おしまいに

(少し乱文になっていますが、これはこれで語りに熱があるので、そのままお出しします。最後になりますが、どうかお付き合いの程を)


 人間を書くとはどういうことだろう?


 自分は人間を描くことは慣れているが、書くことに慣れていない。

 習熟している描くことの方法論を、書くことにもってくるのが理解の近道になるのではと考え、この評論ではそれを行った。


 絵と文は一見すると、何のつながりもなさそうに見えるが、人間を表現する場合には、どちらも共通して、演技の要素が発生する。

 

 この演技の要素を完成させるには、絵も文も変わらない。

 シンプルな作業の積み重ねをするだけだ。


 一度に一つの作業を終わらせ、それを積み重ねていくだけだ。

 なのでその作業について、色々と書いていこうと思う。


 そもそも、構成、文体、それらの技術を学ぶことの意味は何だろう?

 それはキャラクターの演技に集中するためだ。


 絵描きや文筆家は、キャラの演技に集中しなければならない。

 読み手に伝えるのは構成でも、文体でもない。


 この作品にでてくる人間・キャラが「何を伝えたいのか」という演技だ。


 技術はあくまでも技術だ。学びさえすれば、誰にだって運用できる。

 これらの習得は目的ではない。目的はこの先にあるのだ。


 仕組みを腑に落ちるまで練習して、考えなくても自然に再現できるようになれば、気楽に次の作品に取り組めるようになる。何を言わせたいのか、何を伝えたいのか? そういった演技に集中できるようになる。

 

 人間を書くとは、人間を知ることだ。

 キャラクター類型でも、キャラクターの性格シートでもない。

 人間を知ることだ。

 これは絵も文章も本質的な違いはない。


 人に関する知識が十分にあれば、特定の個人に集中し、その人物が持つ「違い」に集中できるようになる。その人のどこが他の人と違うのか?それに注目すると、対象と強調して、キャラクターにできる。


 キャラクターとは何か? 一言でいうと、「他とは違う人間」だ。

 特異さをもつことによって、表現の力、表現するだけの権利を得ている。


 私はカクヨムで始めて呼んだ小説は、とある高校生作家の小説だった。


 私はそれを読み、なるほどとおもった。

 一見キャラクターっぽく振る舞ってはいる。


 しかし、これを書いた者は、世の中を何一つ見てないと愕然とした。

 まるでそれは一本の輪郭線だけで書かれた、ヒトのようなモノだった。


 中にと感じたのだ。


 人の形をしているが、あきらかに人ではなかった。

 身体の内から外に吹き上がってくる欲求を感じ取れない。

 セリフを言う何かだった。


 彼らは人間を書く前に、いくつもの段階を飛ばしていた。

 ことさらその説明はする必要がないだろう。


 絵画やアニメーションと違って、小説には美術解剖学に相当する、人間の内面に対するアカデミックな分野というものがない。強いて言えば行動心理学、認知心理学といった分野だが、これらを中心に据えたとしても、人間は書けない。


 キャラクター類型という様式、型、文体で楽をしようとしてはいけない。


 ヒトの演技とは、いってしまえば悩み、葛藤、ドロドロとした解決不能な、汚らわしい、汚穢のような何かだ。それを書けば、文体は勝手に後から形になる。


 お気に入りのキャラクターだけではなく、人の全体を捉える必要がある。

 人の全体を捉えることができれば、きっと多様な方向へ進んでいける。多面的な才能が得られるだろう。それの言葉が意味するのは、多様なキャラクターが作れるということだけではない。

 

 君の才能を使い切ることを避けるということだ。


 だってそうだろう?


 人を描くのに、人の一生は短すぎる。

 絵や文の才能が尽きるなんてことは、本来ありえないはずだ。


 ……さて、キャラクターを作る上で、学ぶべき相手はなんだろう?

 間違いなく人だ。しかし、書くべきは人ではない。キャラクターだ。


 写真を撮っても、それは写真だ。優れた人間の描写とは、コピーとは異なる。

 関節や筋肉の動き、感情の流れを正確に書いたとしても、心理学や解剖学の知識を試すテストには合格するだろうが、それをしたいわけではないだろう?


 人を学ぶのは、「実在感」をキャラクターに出すためだ。

 キャラクターの特徴を誇張したり、逆に過剰に抑え込むことで、そこに活き活きとした生命に満ち溢れたキャラクターを生み出そうという話なのだ。


 私達が小説という物語の中で動かそうとしているのは、人という物質だ。

 当然、実世界でもそれがどのように動くのか、それを理解しないといけない。

 リアリティから飛躍するためには、現実を基盤にしないといけない。


 では何から始めたらいいのだろう?


 まずはシーンのキャラクターをどう演技させるか?

 そこを決める。何を伝えるか、ポイントをはっきりさせよう。


 あえて強めのシチュエーションを提示しよう。


 ・妻に粉をかけた優男を殴りたいならどうする?


 ・命の恩人を騙したいならどうする?(彼は騙されるのをわかって騙される)


 ・何も知らない無垢な子供に、犯罪の片棒を担がせるならどうする?


 そいつは、「「何がしたい?」」


 身体と顔の態度が示す感情が明確であれば、セリフはいらない。

 動作のあと、何を喋るかは、最後に考えてもいいくらいなのだ。

(初稿は仮のセリフと思うくらいがちょうど良い。書き終えたらキャラクターが完成し、きっと書き換えたくなるはずだ。)


 あるひとつのことを伝えるのに、どんな動きが必要なのか?

