第四章 僕らの行方

二十五、『ありがとう』にはまだ早い

「今日は長丁場になるからね。お腹は空いていないかい? 忘れ物はない? いつものローブじゃないからスカートの丈とか気になるかもしれないけれど、おかしな動きをしなければ見えたりしないからそこは気にせず薬づくりに集中するんだよ」

「おかしな動きって何よ。もう二度目だもの、振る舞い方は心得たわ」

「でも……」

 他に確認しておくべきことはないかと指折り数えながら思い浮かべる。その様子を見てユイルが笑った。

「なんだかお母さんみたいね」

「君の? だとすると、僕はいったい何歳だ」

「そうじゃなくて。世間一般のお母さんというのかしら。でもその中でもきっと過保護なお母さんね」

「僕が、過保護? いやいや、そんなはずはないだろ」

「あなたが過保護でないのなら、世の中のほとんどは放任主義よ。きっとそう」

「そうだとしたら君のお母さんは――」

 リッドは言いかけてやめた。悪い癖だ。

 しかしユイルは怒ることも呆れることもなく、リッドの態度にふふと笑った。

「濁す必要なんてないわ。その通りだもの。母は超放任主義ね」

 言って撹拌棒の柄に触れる。ユイルの家の印と言ってもいい紋様が刻まれていたはずだが、そこには無理矢理削りとったような痕が残るだけだった。

「ついにこの日が来たわね」

 ユイルが広場を見渡した。

 先日訪れた聖堂前広場には、朝の早い時間だというのに更新審査の様子を見るために大勢の人が集まっていた。

 当初の予定では、更新審査のための薬づくりはマルシャンの店の倉庫で行われる手はずになっていた。

 しかし市場での騒ぎを聞きつけた審査側が、大勢の野次馬が狭い場所に集まれば事故が起きかねないと警戒し会場の変更を言い渡してきた。

 それが二日前のこと。

 急な変更と、集まった人々の視線と、何もなくても湧いてくるであろう緊張とでユイルが浮き足立ってしまうのではと心配したが、それは杞憂に過ぎなかった。

 くだらないやりとりができるくらいには、ユイルはいつも通りだった。

「いや、いつもならとっくにイライラして僕を叱りつけているから、これはある意味緊急事態なのかもしれないな」

 眉間に皺を寄せ胸の前で腕を組み、リッドはわざとらしく言った。

「あなたは……私をそういう風に見ていたのね」

 冷たい視線が向けられる。

「そう、それだよ」

 嬉しそうに言うとユイルの頬が膨れた。しかしすぐに頬にためた息を吹き出して、その流れで声を上げて笑う。

「もう。リッドったら。まさかこんな心持ちで審査の日を迎えるなんて、考えもしなかったわ。あなたのせい……違うわね、あなたのおかげね」

 ユイルはそこまで言うと急に真面目な顔を見せた。

 そしてこんなことを言うのだ。

「リッド。ここまで本当にありがとう」

 と。

「ありがとうを言うにはまだ早いんじゃない? お礼はすべてが終わってからなんだろ」

「覚えていたの?」

「何としても『ありがとう』と言わせてやろうと、それはもう必死だったからね」

「必死? どの辺が?」

 ユイルは視線を上げた。頭の中で今までのことを振り返っているようだ。しかしお目当てのものは見つけられなかったようで、リッドの顔をまじまじと見つめて「どの辺が?」と繰り返した。

 もういいよと指先で頬を掻く。

「何にしても、まだ早いよ」

 リッドは目の前に並べられた調合用の道具を順に見た。もう少しすれば、ここで王室御用達の更新審査が行われる。

 調合が無事に終わったところで一区切り。

 本当の終わりは、審査員が更新を認めたときだ。

 しかしユイルは首を横に振った。

「今伝えておきたいの。そうすれば私、悔いなく審査に挑めるから」

 妙な言い回しだとリッドは感じた。

 『悔いなく』とはどういうことか。

「ありがとうなんて、終わってからいくらでも言えるじゃないか。それを『悔いなく』だなんて……」

「そんなにおかしいことじゃないでしょ」

 ユイルは誤魔化すように笑って、道具の前に立った。大鍋に撹拌棒。石製のすり鉢はもうだいぶすり減っていて前にそろそろ新しいものを買ったらとすすめたことがあるが、この減り具合がちょうどいいのだと愛おしそうに撫でていた。そのすり鉢に触れる手は、今日も優しく、慈しみを感じる。

 使い慣れた道具に囲まれているせいか、彼女の立ち姿はとても堂々として見えた。

 ユイルはリッドの方に顔を向け、にっと口角を上げた。集まった人たちの中から調合屋を呼ぶ声が届いていたが、ユイルはリッドから視線をはずそうとしなかった。

「リッド。ありがとう。ちゃんと最後まで見届けてね」

「それは約束したから――」

 リッドの声は途中で群衆の声に掻き消された。

 広場に審査員が現れたようだった。

 正体不明の調合屋の少女がどんな風にして薬を作るのか興味津々のシャルムの住人たちは、会場に少しの動きがあっただけでざわめき、そして期待に胸を膨らませる。

「それじゃあ、またあとで」

 声は聞き取れなかった。しかしユイルの口もとはそうリッドに告げたようだった。

 リッドはユイルのそばを離れ観衆の一人となる。

「調合屋ユイルで間違いないな」

 広場の中央に作られた審査会場にたどり着いた審査員の一人が、観衆に負けじと大きな声を張り上げた。

 ユイルは言葉もなく頷く。

 審査員は三人。初老の男たちは聖職者に似た揃いのローブをまとい、鋭い目でユイルの一挙手一投足を見張る。まだはじまりの号令も掛かっていないというのに、聖堂前の広場には得も言われぬ緊張が蔓延り始めていた。

「飲まれなければいいけれど」

 せめて観衆がユイルに好意的であればいいのだが。良からぬ輩が紛れてはいないかとリッドは周囲を見回した。

 雑貨屋のマルシャンや肉屋のコレールとオネット、それに花屋の主人などは早い時間から最前列を陣取って心強い応援団となってくれている。まだ来てはいないがどこかのタイミングでサージュも駆けつけてくれると言っていた。

 それ以外の人だって、もちろん興味本位で見に来た野次馬も少なからずいるが、たいていは自分たちが世話になっている調合屋の今後を気にかけてくれているという人ばかりで、今のところは歓声の中に酷い野次が混じるようなことはなかった。

 しかし気になる姿を見つけた。

 広場の警戒に当たっている兵たちの姿だ。これだけの騒ぎになっているのだからそういうものが動員されているのは何もおかしいことではない。

 おかしなことではないが――

「ちょっと多過ぎやしないか?」

 リッドは見つけられる限りの兵士の数を数えた。

 この場で起きるかもしれない騒動を警戒してということであれば、この平和なファブールという国においては異常な数に思える。その上、どの兵もまるで何かとような重装備をしているのだ。

 リッドは唾を飲み込んだ。

 嫌な空気だと感じた。

 群衆の声はあたたかなものばかりだというのに、背筋につうっと冷たいものを感じる。

 嫌な予感にダメ押しをしたのは、会場の隅に見つけた一人の男の姿だった。

「…………どうして、君がこんなところに」

 ユイルがいる場所を挟んでちょうど反対側にラパスが立っていた。こんなお祭り騒ぎには興味がないであろう友がそこに立っているということは、リッドにとっては何よりも確かな不安材料となる。

 何が起きる!?

 リッドは今一度広場を見渡した。

 何かを思いつく間もなく、審査開始の号令が掛けられた。


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