの作った法律などおれ様には無意味だ」

「じゃあ、私じゃなくても良かったんじゃないの?」

「おまえは夢見人として最適なんだよ。それより、喋ってる暇はないぞ」


 ウラが言うと、鋭い殺気が向けられた。

 ダンジョンの警護を担う魔物が、侵入者の気配を察知したらしい。わさわさと、どこからともなく集まってくる。だが、姿が見えない。不可視の生物か、それとも擬態していて見えないだけか。モモは足を止めて、腰の銃に手を伸ばした。今回の銃は、海賊に相応しく年代物の装飾がなされた形の銃だった。

 ゆらゆらと相手が移動するのにあわせ、そっと視界をずらす。不可視ではなく、背後の景色と同化しているらしかった。甲殻類に似たその姿を認識したモモは、思わず叫んだ。


「……エビだ!!」

「エビだな」


 透明で巨大なエビだった。

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