第5話

 バタン。

 ドアが閉じられた音を聞いて、僕は目を覚ました。



「……あれ。ここ、どこだろ」



 体を起こしてみる。豪奢なお部屋だ。しかも、背の高くてきれいな侍女までいる。



「……お目覚めですか」

「あ、はい。あの、えと、ここは……」

「ここは、ラスカーノ公爵の屋敷です」



 ラスカーノ公爵家の屋敷。なるほど、だから僕は彼女の顔を知らなかったのか。

 シャルルさんのとこにいる侍女は全員おぼえてる。だからおかしいと思ったんだけど……。



「……え、ラスカーノ公爵?」

「はい。ご主人様があなたを連れてきたのです」

「ええええ……」



 ラスカーノ公爵ご本人が、僕を?



「あの、公爵様と僕って面識……ありましたっけ?」

「……本当に、記憶が混濁しているのですね」

「はい?」

「いえ。あなた、とても可哀想な人ですねと」



 そう言って、テレサさんは僕の首筋に人差し指を立てた。

 ……あれ、どうして僕は彼女の名前を知ってるのだろう?



「もう、?」

「あ、あの……な、なんの、話……ですか?」



 わけがわからないけどその行為に、不快感が滲み出てくる。僕は自分の体を抱きしめながら身を引いた。



「……おもしろ」

「え?」

「いえ」



 僕から離れた彼女は背を向けて、カップに水を注いだ。鮮やかできめ細かい橙色の髪の毛が踊る。



「悪夢でもみていたのですか。酷くうなされていましたが」

「う、うん。ちょっと」

「マキマという方は、恋人かなにかですか?」



 驚いて、渡されたカップを落とす。シーツに水がこぼれ、侍女は舌打ちをした。



「い……妹、です」

「そうですか。何度も何度も、寝言でおっしゃっていましたので」

「……髪」

「はい?」



 新しくカップに水を注ぐ彼女の髪の色を見て、僕は吐き気が込み上げてきた。

 鮮やかな橙色。

 僕は、なんだかよくわからないけれど、この場にいてはいけない気がしてベッドから降りた。早く確認しておきたいことがあった。妹のことが、心配だった。

 しかし、



「どちらへ?」

「あ、あの僕、帰らないと……」

「いけません」

「ど、どうして……通して、ください」

「いけません」



 僕の前に立ちはだかるテレサさん。彼女は僕より頭一個分以上も背が高いから、いや僕の背がちいさいから、見下ろすように視線をあてられる。

 威圧感。

 僕は身を縮ませながらも、出口を目指した。けれど、おかしなことに、僕は壁際に追い詰められていた。おかしいな。僕は出口を目指していたのに。どうして背に、壁の感触があるのだろう。彼女との距離は、一定なのに。



「どうして、あなたはそうまでして生きているのです?」

「え……」



 テレサさんは、冷たい瞳で僕に問いかけてきた。

 どうして生きているの?

 それは……なんでだろう。考えたこともなかった。



「搾取され、犯されて、利用されて。あなたにとって不幸な出来事の連続。それはきっと、これからも変わらない。あなたは誰かの奴隷として生き続けることになる。それがわかっていて、どうしてあなたは生きているのです?」



 この人は、僕に自殺しろと言っているのだろうか。

 そんなことを言ってくる人は、初めてだった。



「テレサさんは、優しいんですね」

「は?」

「だって、僕のこと心配してくれてる」

「―――」



 無愛想な顔が一瞬、歪んだ。



「みんな、僕のことを道具みたいに使うから。そうやって心配してくれるの、初めてだから。僕、うれしいな。ごめんなさい、最初はなんだか怖い人だなって――」



 ばしん。乾いた音がした。

 あれ。

 ほっぺが痛い。



「なに、勘違いしているのです」

「え」

「私が優しい?」



 ばしん。目線が右から左に移動した。両頬が熱くて痛い。



「そんなわけ、あるはずない」

「うぅぅぐぅっ」



 首にテレサさんの指が食い込む。息ができない。

 前言撤回。やっぱり彼女は恐ろしい人だった。

 必死にもがく僕を嘲笑うように、指の力を緩めたり強めたりを繰り返す。

 僕は魚のように口をパクパクさせて酸素を求めた。



「勘違いも甚だしい。私は侮蔑しているのです。あなたの生き様に、あなたの染みついた負け犬根性と女の匂いに」

「あ、ぐ……ごめ、なさ……っ」

「誰に、何を謝っているつもりです? いい加減、謝罪の言葉になんの意味もないということに気がついたらどうです? あなたは何度謝ってきたの? それで何か解決した? 解決していないからこうなってるのです。そしていつもあなたは謝る側にまわっているから、立場は変わらない」

「ひぎっ」

「ほら、すぐ意識を飛ばそうとしない。それは逃げです。ただの逃避。事態はなにも変わらない。悪い癖ですよ――エルさん」



 狭まる意識。僕を蔑む二つの目。緩むことのない拘束。

 僕は、このまま死んでもいいと本気でそう思った。



「そこまでだ、テレサ」



 不意にそんな声が部屋に響いて、僕は床にへたり込んだ。



「お嬢様」

「何をしている」

「……哲学?」

「バカか、おまえは」



 どこかで聞いたことのあるその声は、テレサさんを押し退けて僕と視線を合わせた。

 金色のツインテール。

 右手の義手が僕の頬に触れる。



「どうして……フレデリカさんが」

「ここは、わたしの家だよ」

「……そっか」

「そうだよ」



 彼女は、泣きそうな笑みを浮かべていた。僕に触れた義手が震えている。フレデリカさんは僕を安心させようと必死に笑顔を取り繕っている。そんな気がした。



「テレサ」

「はい、お嬢様」

「どういうことだ」

「どういうこと、とは」

「とぼけたら殺すぞ」

「………」



 フレデリカさんが立ち上がり、テレサさんの胸ぐらを掴み上げる。

 僕と同じくらいの身長だというのに、背の高いテレサさんよりも迫力があった。



「なぜ彼女がここにいるのかと訊いてる」

「ご主人様が連れてきました。シャルル・ココ伯爵令嬢の屋敷からです」

「お父様が……それに、シャルルだと?」

「彼はシャルル様の飼い犬です。そしてご主人様もそれを気に入っている」

「おい……おいおいおい。おいおいおいおいおい、待て意味がわからない。彼? どこに男がいる。お父様が気に入ったそいつは、男? それも意味がわからない。どういうこと?」

