第6話 捨てられて、死にかけた猫を拾う。そして、空き缶タワーを捨てられた。

 鎖錠さじょうさんとスーパーから肩を並べて帰路に着く。

 荷物持ちを申し出たら、感情のない真っ黒な目を向けられたが、結局なにも言わずに袋を押し付けてきた。内心は全く読み取れないが、頼りにされてると解釈する。

 多分、面倒くさくなってるだけなんだろうけど。


 薄い雲がかかった、真っ暗な夜空の下。

 点滅する街灯だけを頼りにマンションに向けて歩く。その間、なにも話すことはなく、静けさが漂うアスファルトの道を黙々と進み、マンションに到着した。

 エントランスのオートロックを開け、二人でエレベーターに乗り込む。

 階層は同じ。

 僕はボタンの前に陣取り、鎖錠さんは後ろの壁に寄りかかって、ただぼーっと増えていく数字を見つめていた。


 そして、6階。

 RPGゲームよろしく、前後に並んでエレベーターを降りる。

 マンションの共同通路なんてそう長いモノじゃない。10歩も歩かないうちに鎖錠さんちの玄関前に到着した。


「じゃあ」

 そう言って、持っていた荷物を手渡そうとすると、玄関前に立つ鎖錠さんの様子がおかしいことに気がついた。

 扉の前で立ち尽くし、動く様子がない。

 横から見える彼女の表情は憎々しげで、嫌悪に満ち満ちていた。


 玄関になにかあるのか?

 目印か、なにか。見ただけでなにかしらを判断できるようななにかが。

 スーパーからこれまで。機嫌こそ良くないが、ここまで明確な嫌悪を表に出すことはなかった。変わったのは、玄関に着いた瞬間。豹変と言っていいほど、彼女の表情は変わっていた。


 だから、鎖錠さんの心を不安定にするなにかがあるんじゃないかと、彼女の身体を避けて覗くように、玄関を確認する。……と、それはあった。

 ドアノブに引っかかる、小さなポシェット。

 それ以外は、僕の部屋の玄関扉と変わらないことから、あれが鎖錠さんの心を揺り動かすモノなのだと理解できた。


「……っ」

 鎖錠さんは微かに俯き、二の腕を掴む。

 握る力は服に深い皺ができるほど強く、手の甲に血管が浮き上がるほどだった。

 そして、その瞳はいつかの雨の日に見た、なにもかも諦めたような、虚ろな瞳。

 僕には捨てられ、死にかけになっている猫にも見えた。


「……あー」

 頭をかく。どう声をかけるべきか悩む。

 ただ、言葉こそ選ぶが、やることはかつてと変わらない。

 だって、見てみぬフリはできないから。それこそ、少し目を離したら、身体が冷たくなっているかもしれない。死にかけの猫が辿る末路なんて、誰にでも想像できる。


 それぐらいに、今の鎖錠さんは危うげだった。

 同情なのか。それとも偽善か。

 どうあれ、やらないよりはマシだと、気まずい空気を払うように、努めて大きな声を上げる。


「鎖錠さん」

「……なに?」

「えっと」

 言葉がつっかえる。けれど、絞り出す。

「うち、泊まる?」


 女性を誘うなんて初めての経験だ。心臓はうるさく、嫌な汗が背中を伝う。

 初めて家に誘った時よりは、親しくなったと思う。けれど、縮めた距離に比例して、緊張の度合いは増しているように思う。

 卑しい下心はないけど……勘違いはされない、よね?

