二十二、重ねた手と手

 魔女の森は今日も穏やかに時間が流れている。

 時折鳥や獣の鳴き声が聞こえる以外は目立った音もなく、部屋の中ではしゅんしゅんと湯の滾る音が際立った。

「あれは夢だったのかしら」

 ぼんやりとした様子のユイル。薬を瓶に詰めるその手もとが危うい。

「こぼれるよ」

 見かねたリッドが声をかける。我に返ったユイルは慌ててレードルの傾きを戻した。すんでのところで間に合わず、漏斗と瓶の口のつなぎ目から薬がわずかに垂れた。

 街に出掛けてから数日、こんなことが何度かあった。

「そんな風になるくらいなら、また街に行けばいいのに」

「行ったわよ」

「どうせまた夜にこっそりだろ。昼間だとまだ恐いのかい?」

「べ、別に恐くなんてないわ。一人ではまだ道に迷ってしまいそうだから、だから納品以外で行こうとしていないだけで……」

 動揺するあまり、せっかくきれいに拭き取ったところに新たに薬をこぼしてしまいそうになる。

「だって、あれからあなたは忙しそうだから」

 かと思うと拗ねたような声色で不満をぶつける。

 どんな表情でその言葉を発したのか気になってユイルの方に目を向けた。

 バチッと視線がかち合うとユイルはすぐさまあさっての方向に顔を向けてしまった。

「毎日顔を出しているじゃないか」

「でもすぐに帰ってしまうでしょ」

「ここに来るだけでも結構時間がかかるんだもの。本来の仕事の多さを考えたら大目に見て欲しいところだよ」

 リッドは言いながら作業を手伝う。詰め終わったものを納品用の木箱に詰める。

「あ、そっちのはまだよ」

 視線をそらしていたはずのユイルが目ざとく見つけていくつかの瓶を端に避けた。

「それはマルシャンの店用ではないの?」

「これは例の審査用の薬よ」

「審査用ならこんなにたくさんなくて大丈夫だよ」

 ずらっと並ぶ瓶を見てリッドは言った。

「審査員に提出する前に効果を試したくて」

「君が作ったんだから問題ないでしょ」

「初めて作る薬だって言ったでしょ」

「自分では試さなかったの?」

「…………私、飲めないの」

「飲めない薬?」

 それはいったいどんな薬なのかと頭を捻るとユイルが首を横に振った。

「飲めないのはお酒」

「ごめん。意味がよくわからないんだけど」

「それ、酔い覚ましの薬なの」

 そう言ったユイルはバツが悪そうな顔をしているように見えた。

「お酒は薬にも使ったりするから調合するには飲めた方がいいのだけれど、どうしても苦手で」

 気まずさの理由はそういうことらしい。

「意外だな」

 リッドは言った。

「ほら。そう言うでしょ。そうよね、私は三百年も生きている魔女だものね。お酒ぐらい飲めそうに見えるわよね」

「いや。魔女とか三百年とかそういうことを抜きにしても、ユイルに酒が苦手そうなイメージがなかったからさ」

「それはどういうこと」

「いや、てっきり――」

 ラパスやサージュと同じ類いかと思っていたとは、けっして褒め言葉にはならないだろう。言いかけた言葉が何であったか、疑る目つきでユイルが距離を詰める。

「てっきり?」

「いやいやいや。その先はまた今度ということで」

「そんな逃げ方で何とかなると思っているの?」

「いやあ……ああ、そうだ! 効き目! 薬の効き目を試したいんだろ? うってつけの人がいるよ」

 ユイルの目つきはまだ鋭いままだったが、薬の話となると無視するわけにはいかなかったようで、不服そうにしながらも食いついた。

「それで、そのうってつけの人というのは誰のことなの?」

「ええと、それは」

 リッドは友の顔を思い出す。

 もちろん『酔う』という言葉とは縁遠いラパスに酔い覚ましなど無用だろうから彼に頼むというわけではない。

 ラパスに倣うということだ。

 リッドは懐を探って革袋の重さを確認した。

「まあ、これだけあれば何とかなるか」

 予定外の出費は痛いが言い出したからには何とかするしかあるまい。

「十人くらいなら満足に飲ませられるだろうし、薬の効果を試すというならそれくらいでいいだろ?」

 言うとユイルは少し考えてから「そうね」と答えた。それは承服したようにはとうてい思えなくて、今度はリッドの方が眉をしかめた。

「何かご不満?」