「ふふ、ははは」



 混乱するフレデリカさんをおもしろおかしく笑うテレサさん。

 僕は、二人の視線を受けて、なにも言わずただ俯いた。



「まさか」

「はい。彼は、男ですよ」

「本当……なの、エル」



 僕は、静かに頷いた。諦めとか今後の不安とかを噛み締めながら。

 ああ、これでフレデリカさんも僕を彼女たちのように扱いはじめる。

 あの衛兵のように。シャルルさんのように。侍女たちのように。



「僕は……もう何もしたくないです」



 ほぼ無意識に、ボロボロと言葉が溢れてきた。



「犯されたくない。触れられたくない。僕は一人で静かに暮らしてたい。お金も要りません。無理なら殺してください。もう苦しいのも辛いのも痛いのも嫌だ……」

「エル」

「フレデリカさんも僕を犯すんでしょ? 僕が男だから、道具みたいに性欲処理に使うんでしょ。シャルルさんがすぐに治せるから、指だって折ったりお腹を開かれたり目玉を抜かれたり魔物に犯させたり――」

「エル、わたしはそんなこと、しないよ」



 視線を合わせたフレデリカさんは、涙を流しながら僕の手を握った。

 硬くてゴツゴツとした機械の感触。

 体温の通わないそれが、なぜだか心地よかった。



「もうきみを辛い目になんて合わせない。酷い目にも、痛い目にも合わせない。絶対に」

「そんなの、嘘だ」

「嘘じゃない。わたしがきみを守る」

「どうせ、僕の体目的でしょ」

「心外だな。わたしは、本当に……純粋な意味できみが好きなんだ。きみを守りたい」



 彼女はくしゃくしゃに顔を歪めて笑った。



「わたしは、きみのためなら国だって捨てる。世界を敵にまわしてもいい。もう、二人で逃げよう」

「……それは、ダメだよ」



 だって、フレデリカさんはこの国の英雄で。

 公爵令嬢で。



「いいんだ。今の地位も役職も何もかもどうだっていい。きみのそばにいられるなら、なにも要らない」

「僕、なにもできないよ」

「なにもしなくていい」

「僕、料理も下手で、運動も苦手で、頭も悪いし」

「心配ないよ。全部わたしに任せてほしい。なんたってわたしは、最強だから」



 言って、彼女は僕をお姫様抱っこの要領で持ち上げた。



「だから、一緒に逃げよう」



 それは、なんて魅力的な提案だろう。

 シャルルさんやあの衛兵、そのほか僕を男だと知っている人間がいない国で、またいちからやり直せる。人間関係のリセットができる。

 たしかに、新しい国で暮らすことに不安はあるけれど、でも彼女と一緒なら。

 僕を守ってくれると言ってくれた、フレデリカさんとなら。



「でも、行けないよ」

「どうして」

「妹の……治療費を稼がないと行けないから」

「妹……?」



 そう、妹のマキマは病弱でベッドから動けないのだ。

 重い病気でまいにち大量の薬を飲んでいる。彼女が大人になれば治ると医者から言われているけれど、薬を飲み続けなければ死んでしまうのだ。



「マキマを置いていけないよ。妹には、僕しかいないんだ」

「……失礼なことだとは重々承知なのだけれど、エル」



 フレデリカさんは、困惑した様子で僕に言った。



「今朝、役所に行ってきみのことを調べさせてもらった。きみに許可なくきみの個人情報を閲覧したことについては、本当に申し訳ないと思ってる。けど、どうしても知りたいことがあったんだ」

「ど、どうして……し、知りたい、こと?」

「きみの家族だよ。わたしは本気できみと結婚したかった。でもわたしは、きみにフラれているからね。この一ヶ月、わたしは悩みに悩んだ。どうしたらきみがわたしを好きになってくれるのかを。

 そこでコペルニクス的転回を――」



 真顔でなに言ってるのだろうか、この人は。

 僕は首を横に振った。もう聞きたくないと。

 でも、彼女の口は止まらなかった。



「きみがダメなら、その周囲を堕としてしまえばいいと考えついた。きみは、『こゝろ』という文学小説を知っているかい? 東方から六〇〇年ほど前に伝わってきた名著で――」

「あ、あの、僕は……!」

「すまない。悪い癖だね。簡潔に説明するよ」



 違う、そうじゃない。

 僕は、もうそんな話を聞きたくないだけで。



「ともかく、わたしが知ったのは……きみは、六年前からあの家で一人暮らしをしているということだった」

「……っ」

「家族はいない。母親は死去。父親は認知されていない。そして妹は」

「や、やだ……」



 言わないで。

 頭がいたい。頭がいたい。頭が、頭が、頭が。

 頭蓋骨に亀裂が入り、そこから掻き広げられて中身を覗こうとしているような。

 そんな痛みと不鮮明な記憶が入り混じる。



「六年前に」

「―――」

「事故で死んでいる」

 

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令嬢と奴隷 肩メロン社長 @shionsion1226

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