 息を飲み、鎖錠さんの反応を待つ。


 緩慢な動きで振り返った鎖錠さんは、迷子の子供のような顔をしていた。

 光のない、真っ黒な瞳でじっと僕を見つめる。そして、なにも言わずただ小さく、いとけない仕草で、コックリと頷いた。


 この日、僕は人生で初めて、女性と一夜を過ごすことになった。



 ■■


 で。

「……汚い」

「ごめんなさい」

 なにも考えずに誘ったはいいものの、日常化していた問題に直面する事態となってしまった。

 両手で顔を覆う。現実から目を背けたい。


「……ほんと、汚い」

 だが、隣に立つ鎖錠さんは逃避を許してはくれず、ただただ辛辣な感想を吐き出した。

 彼女に僕を傷つける意図はないだろうが、羞恥と気まずさが合わさって、鎖錠さんの言葉は鋭く僕の心に突き刺さる。ぐふぅ。


 前回とは違い、食材を冷蔵庫で保管するためリビングに通すしかなかったのだが……まぁ、端的に言って汚部屋。

 ゴミこそまとまっているが、床には洗濯して取り込んだだけの衣類が小山を作り、ボーリングのピンのようにペットボトルが無規則に並んでいた。

 こんなことになるなら、日頃から掃除してればよかった。


 当然、そんな思いは後の祭だし、未来を予知できない時点で、やるわけがないのだけれど。


「だらしない」

「……すみません」

 ごもっともすぎる言葉に俯いて、もはや謝るしかない。

 なんかもう、しょうがなかったとはいえ、家に招いたことを後悔している。


「……はぁ」

 鎖錠さんが嘆息する。

 呆れられたかと心臓がビクッと一際跳ねた。

 動揺のまま、彼女を注視していると、どういうわけか洗濯物に手を伸ばした。


「え……と、あの?」

「……歩く隙間もない。

 これじゃあ、ご飯どころじゃないでしょ」

 シャツを手に取り、「洗ってるよね?」という彼女に「畳んでないだけです!」と声をうわずらせながら答える。


 膝を床に下ろした鎖錠さんは、正座をして洗濯物を畳み始める。

 僕が招いておいて、部屋を綺麗にさせる手伝いをさせるとか、酷すぎない?

 これが恋人相手だったなら、別れ話を切り出されているのは間違いなかった。恋人じゃなくて良かった、とは思えないけど。色々な意味で。


 あまりの申し訳なさに、止めさせるべきか、それとも一緒にやるべきか、判断に迷う。

 身体を左右に動かし、あ、う、え、と壊れた機械のように声を漏らすことしかできない。

 そうして戸惑っていると、鎖錠さんが洗濯物を畳みながら「それに」と口を開く。


「借りっぱなしは、嫌だから」

 シャツを畳んでいた手が止まる。

 下を向いていた鎖錠さんの顔が僕を向く。視線が交わる。それも一瞬で、まるで逃げるように俯くと、「それだけっ」と語気強く言い、作業に没頭するように畳作業に戻った。


 その反応に意味するところはわからないけど。

「それは、ほら。

 お弁当作ってもらってるし」

 借り貸しはなしだ。

 そう言うと、鎖錠さんは皮肉げに笑う。


「下手くそで常識知らずな弁当だけどね」

「いや美味しいから」

 反射的に返す、鎖錠さんは言葉に詰まる。

 素っ気なく「そう」とだけ返ってきて、まともに僕の言葉を受け取る気はないらしい。

 本当なんだけどな。

 信用ないなー、と思っていると、「ところで」と彼女が薄く細めた目を向けてくる。


「あの積み上がった空き缶はなに?」

 辛辣な物言い。

 鎖錠さんが顎で示すのは、部屋の隅っこでピラミッド型に積まれた空き缶タワーだ。

 あー。あれかー。

 足の踏み場のない、物だらけのリビングにおいても、そのカラフルなタワーは異様な気配を放っていた。

 じっと、咎めてくる鎖錠さんの目に耐えきれず、そっと目を逸らす。

 聞き取れるか聞き取れないか。微妙な声量で僕はボソボソと言い訳を口にする。いや、説明する前から言い訳な時点でアウトなんだけどね?


「それはー、そのー。

 捨てるの面倒くさくなってと言いますか、

 溜めてるうちにどこまで積めるかなー、なんて思ってしまいまして」

「で?」

 語気が強い。思わず背筋を伸ばしてしまう。

「はい。

 で、捨てるのもなんとなく勿体なくなったと言いますかですね?

 綺麗に積まれてると思いません?」

「それで?」

 ダラダラと冷や汗が止まらない。

「あ、ちゃんと洗っているので、きちゃなくはないですよ?

 ほんと、ほんと」

「そう」

 有耶無耶にするべくおちゃらけて言うと、鎖錠さんは冷たく言い捨てて立ち上がる。


「捨てる」

「……はい」

 僕の努力怠惰の結晶が、瞬く間に崩れ去った瞬間であった。

 あー。

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