そして、天狗も笑う。
あんらん。
1 押入れ
ひとが住まなくなると、家は精気を失う。
それがたとえ数日だとしても。
戸口も窓も、襖も障子も、くすみ、ゆがみ、きしむ。
まるで魂の抜け殻だ。
おばあちゃんに、空家になった建物の片付けを頼まれた。
おばあちゃんが借家として貸出していたものだ。
こんな建物があるなんて知らなかったから、わたしはずい分驚いた。
十年近く住んでいた借主は高齢の男性で、先週病院で亡くなったという。
連れ合いを亡くしてからここでひとり暮らしをしていたのだ。
遠いとはいえ親戚でおまけに他に身寄りがなかったから、おばあちゃんはその人の世話を焼いていたようだ。
ちいさな平屋の建物だった。
入るとすぐ右に台所と居間、正面に洗面所やトイレにお風呂。
手前の廊下を左に曲がると、廊下に沿って南側に寝室、突き当りに納戸と押入れ。
納戸と押入れは「今でいうクローゼットだわ」と、おばあちゃんはいう。
男性は越してくるとき、あらかた家財道具を処分し、貴重品はおばあちゃんに預けていたから、残っているのは日常のこまごましたものだけらしい。
ざっと見回しても、本当にこれといって片付けるものはなく、ベッドやテレビさえなかった。
食器やなんかの台所用品もひとり分だけ。あとはお風呂道具、下着や服が数枚といったところだった。
わたしたちは、手分けして片付け始めた。
わたしは台所でゴミ出しの仕分けを始めていた。
これならすぐに終わるだろうと思っていた。
ところがしばらくすると
「なに、これ、どうしたっていうの」奥からおばあちゃんの声がする。
「まったく、どうしたのかね、だめだ。明日香、ちょっと、」
「なに、どうしたの、」
おばあちゃんは、押入れを開けようとしていた。
建付けが悪いのかびくともしない。
板戸が壁の一部みたいにぴったりはりついている。
ふたりで、ああでもないこうでもないとやってみたが、お手上げだった。降参だ。
お昼過ぎに始めて、のんびりやっていたから、もう三時くらいになっていた。
「ちょっとお茶にしよっか」
おばあちゃんちは歩いて五分くらいのところ。目と鼻の先だった。
こんなとこにこの家があったなんて。
今まで誰からも聞かされてなかったことにわたしは驚き、不思議な気がした。
もしかしたら、お母さんたちも知らなかったのかもしれない。
おばあちゃんちの開け放した縁側に腰かけて、冷たいジュースとお団子を手に取ると、生け垣の向こうに桜が見えた。
道を挟んだ病院の駐車場の桜がきれいだった。
「ホントによかったねえ、中学。よく頑張ったね」
「うん。ありがとね、おばあちゃん」
大変だったのだ中学受験。五年生の終わりから塾にも通った。
この一年好きなゲームも止めたし、出かけるのも控えた。
ホントわたし、がんばったよ。
入学式を控え、おばあちゃんにはお祝いもたくさん貰っていた。
わたしたちは三十分くらいおしゃべりをして、作業を再開することにした。
気合を入れ直してまたその家の玄関をくぐり、奥へ進んだ。
押入れの戸はやっぱり手強かった。
それでも、何度も叩いたり揺らしたりが効いたのか。
突然、板戸が、思い切り開いた。
開いたというより、敷居から外れて手前に倒れてきたのだ。
意外と重さのある板戸だった。
支えようとして、ふたり大きく尻もちをついていた。
「あいたたたたっ、・・・」「いったあ・・あれっ?・・」
目の端に動くものを見たような気がして、
二段になっている上の奥、天板のあたりにわたしは目をやった。
暗闇がぐらりと動いて、そこに、ぼおっとなにかが染み出てきた。
白っぽいなにか・・・。
尻もちをついたわたしたちの上を、それが通り過ぎていった。
一瞬のことだった。
納戸の戸は、上の明り取りの小窓とともに開け放してある。
小窓からは切り取ったような外の晴れた空が覗いている。
