第8話 お隣さんとの日常。閉じた世界の幸せ。そして、小さな一歩。

 これがキッカケだったのか。

 それとも、もっと前。雨の日に声をかけたのが始まりだったのか。

 鎖錠さじょうさんは、ちょくちょく我が家に遊びに来るようになった。

 泊まりも込みで。


「……リヒト。起きて」

 朝、エプロン姿の鎖錠さんに起こされ、用意してくれた朝食を食べる。

 日に日に料理の腕前は上達しており、目玉焼きの半熟堅焼き、果てはサニーサイドアップ片面焼きからターンオーバー両面焼きまでこなせるようになっている。


 登校時には一緒に家を出る。

 鍵を閉めたのを確認して数歩足を動かせば、鎖錠さんが小さく手を上げて見送ってくれる。

「……いってらっしゃい」

 いってきますと挨拶を返す。

 同じ学校、クラスのはずなのに見送られるのは、何度経験しても不思議に思う。

 けれど、誰かに見送られるというのは、たとえ笑顔でなくても嬉しいものなんだなと、日々実感を強めていた。それが美少女なら、尚更。


「はい」

 昼には学校までお弁当を届けてくれる。

 そのためだけに制服に着替えて、不登校なのにも関わらず教室に来るのだから、幾日経とうとも噂の種は尽きない。


 最近では鎖錠さんのテリトリーと化している我が家のキッチン。彼女の家はともかく、うちなら朝からお弁当を用意できるのだから、家を出る時に貰ってもいいのではないか。

 そういうと、鎖錠さんは決まって顔を背けて「……別に」と言ってはぐらかす。


 届けることに意味があるのかなんなのか。

 とりあえず、クラス内での彼女のあだ名が『通い妻ちゃん』になったのは、当然と言えば当然の流れだった。


 そうして、授業が終わり、放課後。

 校門の柱に寄りかかり、ぼーっと茜色の空を眺める美少女が立っている。

 通り過ぎる誰もが一目は見て、男子に至っては声をかけようかどうしようか、本人にも聞こえているだろう声量で相談している。


 そんな噂の美少女は、外界の喧騒に眉一つ動かさない。

 光のない、虚ろな瞳。まるで世界なんてどうでもよくって、そのまま黄昏と共に消えてしまいそうな彼女は、僕に気がつくと僅かに黒い瞳を動かした。


「ごめん。待たせた?」

「今――」

 と、言葉を続けようとして鎖錠さんは不機嫌そうに口を閉ざした。

 唇をぎゅっと結び、「……待った」と零して歩き出してしまう。

 その反応に頬がほころぶ。

 きっと、言葉の続きは『来たところ』で、そのやり取りの意味するところを察したのだろう。

 

「なに?」

 露骨に不機嫌そうな鎖錠さんを追いかける。

 私は不機嫌ですとこれ見よがしに顔に書いてあるが、照れ隠しの一種なのではと最近は思い始めている。そんなことを指摘すると『……なにそれ。きも』と、それはもう心を抉る言葉が返ってくるので、胸の内に留めるのだけれど。


 鎖錠さんと連れ立って向かうのはスーパー。

 朝、昼、夜。

 一緒に食事を囲むことが多くなってからは、学校帰りのその足で、買い物に行くのが定番になっていた。こういうのが『通い妻ちゃん』なんて呼ばれてしまう要因なのだろうけど、本人が気にしてないのであえて指摘はしない。


 街灯の下。

 夕日を背にし、歩道に二人の影を伸ばして帰れば夕食の準備となる。

 最近では置き調味料も増えて、使い慣れたとばかりに、冷蔵庫やキッチン棚からノールックで取り出している。


 出来上がった料理を食べて、夜。

 皿を洗ったり、サブスクで映画を観たり。

 一緒に時間を過ごしていたら、寝る時間に。


「じゃあ……おやすみ」

 そう言って、今は空き室となっている妹の寝室へと、鎖錠さんが消えていく。

 その姿を見送って、僕も自室に戻り、ベッドに飛び込む。


 これが、ここ1ヶ月の僕と鎖錠さんの日常であった。

 最初こそ違和感を感じていたけれど、人間どんなことにも慣れはくるもので、いつの間にか普通のことと受け止めるようになっていた。

 ただ、適応したからといって、疑問を抱かないわけじゃない。


 どういう関係なんだろうな、これ。

 常々考えている。


 同級生?

 恋人?

 夫婦?


 それとも、やっぱりただのお隣さん?

