第三章 彼女の気持ち

十三、そんなこと……にゃい

 魔女の薬というものはすごいものだと実感した。

 あれだけ疲れていたのに、朝起きると肩こりや腰の張り、体のだるさはすっかりなくなっていた。

 これを魔女の薬だと知らずに使っている人々は、その効力の凄さに逆に不信感を抱いたりしないのだろうかと不思議に思う。

「それならこっちもお願いね」

 ユイルは小瓶に入った薬を机の上に置いた。

「これは?」

 昨夜飲んだ滋養強壮の薬とは違う形の瓶に入っている、さらりとした液体。水よりもまださらさらした質感で、瓶を振れば微かに泡立った。

「昨日買ってきてもらった材料で作った薬よ」

 ユイルは言う。こちらはリッドとは正反対で、眠そうな目をごしごしこすり凝り固まった肩をほぐすように腕を大きく回していた。

「まさか徹夜したの?」

「少しだけ寝たわ」

 言ってるそばから大きなあくびが飛び出した。

「魔女の森の植物を使えないからいろいろと作業が難しくって」

 たとえばその植物の効力を最大限引き出すのに相性の良い薬草を入れたりするのだが、そのの役目を果たす植物が魔法の力を借りない普通の植物である場合、調合には多大な時間と労力がかかるらしい。

 昨晩リッドが材料を届けたときにはすっかり暗くなっていたので「調合は明日ね」ということになっていた。

 しかしユイルはその『明日』を待ちきれなかったという。

「難しかったって、本に書いてある通りじゃいけなかったってこと?」

「レシピがだいぶ大雑把な書き方だったのよ。薬づくりの基本は口伝えだから、こういうことはときどきあるの」

「こういうこと?」

「書いていない『コツ』が必要っていうこと」

「それを見つけたの?」

「ええ、もちろんよ」

 眠さに負けずに胸を張る。

「どんなだったの?」

「じっくり、ことこと」

 ユイルは撹拌棒でかき混ぜる仕草をしてみせた。

「長時間、ときどきかき混ぜながら材料を煮込んで、トロトロに溶けてきたら軽くつぶす。その時間とタイミングが肝心なの。それを濾過してもう一度鍋に入れて、この石を入れるんだけど、タイミングが違っていると上手く反応してくれないのよ」

「石?」

「そう。この石が灰汁みたいなものを取り除いてくれるみたい。こんなやり方は私も初めてだから半信半疑だったけれど」

「それは大変な作業だったね」

 言いながら薬が入った瓶を眺めていたら、ユイルが不機嫌そうにそれを奪った。

「それで終わりだと思っているでしょ」

「え? 違うの?」

「まだまだ。そこからまた濾して鍋に戻し、ぐっと沸騰させる。いきなり強火にしなければいけないから、かまどの管理が本当に大変だったわ」

 ユイルは机に突っ伏した。

「聞いているだけで疲れてくるね」

「でしょ?」

 不平をこぼすように言いながらも、どこか得意げな気配もある。つまりは、自分がどれだけ頑張ったかをリッドに伝えたいのだろう。

「沸騰したらすぐ火から下ろして鍋に香草を振りまく。そして自然に冷めるのを待って――」

「出来上がり?」

「最後にもう一回濾すの」

「それはそれは。よくできました」

 リッドはユイルの頭にぽんと手をのせた。自然とやってしまったことで、やってしまってからマズイと後悔したが、疲労困憊のユイルにはただちに反撃に転じる気力は残っていなかったようだ。

「子ども扱いなんて……回復したら覚えてなさいよ。さっき滋養強壮の薬を飲んだところだから、ちょっと仮眠をとればすぐに元気に――むにゃむにゃ」

「こんなところで、そんな格好で寝たら余計に疲れるよ」

「そんなこと、むにゃ、ない…………にゃい」

 なんとか会話は成立している。しかし彼女の意識がまだ保たれているかどうかは不明だ。

「ほら、寝室に行った方がいいよ。なんなら運んであげてもいいけど、僕に運ばれるのも寝室に入られるのも、きっと嫌でしょ?」

「嫌だし、寝ているひまもないもにょ……わらし、まだ、……やることが…………」

 ついに寝息が混じった。

 それでも残りの気力を振り絞り戻ってこようとするユイル。

 勢いをつけて体を起こし、ぱちんと自分の両頬を平手打ちした。

 ぎゅっと目を閉じ口を閉じ。

 くしゃくしゃの顔を見せたかと思うと、目を大きく見開いて「よし!」と大声を張り上げた。

「一日くらい休んでもいいと思うよ」

「そうはいかない」

「君ならきっと大丈夫。審査の当日もしっかりやって、更新はつつがなく行われるさ」

 君は実力があるものと言うと、ユイルは当然よとはっきり頷いた。

「それじゃあ」

 休んでくれるね、と続けたつもりだった。

 しかしその先は彼女の厳しい言葉にかき消されてしまった。

「私は大丈夫よ。問題はあなたよ! あなたをどうにかしないと、おちおち寝てもいられないわ!」

「え?」

「何、あれ。どうしてあんなものを掴まされるのか、まったく理解できない」

 例の花のことを言っているらしい。

 初めから最高品質のものを選んでくるなどとは期待していなかったけれどと言われて少しへこんだが、ユイルの言葉に、待ってましたと口もとを緩ませた。花屋の説教を耐えた甲斐がある。