窓にきっちりはまっている網戸を、音もなくそれは通り抜けていった。
わたしはポカンとそれを見ていた。
「あ、あの、あれ、あれって、なに?」
呟くわたしに気付きもせず、おばあちゃんは
「もう、年ねえ、何だか、足腰がこの頃、急に弱ってきてね。
え、なに、なんだって・・よっこらしょっと、」
お尻をさすりながら、何事もなかったかのように立ち上がった。
「なに、明日香、いやあね、まだ若いっていうのに
あんたはもう、ほらっ、」
ぼんやりしゃがみこんでいた、わたしの手を引いた。
ばあちゃんには、何も見えていなかったのか。
押入れの敷居には細かい砂利が噛んでいて、戸がロックされたようになっていた。
天井にはこれといって何も変わったところはなかった。
仕切ってある段に足をかけ恐る恐る探ってみたけれど、そこから天井裏に出るようにもなっていない。
いったいあれは何だったんだろう。
せっかく苦労して開けたのに、そこには古ぼけた箱がひとつきりで、他には何もなかった。
中身はどこかの神社かお寺のお札と、紙に包まれた着物のようなものが入っているだけ。ちらっと見ておばあちゃんは自分の家に持ち帰っていった。
ホントにあれはいったい何だったのだろう。
納戸の小窓の明かりが差し込んでいたのだろうか。
そうか、そうに違いない。
帰り道、ぼんやり思い返していたわたしは、家の前で同級生、俊に出くわした。
すぐ目の前にいるのにまったく気が付かなかった。
嫌な奴に会ってしまった。
「よお、明日香、相変わらずの、バカヅラしてんなあ。」
壁に投げたボールをキャッチしている。
「・・・・・・・・」(なによ、気安く話しかけんじゃ、ないっての)
「おい、なにシカトしてんだよ」
こちらにボールを投げるそぶりをする。
「ふんっ、」
わたしは鼻で笑って、横目で睨みつけ(睨みつけたはず)、ゆうゆうと玄関を開けた。
(中学受験に見事合格したわたしに、何いってんだか。
あっ、まだ、知らないのか。ふん、バカずらはあんたじゃないのさ。)
いえたらどんなにスカッとすることか。
先週の卒業式はこれといってなんの感情も湧いてこなかった。
泣いてる子もいたけど、涙なんてこれっぽちも出てこなかった。
ただもうほっとしていた。
もう顔を合わさなくていいんだ。
まあでも、そもそもあいつのおかげで受験勉強に身が入ったのだから、感謝すべきなのか。いやいや、誰があんな奴に。
二年間同じクラスで、さんざんいじめられた。
何が原因だったのか、まったくわからずじまいだった。
上履きはいくつ買い換えただろう。ランドセルもボロボロになった。
おっちょこちょいなわたしで通したけれど。
溝に落ちた。塀から落ちた。犬をかまっていたら、噛まれた。
薄々お母さんは変だと思っていただろう。
それでもわたしは一日も学校を休まなかった。
休んだら負けだと思っていたのだ。
卒業するとみんな当然のように近くの公立中学へ行く。
わたしはそれが嫌で、お父さんとお母さんに一生懸命頼んだ。
学力は足りないし、私立の必要経費はお高い。
渋るふたりに、何がなんでも頑張る。お小遣いも減らしていいし、家のお手伝いだって何でもするから。お願いしますと頼み込んだのだ。
そして、合格した。
四月から女子校だ。ホントによかった。
晩御飯のとき、お母さんの電話が鳴った。
「はい、あ、良子?えっ市立病院?・・・」
お母さんの顔色が変わった。
電話を切ると呆然としている。
「おい、どうした、」
「母さんが、・・・」
おばあちゃんが倒れたという。
ご飯もそこそこに、大急ぎでわたしたちは、病院へ向かった。
何でもない一日が、とんでもない一日で終わりそうだった。
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