 僕と彼女の関係を正確に表す言葉がこの世界に存在しないのか、どれだけ考えても答えが出たことはない。そして、まぁいいかと有耶無耶になる。


 わからないといえば、鎖錠さんの変化。そして、僕の体勢だ。

 翌日の夕食後。

 お腹が満たされ、小さな幸せに浸っていると、いつからか鎖錠さんの両膝の間に納まり、後ろから抱きしめられていることがある。


「なにこれ?」

 そんな僕の疑問に背中の少女は答えない。

 僕も僕で、初めてやられた時は焦りもしたが、その心地良さに身を委ねているうちに考えるのを止めた。


 いやだって。

 背中でおっぱいの主張が凄いし、めっちゃ気持ち良いんだもの。

 時折、だらしなく力を抜いていると、おっぱい枕になっていることもある。天然素材のふかふか。目が覚めていながら夢見心地だ。


 拾った猫がやたら懐いた感じなのかなぁ。

 ……猫にしては育ちすぎだけど。


 この幸せぬいぐるみ状態は最たるものだが、これだけに留まらず鎖錠さんからの接触が増えていた。

 なんとはなしに手を触れてきたり、髪に触れたり。

 その度驚いて、そろそろ心臓が壊れるのでないかと思っているのだけど。

 触れる度、どこか安心したような顔を見せる鎖錠さんに、止めてとは言い出しづらかった。

 人肌の温もりを求めているのかなんなのか。


 僕個人の解釈としては、赤ちゃんが握って離さない安心タオルぐらいのものだと思っている。

 タオルの役目を担う僕としては、嬉しくもあるけど、ドキドキして落ち着かない。


 とはいえ、鎖錠さんとの物理的な距離が零距離になっていても、僕は彼女のことをほとんど知らない。

 家に帰りたくない理由。家の事情。


 なんとなく、母親との折り合いが悪いのかなぁ、と肌で感じてはいる。

 けれども、それは表面的な部分をなぞった程度の理解度で、核心部分には至らない。


 だからといって、鎖錠さんの事情に踏み込みたいかと言えば、そんなこともなく。

 嫌なことに耳を閉ざして、ぬるま湯に浸かるような心地良さと言えばいいのか。

 そんな曖昧な関係が心地よかった。あえて、それを壊したいとは思えない。


 実在主義ではないが、彼女の過去、未来なんて関係はなく、今ここに鎖錠さんと一緒にいる。それだけで良かったし、なんとはなしにこの関係がずっと続けばいいなーと思っている。

 変化のない、閉ざされた世界での幸せ。

 それを間違いと指摘する人もいるだろうけど。

 人間の行動範囲なんて結局限界があって、一人ひとりの世界が箱庭のように閉じているとするのならば、閉じた世界で幸福を求めることはなにも間違ってはいないと思うのだ。


 ただまぁ。

 そういう怠惰な幸せに浸りつつ、曖昧模糊あいまいもこな現状を壊さないようにしながらも。

 前向きに行動するのもありなんじゃないかなぁ、とも思うのだ。

 それは今の関係よりも一歩進んで、幸せな時間を増やそうというおこない。


 幸せなクッションに後頭部を埋める贅沢な状況の中、僕はぬぼーっとした意識のまま鎖錠さんに提案する。


「鎖錠さん」

「なに」

「明日から、一緒に学校行かない?」

 果たして、彼女はなにを思ったのだろうか。 


 返ってこない言葉。先程までのぬるい幸せの静寂とは打って変わり、どこか緊張を孕んだ沈黙に入れ替わった。

 やっぱり、嫌だったかぁ。

 無理強いするつもりはない。母親でも先生でもない僕が、彼女に対して真面目に学校に行きなさいなんて、説教染みた台詞を言えるものか。

 だから、この提案は鎖錠さんを想ったわけでなく、ただ単に僕の我儘。


「一緒にさ、授業を受けて、机をくっつけてお弁当を食べて。

 それで、一緒に帰るのも楽しそうだなって、思ったんだ」


 本当にそれだけ。

 だから、「嫌ならいいよ」と僕は言う。楽しくないなら、行く意味はないから。

 断られるならそれまで。というか、ほぼ間違いなく断られると思ったいたから、

「……わかった」

 と、至極あっさりした了承が僕の耳を打ったことに驚いた。


 鎖錠さんの顔を見ようと身体を起き上がらせようとしたが、後ろから強く抱きしめられて封じられる。

 そして、後ろから僕の肩に顎を置いた彼女は、心を明かすように耳元でささやく。


「……リヒトと一緒なら、いいよ」


 劇的な事件があったわけじゃない。

 過去に出会っていたこともないし、危ないところを助けたわけでもない。

 けれども、なにもなくても、一緒にいるだけで彼女は確かに変わり始めていて。

 そして、その変化に僕が少しでも関わっているのなら、少しだけ誇らしく、嬉しかった。

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