「材料選びが原因で失敗したらどうしてくれるの」

「そんなこと言われても」

「協力してくれるって言ったでしょ!」

「だけど僕の専門分野じゃないし」

「それでも何とかしてくれないと困るのよ」

 ここだ、と思った。

「それじゃあ僕と一緒に行って選び方のコツを教えてくれないか」

「一緒にって――」

 ユイルが苛立ちと困惑が混じった表情でリッドを見る。

「あなたは一度聞いたことをすぐに忘れるたちなの?」

「ものによるかな」

「昨日の話は?」

「昨日の話のどの辺のことだろう」

 リッドは前の日にユイルとした会話を事細かに再現した。挨拶のあたりから始めたせいか、ユイルの表情は困惑よりも苛立ちの割合が増したようだった。

 この辺かな、と買い物のリストを渡されたくだりにたどり着く。

「私、言ったわよね」

 ユイルの顔はいっそう険しくなっていた。

「『昼間だと、見えすぎてしまうから。だから行きたくないの』って、そう言っていたね」

「なによ。覚えているじゃない」

「覚えているからこそ言っているんだ」

 リッドの態度にユイルはきゅっと眉を寄せた。

「昨日、街を歩きながら考えたんだ。何が見えすぎるんだろうって」

 ユイルの反応をうかがいながら話を進める。

「はじめは人の目につきやすいという意味だと思っていたんだけど、違うよね?」

 視線が揺れたのを見逃さなかった。

「街には、君が見たくないと思うものがたくさんあるんだろうね」

 ひたと、その場の空気が静止したように感じた。

 ユイルは何も言わない。否定も肯定もせずにふうっと湿り気を帯びた吐息をこぼした。気持ちが影響したのか、吐息の量には見合わぬほどに両肩が下がった。

 そうよ。

 一言だけそう返ってきたのは、リッドが静寂に居心地の悪さを感じ始めた時だった。

 わかっていながらそれでも街に誘うリッドを、彼女はどう思っただろう。ことの深刻さを理解しない分からず屋だと思っただろうか。理解しながら無理強いをする無神経な男と感じただろうか。

 どちらにせよ、彼女が求めていた協力者の姿からは大きくはずれたものに映っていただろう。

 それでもリッドはやめなかった。

「それでも僕は言うよ。一緒に街に行かないかって」

 ユイルの不機嫌が膨れた。

 彼女はそれを必死に隠して冷静さを装う。 呆れた顔を作って、苦々しい笑みをたたえた。

「行きたくないって言ったでしょ」

「わかってる」

「それじゃあこの話はもう」

「でも僕は君を街に連れて行きたいと思っている。君に見たくないものがあるように、僕には見せたいものがあるんだ」

「何それ」

「うん。僕も言っていてよくわからなくなっている。でも街を歩いていて、君に見せたいものを見つけてね。君の『見たくないもの』と僕の『見せたいもの』と、並べてみないと何も始まらないってそんな風に感じたんだ」

 言ってから、リッドは眉をしかめた。自分自身の言葉を反芻してみても、なんともしっくりこないのだ。

「ちょっと待ってね」

 ユイルに断って一度頭を整理する。

 言っていることは間違っていない。間違ってはいないが、大事なことが抜けている。

 ああそうだ、と手を打った。

「つまりはこういうことだ。君は『行きたくないの?』って聞かれたら『行きたくない』って答えると思うんだ」

「そうね」

 何度も言ってるじゃないとユイルは言った。苛立ちを通り越して今はすっかり呆れている。

「でもさ、『行きたい』って思ったことはないかと聞かれたら、答えは違ってくるでしょ?」

 リッドは正解を探りながら、彼女の心に問いかけるための言葉を紡いだ。

「行きたいか……?」

 それはなんとかユイルに届いたようで、反射的に「行きたくない」という言葉を打ち返していたようなやりとりではなくなった。

 何度かの瞬きのあと、驚いたような顔をしてリッドを見た。

「行きたいって、思ったことはないかって」

 ユイルの目は遠くを眺めていた。

 部屋の中はもちろん、窓のすぐ外にある森の景色にもとどまらない、ずっと遠くだ。

 その目で眺めているのは、二百年前のシャルムの街なのか、それとも足を向けようとしてこなかった現在の街なのか。ふっと優しい顔つきになったかと思うと、次の瞬間にはほんのわずかではあるが表情がこわばったりもする。

