猫としてのノートパソコン

萌木野めい

猫触りたい

 夜十時。美術大学のアトリエ棟で一人、千草は大きなため息をついた。

 

 今日は十二月二十八日。アトリエには千草の他、誰も居ない。昼間に同級生達が使っている時は忙しなく音を発している工作機械達、糸鋸、ボール盤、電動ろくろなんかは全ての動きを止めて、全く別の何かになってしまったようにように、しん、と、それぞれの躯体をそのままに暗い部屋の隅に佇んでいる。この時間に一人でアトリエに居ないと見られない景色だ。

 千草はこの景色はどちらかと言うと好きだったが、この景色を見る時は必ず、焦りや不安が共にあった。作業に追われていないとこの時間に一人でアトリエに居ることは無いからだ。


 千草はセミロングを雑に纏めて捻りあげた黒髪のお団子頭に、全身が埃まみれの黒いつなぎ姿だ。足元はこれもペンキだらけのコンバースのスニーカーで、最近は思い出せる限りずっとこの服装だ。

 アトリエは昔ながらのだるまストーブを焚いているが、流石に十二月末の夜は寒い。千草は作業机の上に放り出してあったマフラーとユニクロのダウンジャケットを羽織る。ダウンジャケットはストーブに近寄りすぎて裾が溶けたので作業用に格下げしたものだ。

 大学一年生の頃は、つなぎってとっても変!と、それだけで友達と笑い会った記憶がある。大学一年生の時は何であんなに、向こう見ずで垢抜けなくて、あんなに無意味に希望に満ちていたんだろう? 千種は暗い気持ちになって、頭をぶんぶん振った。


 千草が何故こんな時間まで作業に追われているのか。それには理由があった。有名なグループ展に出展出来る選抜五人の学生に選ばれたのだ。グループ展の課題は、子供が遊ぶことが出来る屋外アート作品だった。学生と教員により各々の作品に投票をする授業で、千草は雲の様な形の滑り台をプレゼンして採用されたのだ。はちゃめちゃに喜んだ千草だったが、喜んでいられたのは束の間だった。


 千草が他の学生はほとんどが素材に木材を選んでいる中でチャレンジとして敢えてFRPを選んだのだが、それが裏目に出てしまった。FRPというのはFiber Reinforced Plasticsの頭文字を取った言葉で、繊維強化プラスチックのことだ。町中の立体看板や遊園地のリアルな造形物なんかは大体これで出来ている。ガラス繊維の扱いがどうにも難しくて、作業は当初の予定の半分も終わっていない。作業時間を甘く見積もり過ぎていたのだ。

 千草は止む無く北陸の実家への帰省を返上し、年越しで作業することにした。本当は今頃は実家のこたつで猫を撫でながら両親と姉と甥っ子達で鍋でも囲んでいる予定だったのだ。こたつでホカホカになった猫の毛の熱さや鍋の湯気、甥っ子達の騒ぎ声が一気に千草の頭の中によぎった。


(あー、もう! ついてないなあ。自分のせいだけど)


 千草はもう一度ため息を付く。

 唐突にストーブが換気のアラームを響かせたので千草はびくりと身体を震わせた。何だか情けなくなって千草は、もう一度深い溜息をを付いた。



(はー全然終わってないけど今日は疲れたからもう無理。とりあえず寝よう)


 千草はここの所、連日大学のアトリエ棟に泊まり込んでいる。アトリエには千草と同じ様な状況になった先輩方が代々使い続けて来た寝袋があるのだ。

 女の子なのに泊まり込みなんて汚いとか言ってくる人もいるけど、そんなのは聞き流している。千草は、良い作品を作ることに比べたら泊まり込みなんて屁でもないと思っていた。ちなみに風呂は夜が明けたら留学生寮まで行って台湾人の友達に二百円払えば解決する。寮生以外使えないシャワールームにボイラー室経由でこっそり入れてくれるのだ。


 千草は絵の具で汚れた流し台でいつものように歯を磨くとストーブを消す。作業机の下に潜り込むように寝袋を敷くと、つなぎだけ脱いでパーカーにジーンズの格好になると、その中にすっぽり入る。

「何故作業テーブルの下で寝るのか?」の理由は、アトリエの壁の棚に収納されているデッサン用の石膏像達にある。それらが寝ている間に地震で千草の上に落ちて来たら確実に死ぬからだ。あと、トンネルの中みたいで地味に楽しかったりもする。寝袋は安物なので潜り込んで直ぐは寒いが、自分の体温が移って温まってくると直ぐに眠気が来る。目がとろんとし始めた時、千草は重要な事を思い出した。


(ノートパソコン! 作業机の上に置いたままだ。忘れてた)


 入学と同時に購入したノートパソコンは、千草の所有物で唯一の金目のものだ。もし盗まれでもすれば買い直すお金などとても無い。入学と同時に購入した型落ちのパソコン。同級生達は殆どが新モデルを買っている中、千草は上京費用にうっかりノートパソコン代を入れ忘れていたので型落ちを購入する以外の選択肢が無かった。

 電子レンジを買うか新型ノートパソコンを買うかの選択に迫られた千草は、電子レンジを選んだ。でも、そんな風にちょっと惨めな理由で千草の元にやて来たノートパソコンを、千草は気に入ってもいた。


 千草はがばりと寝袋をめくって這い出す。そして、ごつん!と作業机の裏側に頭を強打する。「いったあ!」と小さくない声を上げてしまうが、しんと静まり返ったアトリエに声がこだまして余計に静かさが際立った。誰かに笑って欲しい所だが言わずもがな一人だ。

 千草はよれよれと立ち上がって机の下から這い出し、机の上のノートパソコンを手に取った。電源を繋いであったノートパソコンはバッテリーがとても熱くなっている。これもこの型落ちのパソコン独自の症状らしい。

 千草はノートパソコンをぱたんと閉じて両手に抱きしめると、もう一度かがみ込んで寝袋に足を突っ込んだ。一緒に寝袋に入っていれば盗まれないだろう。しかし、どういう姿勢でノートパソコンを持ったまま寝袋に入ればいいだろう。枕にしようかと思ったが流石にそれは壊れそうだ。千草は迷った末、バッテリーがほかほかに温まったノートパソコンをお腹の上に乗せた。もぞもぞと体を動かして、何とか寝袋のチャックを閉じた。


(これで安心……って、え?)


 千草はお腹の上に乗せたノートパソコンの感覚に猛烈なデジャヴを感じて、思いを巡らせた。

お腹の上にあったかくてちょっと重い何かが乗ったままで寝ようとしている、この感覚。


(これ……完全に猫だ! 実家の……)


 普段はつれないのに千草が寝る時だけ、何故か絶対に腹の上に乗ってくる、とっぷりした八歳のキジトラ。とんちゃん。物理的な感覚がもたらす記憶は凄い。とんちゃんの毛のにおい、空気に舞った抜け毛が朝日に光る感じ、とんちゃんを無理矢理どけた時のふてぶてしい表情、布団からずり落ちそうになってきゅっと爪を立てる感じが一気に千草の脳内に押し寄せてきた。

 千草は特に何とも思っていなかった無かったとんちゃんと過ごした感覚が強烈に恋しくなって、思わず足をばたばたさせた。とんちゃんに触りたい。


(絶対に、課題終わらす。実家に帰る! とんちゃんを腹に乗せて寝る!)


 千草は年季の入った寝袋の中で一人、固く決意した。挫けそうになっていた心にぐっと力が漲るのを感じながら、千草はノートパソコンの温かさをとんちゃんとして味わいながら、目を瞑った。

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