「審査のためだから念には念を入れてもう少し人数を増やせればいいんだけれど」

「残念だけど、僕の財力ではこれ以上は難しいよ」

 無償で協力してくれそうな面々を思い浮かべてみたが、どの顔も酔っている姿を想像できない。

「仕方ないわね」

 ユイルは重たい息を吐いた。

「それじゃあ決まりだ」

 リッドもふうっと息を吐いた。こちらは諦めなどの意味を込めたものではなく、どちらかと言えば前向きなものだった。

「これでいい結果が出れば、審査に向けての対策はだいたいできたということでいいね?」

 調合の際に現れていた魔女としての癖はうまく隠せるようになった。気を抜いたときなどにはまだ出てしまうこともあるようだが、誰かの目があれば問題ないという。

 道具に関する問題もクリアした。

 審査で使う場所も準備が進んでいるし、偽の経歴についても詰めの段階まで来ていた。

「もう一息だね」

 喜ばしいことのはずなのに、そう言うとなんとなく寂しさがやってくる。

 ユイルも同じことを感じたのだろうか。神妙な面持ちで酔い覚ましが入った瓶を見つめていた。

「調査の仕事の方も、もう少しで終わるよ」

 いたたまれなくなってそう言ったのだが、逆効果だった。余計に湿っぽくなって、気まずい空気が漂う。

「終わったら、どうするの?」

 ユイルの言葉にはいつもの力強さがなかった。

「終わったら、また旅に出るよ」

「……そう」

「僕がいなくても平気かい?」

「何よそれ」

「だって僕がいないと一人で街に行くこともできないんだろ?」

「できるわよ」

「夜の街じゃなく、昼間の街だよ?」

「きっと、できるようになるわよ」

 ユイルは顔を上げた。伸びた背筋。キリッとした目。胸を張り、きれいな鼻はツンと上を向き。口もとには不敵な笑みまでのせている。

 しかしそれはリッドの目には強がっているように映った。

「そうか。それなら良かった」

 それなのにリッドはそう言って、酔い覚ましが入った瓶を背嚢に詰め込んだ。

 それじゃあ、と言って扉に手をかける。

 不意にユイルが隣りに立ってリッドの手に自分の手を重ねた。細くしなやかな指はリッドの手の甲に触れただけ。掴むでもなく、そこから離れることもせず、そっと触れている。

「どうしたの?」

 手が触れているだけなのに、ユイルの鼓動が聞こえてくるようだった。

 ユイルは黙っていた。

 息が詰まりそうになる。

 もう一度「どうしたの」と尋ねると、ユイルは真っ直ぐにこちらを見つめた。

 ついさっき見せた強気な姿はどこへ消えたのか。

 今にも泣きそうな顔は、市場で同じような表情を目にしたけれど、そのときよりもずっと心細そうに見えた。寂しげで悲しげで、だけどそれらを一生懸命堪えているように見えた。

「審査が終わるまでは、いてくれる?」

 言ってからきゅっと口を真一文字に結んだ。

「さあ、どうだろう。そのつもりではいるけれど、雇われの身だから何とも言えないなあ」

 茶化すように言うと、軽く握られたユイルの拳がリッドの肩の辺りを弱々しく叩く。

「いてくれるでしょ?」

「何だよ。君らしくないなあ」

「……仕方ないじゃない。あなたとはいろいろあったから」

 弱々しく言う姿に、つい癖で頭を撫でてやりそうになるが、リッドはぐっとこらえて微笑んだ。

「なんだ。やっぱり僕がいないとダメなんじゃないか」

「そんなこと言ってないわ」

「それじゃあ、いいの?」

 いじわるをしてみる。

 ユイルは悔しそうな顔を見せたが、それを振り払うように首を横に振った。彼女の長い髪がさらりと揺れる。リッドの鼻先に薬草の香りが触れた。この香りはどうしてこんなに心地よいのだろうとリッドは口もとをいっそう緩ませた。

「ごめんごめん。わかったよ。約束する」

 リッドは扉から離した手をくるりと返し手のひらを上向きにした。重なっていたユイルの手を受け止める形になった。

 力を込めたのはユイルの方からだった。

「本当ね? 約束よ」

 ユイルは照れくさそうに、しかしユイルらしく堂々とした様子で笑ってみせた。

「ああ。約束だ」

 リッドも笑ってユイルの手を優しく掴んだ。


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