《凪の日記④(前編):五月二日》

 柏の葉公園で、川原塚くん達と会った。

 否が応でも《あの頃》を思い出す。

 しかし、《あの頃》は、決して寂しく、苦しいだけではなかった。

 それは、彼が一緒だったから。

 あたしを照らしてくれる存在が、確かにそこにあったから。

 独りではない――たったそれだけのことで人は思いの外、強く生きられるものだ。

 それよりも何より怖いのは、彼の暗い瞳だった。果てのない底を見据えたような瞳は、あたしを不安にさせる。

 どこまでも、どこまでも堕ちていってしまいそうだから。あたしの手も、声さえも届かない遠い、遠い場所へ……。



 お願い。あたしを置いていかないで。

 堕ちるなら、一緒に堕ちていきたい。

 それが例えどこであろうとも。

 穢れるなら、あたしも一緒に穢れたい。

 あたしのせいで、あなたが穢れてしまうくらいなら、綺麗なあたしなんて、必要ない。


* * *


 二週間ぶりに、彼が迎えにきて「おはよう」の挨拶を交わした。

 再びあたしの日常に、彩りが戻る。爽やかな朝の空気は瑞々しく、朝露に濡れる木々の輝きが眩しかった。世界は美しい。

「大変だったね」

 と、涙ながらに、彼を囲うクラスメイト達。彼の人望の厚さが伺える。

 あたしだけの彼ではなく、みんなの彼だった。みんなが彼のことを好きだった。少しだけ寂しい気もするけれど、しかし、そんな風に愛される彼もまた、あたしの好きな彼だから。