 その中でユイルの目がきらりと光る瞬間があった。それは、過去でもない今でもない、のシャルムを眺める眼差しのように思えた。

「どうかな」

 リッドはできるだけ穏やかな声色で言った。

「私は、」

 ユイルはうつむいた。かと思うと、すぐに顔を上げ、リッドの顔を見つめた。

 ユイルは戸惑っているようだった。

 小首を傾げ、一度、ゆっくりと瞬きをしてから

「思ったことがないって言ったら、嘘になる。でも、行きたくないのに、そんなのっておかしいじゃない」

 何かしらの感情を堪えきれなくなったようで、へらっと笑った。

「でも、両方あるんだろ?」

「それはそうなんだけど」

「どちらとも向き合うべきだと僕は思うけどね」

「『どちらとも』というのは、行きたいか行きたくないかだけじゃなくて、他のことも言っているんでしょ?」

「さすが。理解が早い。そこまで理解できたなら、行ってもいいかなあって気持ちになってきたんじゃない?」

「そう簡単な話ではないのよ」

 それはそうだろうとリッドも思った。二百年という長い時間をかけて膨れ上がった『見たくない』という気持ちはリッドの言葉くらいで解けるものではない。

 しかしだからといって引き下がるわけにはいかなかった。一度焼くと決めたおせっかいは、最後までやりきらなければ何ともむず痒くなるものだ。

「でもこのままでいいだなんて、君も思っていないんだろ?」

 自分が言われたなら「余計なお世話だ」と言い返したくなるようなセリフを吐く。

「それは……」

 案の定ユイルは悔しそうに次の言葉を探した。咄嗟にはずした視線は着地点を探してキョロキョロとさまよう。しかし止まる場所を見つけられず、萎縮した様子でリッドの顔色をうかがった。

「ここでいろいろ考えていないで、一度行ってみればいいんだ」

「その一度で取り返しのつかないことになるかもしれないのに?」

「取り返しがつかないって何にとって? 森? それとも君?」

 畳みかけるように言うとユイルが怯んだ。

 しまった、と続けそうになった言葉を頭から一掃した。不安を解消しなければ話は先に進まないというのに。

 リッドは挽回の言葉をひねり出す。

「大丈夫だよ」

 凡庸な言葉だった。

 そんな言葉でどうにかなるとは思わなかったが、意外なことにユイルが興味を示した。勢いで口にした言葉だったが続けないわけにはいかなくなった。

「何かあったなら、そのときは一緒に考えよう。何とかなるよ。僕がついている」

 動揺を悟られぬように、わざとふてぶてしく言った。

 ユイルははじめ、何を言われたか理解できていないようだったが、次第に飲み込めたようで、予期せぬ言葉に目を丸くした。

 まんまるの目とぽっかり開いた口は、驚いているというよりは呆れている風に見えた。

「何それ。何の気休めにもならないわ」

 不安や苛立ちといった感情はどこかに追いやり、いたずらっぽい笑顔に転じている。幸いにも悪くなっていた空気が少しは改善されたようだ。

「そう? ひとりか二人かというのは大きな違いだと思うけど」

 気を良くしてリッドは言った。

 笑ってユイルの顔を真っ直ぐに見つめる。

「僕は君と、昼間のシャルムの街を歩きたい。そこにあるものを、君にたっぷり見せてあげたいんだ」

 ダンスの誘いのように、跪いたりはしなかったがそっと右手を差し出した。

 しかしそううまくはいかないものだ。

 それでもユイルの不安を拭いきれなかったようだ。ユイルはリッドの手をじっと見つめたまま考え込んでしまった。

 リッドは彼女の答えを待つしかなかった。

 チッチッチッチと柱時計の針の音が鮮やかに耳に届く。そのリズムが答えを急ぐ気持ちを煽っても、リッドはやわらかく笑んだまま待ち続けた。

 どれくらい待っただろうか。

 やがてユイルはコクリと頷いた。何に頷いたかはわからない。しかし何かを決意したようで、ようやくその言葉を発した。

「リッド、私は――」

 待ちに待った瞬間だというのに。

「あの……格好つけたあとで言いにくいんだけど手が限界で」

 たまらずリッドが根を上げる。

 つりそうになった腕を引っ込めたところに、入れ替えでユイルの手が差し出されていたのを見てから「まずい」と思ったが、そのときにはもう遅かった。

「……決心が揺らいだわ」

 頼りない姿にそう至ったらしい。

「もう一度チャンスを」

「あとで説得からやり直しよ」

「それはどこから?」

 恐る恐る尋ねてみるとユイルはにやりと笑った。

「物覚えのいい調査員さんだから、はじめからにしましょうか」

「ええっ、そんなあ」

「でも二回目だから、今度はまったく同じじゃダメよ。もっと心に響く言葉を用意しておいてね」

 そう言って、ユイルは部屋から出ていった。

 リッドは、仮眠という名のふて寝に入ったユイルにしばらく放置される羽目になった。


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