 対応する動きを一つ考えて、実際に演じてみたうえで、演技を要約するのだ。


(ためしに初稿が完成した後に、盛り上げたいシーン、見返すとなにか分かりにくいといった、シーンに対してやってみるといい。書きながらはとてもできないはずだから、ブラッシュアップでやろう。これも書き直すつもりでやってみて欲しい。)


 ではその演技とはなにか?


 演技とはいつもやっていることだ。


 なじみの店員の前、違反切符を着る警官の前、上司の前、クソ生意気な子供の前、全ての場面で、君は同じように振る舞えるだろうか?


 人間は自分が置かれている状況に対応して、ある程度、その態度を変える。

 状況が求める立場にあった反応を引き出すのだ。


・独裁者

・奴隷

・子供

・大人

・上司

・部下

・友人

・恋人

・おばかさん

・研究者


 まだまだ山ほどあるが、キャラクターは小説内では役割を意識し、それを踏まえた動きをするはずだ。文章を通して表現されるキャラクターが、その役割をはっきりとストーリ―の中で提示できるかどうかは、彼らが何を望み、どういった状況に置かれていて、どうしてそれを望んでいるのかということを、最低限知らないといけない。


 これが演技だ。


 私たちがやろうとしているのは、ある特定のキャラクターを通して、何かを表現することだ。そしてそのキャラに、何が起きているのかを読み手に伝えることだ。


 伝えるべきことを、一度に、一つづつ、明確に、表現しよう。


 一文一意という言葉があるが、まさにそれだ。

 そこから出発して、文章の中でつなぎ合わせて演技に深みを与えていく。


 演技で出すべきは喜怒哀楽といったテンプレートの感情ではない。

 原始的な感情だ。


 それは欲求と拒絶、アクセルとブレーキに属する感情だ。

 あるいは生きようとする感情と、殺そうとする感情だ。


 怖れ、貪欲さ、飢餓感、冷酷さ、傲慢さ、その種の負のイメージだ。

 あるいは、生物が生得的に持っている感情といっていい。


 これは原始人でも理解できる。


 さて、構成を学んだばかりの文章でありがちなのは、こういった野蛮で原始的な感情が抜け落ちがちなことだ。構成の知識が一般化するに連れて、ただストーリーという動きだけを作っている小説が飽和しだした。


 そういった見せかけの感情しか無いものはひと目でわかる。なぜか?

 彼らのすることを、見たくならないのだ。


 ページをめくりたくなるだけのものを用意しよう。


 そのためには、読み手に「キャラクターが何を求めているか?」まずそれを理解させよう。


 何を求めているかがわかれば、次にそれを追いかけさせる。

 それだけの「引力」を文章の中に用意しないといけない。


 これができた上で再度考えるのが「構成」だ。

 演技を強調して気持ちよく見せるには?

 小説のテーマは?

 読み終えた人が、「これは良いものだ」と伝えられる一言があるか?


 これがポンと出せないといけない。


 そのためには、キャラの内面を理解する。

 きっとそれはおぞましいものだ。

 どんなに見かけが良い素晴らしいものでも、誰かにとっての悪役になる。

 その種の危うさを持っている欲求だ。


 そしてその次に、何故そう望むのか?

 これを強くすればするほど、物語はわかりやすくなる。


 キャラは何をやっているか? 何故そうしているのか?

 一言で! 原始人にもわかるように!


 うーん、私のつくる主人公は複雑なキャラです。

 一言で表せる、そんな単純なキャラクターではないです!


 ……なるほど、ひとついいか?

 作者が一言で説明できないキャラが、どうして読み手に理解できる?


 ともかくそうやって小説を書いて、よい演技を作り上げたとしても、次の問題が出てくる。次に細心の注意を払うべきは、演技していることを見破られないようにすることだ。


 小説の中の世界を真実にするためには、真実味を感じさせるだけの物が必要だ。

 それは繰り返し何度も行っているが、五感だ。我々が脳に情報を伝える手段は、五感以外に存在しない。だからそこを刺激する。知覚心理と認知心理を飛び越えて、共感覚を刺激しろ。数字に色や音があっても良い、銃声に味があっても良い。


 とにかく、ウソをついて感じさせるのだ。

 演技は自分自身を騙すのではない、感じさせ、読み手を騙すのだ。


 読み手の注意を引き付けて、逸らさないこと。

 気が散らないように努力することが必要なのだ。共感できるようなリアルな感情を用意して、注意を引き付けるには感覚と真実味が必要なのだ。


 もし小説家がうわべだけのキャラクター、感情っぽいものを持つだけの舞台装置としてのキャラクターを出したのなら、読み手はそういうものを読まないといけなくなるのを考えて欲しい。それは……ちょっとひどくないか?


 読んでもらうなら、持ちうる技術と感情を込める誠実さが必要だ。


 小説の構成、キャラの動きには何も問題がない。


 ……しかし、別に読みたいと思わない。


 これでは困る。ページをめくってほしいのだ。

 古くなって、湿気てくっついたページ。引き出しからナイフを取り出して、剥がしたくなるくらいのものを……そこに用意しよう。


 読み手がここまでしたがるようなものを作る。

 我々はそう心がけないといけないのだ。


 【ねくろん式】「キャラクターに命を吹き込むには」

 は、一旦これで筆を置きたいと思う。


 自身の考えをまとめるために書いたものだが、これを読んだ者が、なにかの役に立てることができれば、それほど嬉しいことはない。


 ここまで読んでくれてありがとう。

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【ねくろん式】キャラクターに命を吹き込むには? ねくろん@カクヨム @nechron_kkym

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