あなたが好きです

碧空

あなたが好きです

「ねえ、ねえってば!!」


私が目が覚めると教室にはほとんど人の気配はなく、あたりはすっかり茜色に染まっており、先程までぐっすりと眠っていた自分の口元にはよだれの跡が…まぁ、あるにはあったがマスクをつけていたのでぎりぎり事なきを得た。よし、きっと何も問題ない。急いできりりとした顔を作り、自分に声をかけていたであろう人を見上げる。

その人はぱっちりとしたつり目で、人によっては気が強そうでちょっと怖い...と感じられてしまいそうだ。鼻筋はすっと通っており唇はふっくら。そして見事な黄金比。自分が知っている限り、彼女は控えめに言ってもテレビの向こうにいる有名人に多少なりとも張り合えるのではないかというほどに、それはもうすこぶる美人だった。


「いや寝てる間にヨダレ垂らしてたじゃん絶対に。なんでそう何事もなかったみたいな清々しい顔してんのさぁ」


だめだった。何故か目の前にいる仁王立ちで困り顔をした少女には、私が考えていることが全部バレているように見えた。問題がないと思っていたはずなのになぜなのか。むむ、と顔をしかめてしまう。


「いや、なんでバレたの?みたいな顔してるけどマスク見ればわかるもの…っていうかこの時間まで寝てるのも問題だからね!私が起こさなかったらいつまで寝てたの!!っもう!」


少女は端的にそんなことを伝えると、軽く私の頬をつねった。むすっとした表情で目を薄く細めてこちらを見ている。まあそりゃあ、彼女の立場からしたらそんな顔にもなるだろう。そんな表情をしてても彼女はとても絵になる。見ているだけで幸せになるものだなあ。

そんな不純なことを考えていたことが伝わったのだろうか。彼女はますます目を細めると、頬をつまむ指に更に力が込められた。

痛い。痛いってば。ごめん、ごめんて。放課後寝ててごめん。あと、起こしに来てくれてありがとう。

ああ、この辺りは思ってるだけじゃなくて伝えないと。コミュニケーションをするのはあまり得意ではないけれど、自分の気持ちも伝えられないような人間になるつもりは毛頭ない。いや、彼女に関しては死んでも絶対に言えないこともあるけど...。まあそれに、おそらく彼女は本気で怒っているわけではないのだ。だから彼女は謝罪を求めてそんな顔をしてるわけじゃない。


『ありがとう』


たどたどしい仕草で私は彼女に伝える。いままでの人生で自分の為にも周りのためにもしっかり学んできてはいたが、外で使う機会があまりなかったからか、どうにも慣れていない動きになってしまう。

しかしそんな私の様子を見た彼女は先程まで薄くしていたはずの目をまん丸にして、そしてそのあととても美しい、太陽のようなまぶしい笑顔を見せてくれた。


『どういたしまして!』


本当に嬉しそうに、二人しかいない教室で夕焼けに染まりながら、彼女は私の前で手を動かしてくれた。私はそれを見て目を細めた。

この光景が見たくて私は頑張ったと言っても過言ではないかもしれない。でも、私には君に返せるものが何もない。ずっと一緒にいてほしいなんてそんな甘えた事、私から言えるわけがない。

でも、君と同じ世界に立てるこの3年間、いや、せめてこの時間だけでも──

ああ、ほんとうに。本当に、私の世界は君のおかげで眩しいくらい明るい。




彼は生まれつき、全くと言っていいほどに音が聞こえないのだそうだ。

小さい頃の私は正直あまりよくわかっておらず、なんか大変らしいというふんわりとした感覚でしかなかった。

そして私はというと、五体満足、なんなら顔の形も整って生まれてきた。当たり前以上に恵まれた体。過剰な恵みは正直それだけで厄介な事もある。

見た目だけで誤解されることが多いが、私は元々気の強いわけではなかった。周りにそうであれと望まれるうちに、なんとなく小学校の高学年くらいになるまでには自分からそんなふうに振る舞うようになっていったのだ。学校って大変だな、と感じていた。

そんな日々の中で、稀に会う彼は自分のありのままを見せても彼特有の寛大さ、柔らかさで許してくれた。許すというのはおかしいのかもしれないが、でも私にとってそれはだったのだ。彼は私に私じゃない私を家族以外で初めての、本当の意味での仲良しさんだった。


以降、時間があると彼の家に突撃しては一緒に遊んだり、ご飯を食べたり。近所であることをいいことに、隙さえあれば私は彼とずっと一緒にいた。学校にいないのは寂しいけど、彼は彼の世界で頑張っているのだ。私も私で学校頑張ってくるからね。お互い頑張ろうね。

と、思っていたある冬の日。高校受験の勉強で暫く彼に会えなかった私は、高校合格の知らせを持って彼の家に訪れた。そんな私を待っていたのは同じ高校の合格通知を持った彼の温かい笑顔。

私はそれを見て一瞬現実が理解できなかった。え?夢かな、夢なのかな。あっ、ほっぺ痛い。ええ、ああ、そっか、これは夢じゃないのか。


ああ、すごい頑張ったんだろうな。普通の高校に行くことにどれだけ悩んだんだろう。どれだけのことをどれくらいしたのか、全部想像でしかない。私にはわからない。わからないのだ。

私は思わずその場で泣きくずれて、そんな私に驚いた彼はオロオロしながら慌ててリビングに置かれていた箱のティッシュときちんと畳まれたタオルを差し出した。ああ、そんな気遣いをするところもなんだか彼らしい。

泣いちゃってごめんね。本当に嬉しいんだよ。今年の春から一緒の高校で頑張ろうね。私も邪魔にはなりすぎないように手伝うから。


さて、あとは、私も頑張らなきゃ。彼とお話したくて手話の勉強はいっぱいしてきたけど、いつか、いつか絶対にこれを。今は勇気がないけど、でも絶対に私から伝えてみせる。君はいつも柔らかな態度で私に優しくしてくれるのに、きっとお互いにそうだとなんとなくわかってるのに、それでも一番大事な言葉だけは伝えようとはしないから。ぜったいに、君から私に触れようとしないから。

ちがうんだよ、君がいいんだよ。君だから、一緒にいるんだよ。耳が聞こえないとか、私はそんなの、そんな事関係ないんだよ。だから、だから。

だから、私に勇気が持てるようになるまで、もう少しだけ、待っててね。


『あなたが好きです』

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