 ただ一人、浮かない顔をする人がいることを、この時のあたしは知る由もない。


 放課後のことだった。

 いつも通り、づっくんと下校をしようと思ったその時だった。

「宿連寺さん、あの――」

 そう声を掛けて来たのが、河原塚くんだった。

 づっくんが不在だった二週間、何かとあたしの世話を焼いてくれた、少しやんちゃな男の子だ。

「どうしたの?」

 早く彼と帰りたくて、一秒でも長く彼の隣にいたかったあたしは、少しだけ戸惑いながら、問い返す。

「お話があるんだ。ちょっと良いかな……」

 普段のおちゃらけた様子はまるでなく、声色も切実そのものだった。

「……? うん、大丈夫だよ」

「じゃあ、付いてきて」

「凪……?」

 背後から、彼があたしを呼ぶ。振り返った際、視界の端で、河原塚くんの顔が一瞬だけ歪んだように見えた気がした。

「あ、づっくん! ごめんね、少しだけ待っててっ?」

「わかった!」


 言われたとおりに、河原塚くんの後をついていく。

 普段は、お喋りである河原塚くんが、その道中は一言も発さない。

 何とも言えない居心地の悪さを感じながら、廊下を進んでいく。

 体育館の裏だった。

「宿連寺さん」

 改まった口調で、続ける。

「俺は、宿連寺さんのことが好きです。一緒にいさせて下さい」

 そう告げられた。あたしは驚いた。

 まさか、河原塚くんがあたしのことを好きだなんて可能性を考えたことさえなかった。

「えっと…………」

「唐突だったよね……だから、答えは今じゃなくても――」

「ごめんなさい」

「え?」

「ごめんね……。その気持に応えることはできないんだ……」

「どうして……、答えは今すぐじゃなくたって」

「違うの。多分、時間が経っても変わらないと思うんだ……。だって、あたしには、好きな人が居るから――。永遠を誓った、大切な人が」

 迷う事はなかった。

「それって、もしかして、緑ヶ丘のこと…………?」

 あたしは、こくりと頷いた。

「あははは……そっかぁ〜、そうなんだ……」

「ごめんなさい」

「謝らなくていいよ。今は駄目だとしても、俺は諦めないから。何があっても、何としてでも」

「いや……違くて」

「今日はありがとう。また明日ね、宿連寺さん」

 そして、校舎へ駆けていく河原塚くん。

 取り残されたあたしは、しばらくそこから動くことができなかった。

 校舎裏に植えられた背の高い木々たちが風に揺られて、柔らかな葉擦れの音を奏でていた。

 とても穏やかな春の日だった。



 教室に戻りランドセルを背負って彼と帰路を共にした時、再び日常が戻ったことを実感する。

「河原塚に何か言われたの?」

 心配そうな表情を浮かべる彼。だからあたしは、少しだけ嘘をついた。

「ううん……また、遊ぼうって。そんな話だった」

「そう……? なら良いけど……」

 それよりもあたしは、彼と過ごす時間を、もっと大切にしたいと思った。

 ……しかし、この日を堺に、世界は少しずつ変わっていく。


 翌日のことだった。

 教室に入り、ランドセルの中身を机の引き出しに移し替える最中、空気がおかしいことに気がつく。

 彼を遠目に、クラスメイトたちが小声で何かを話をしている姿が至るところで見られた。

「……みんな、どうしたの?」

「あ、凪ちゃん……緑ヶ丘くんのお話、聞いた……?」

「え? 何のこと?」

「そっか、聞いていないんだ……」

 濁すような、要領を得ない喋り方に、苛立ちを覚える。

「どういうこと?」

「……凪ちゃんも気をつけた方がいいよ」

 さっぱり意味が分からなかった。

「何のこと? はっきり言って」

 あたしは、ムキになって声を荒げる。自分にそんな声が出せる事に驚いた。

「お母さんから、緑ヶ丘くんとは、もう遊んじゃいけないって言われた」

「うちも言われた」

「え……? どうして?」

「どうして、って……ねえ?」

「うん……凪ちゃんは、この街のこと、よく知らないだろうから……」

 この街のこと……?

 確かに、私は転校してきたばかりだけど……。

 未だに話が見えていないあたしに、その子たちは、小さな声で教えてくれた。

「緑ヶ丘くんは、河原塚くんに目を付けられたの。この街では、河原塚くんのお家に目を付けられたら大変だから」

「怖い人たちなんだって。うちのお父さんも、河原塚くんのお父さんの会社からお仕事を貰っていて……河原塚くんの言うことは聞きなさいって」

「昨日、新しくできたクラスのグループラインでね、緑ヶ丘くんとは遊ばないようにって」

「え……?」

 そこから先の話は、よく頭に入って来なかった。

 辛うじて思い出せることは、河原塚くんのお父さんは、地元の有力企業を経営しているらしく、田舎の狭いこの街では、その会社からのお仕事がなければ、食べていけない人がたくさんいるということ。

 また、俗に言う暴力団と深い繋がりがあるというものだった。

 この街では、誰も河原塚くんには逆らうことができない。

 だとしても、河原塚くんは何故こんな事をするのだろう――と考えた時に、昨日の校舎裏での会話が頭をよぎった。

 まさか、あたしがあの時……?

 あたしは、河原塚くんを掴まえて、事情を問う。

「どうして、こんな酷いことをするの?」

「宿連寺さんの幸せのためだよ。俺は将来、父さんの会社を継ぐことになる。だから、一緒にいれば、絶対に幸せになれるから。お金持ちにもなれるし! それに安心してよ。宿連寺さんのことは俺が守るから」

「違う! あたしのことじゃない! づっくんのこと!」

「……そのさあ、『づっくん』って呼び方、不愉快だから辞めてくれないかな」

 バンッと強く壁を叩いた河原塚くんの瞳には怒りを通り越して、もはや憎しみに近い色が浮かんでいた。

 あたしは、怖じ気づいて、震えてしまう。

「言ったはずだよ。俺は諦めないって」

「で、でも、こんなやり方は……」

「え、なに、俺に文句があるの?」

「だ、だって……こんなのひどいよ……」

「仕方のないことだよ。それは、宿連寺さんを悪い虫から守るために必要なことだから。大丈夫だよ。君のことは俺が何とかするから」

 そうして、教室に戻っていった河原塚くんには、あたしの言葉など一つも届かなかった。



 実際に、づっくんが孤立するまで、そう長い時間は掛からなかった。

 教室に満ちていたのは、圧倒的なまでの無関心。

 彼は、まるで存在していなかのように扱われた。

 みな一様に、厄介事には関わりたくはない――と、そんな空気が教室を覆っていた。

 それでも彼は、何でもない事のように気丈に振る舞い続けた。

 強くあろうとした。あたしを守ろうとしてくれた。


 巻き込まないように、と彼は次第にあたしを遠ざけるようになっていった。

 距離を取るようになって、登下校も何かと理由を付けては別々の日々が続いた。

 しかし、遠目からでも、彼が疲弊していることは一目瞭然だった。

 あたしは納得できなかった。それは違うと思ったからだ。

 あたしを守るために彼が傷を負うくらいなら、綺麗なあたしなんていらないと思った。

 例え傷だらけになったとしても、彼の隣を歩きたいと思った。


 教室の無関心は、次第に陰湿ないじめへと変わっていく。

 一向にリアクションを示さない彼に対しては、何をしても構わないという空気になっていた。

 学校という、極めて小さく、排他的な空間において、空気以上に手強い敵はいなかった。

 教師たちもそれを黙殺した。誰も味方がいなかった。

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