5-5

「それにしてもでもやっぱ、やっぱあのババアさえいなきゃなーと堂々巡り。なんだかんだ目下最大の悩みだもん」

「まるで激しい恋のよう」

「ほんと恋だったらよかった」

「まあ、ここでそんなこといちいち気にするなっていうのは共感性の低いバカだけだから気になるもんはしょうがないとして」

「うん。なんかいい案ない? うまく付き合うコツっていうか……なんかこうなってくるといちいちもやもやする自分に腹が立つ」

「じゃあそうだな、やつは中国人だ、と思うとかどうだろう」

「中国人?」

「別にアメリカでもなんでもいいんだけど、見た目的にアジア系がいいだろう」

「それでどうするの?」

「簡単だよ。日本語を話す中国人ってキツい口調だろ。おまけにそもそも日本語がうまくない。だから乱暴に聞こえる。だから別になにも考えてない。そして彼らは日本人の文化が身に染みていない。例えば愛想笑いを浮かべたり、すぐすいませんって言ったり、意味のない議論をしたりすることが理解できない。そう考えれば、むしろそのババアの方が正しいような気がしてこないか」

「え〜。でもそれってなんか中国人に対して差別的だし日本人に対して攻撃的だし」

「そうだね。自分の差別心に対しては自覚的であった方がいい。でないと、いつか取り返しのつかない失敗をする。心の中で思うだけではとどまらず口に出してしまって……いつか大切な人を傷つけてしまうかもしれない。あるいは––––インターネットに書き込んだり、ね」

「……でもそれ、おれには向かないやり方だなあ……」


「いいんですか? ほんとに奢ってもらっちゃって」

 ファミレスで席に着き、ここは自分が奢るからと言った君尋に千歳は申し訳ない気持ちだった。それはもちろん和洋も同じで、しかし十も年上の人間相手となると遠慮した方が失礼なのではないかと思い口には出せなかった。

 君尋はにっこり微笑んだ。

「いいんだよ。これもなにかの縁だし、それに、いつも光がお世話になってるんだ」

 千歳と和洋はちょっと顔を見合わせ、やがて礼を述べた。

「ありがとうございます」

「ううん。それより、学校での光の様子を聞きたいんだけど」

「学校での光くん?」千歳は少し考えた。「いつもにこにこしてて楽しそうですけど」

「という風に俺たちには見えますけど」と、和洋は注釈を加えた。

「そうか」と、君尋はコップに手をやった。「じゃあ、とりあえず大丈夫そうだな」

「とりあえずって?」

 水を飲み、君尋は答える。

「あいつもいろいろあるから。俺、心配なんだよ」

「ほんとに仲良しなんですね」

「そうだね。そう思うね」

「家に帰れば安心できるから、学校でもなんとかやってるっていうのもあるんじゃないですか」

 和洋の言葉に、君尋は、いやいや、と首を振る。

「なんといっても学校でにこにこしてられるのは君たちのお陰だよ。本当にありがとうね」

 既に注文は済んでいたが、さすがに土曜日の夕方は混んでいる。三人が料理にありつけるのはもうしばらく先になりそうだった。

 と、ここで君尋はため息を吐いた。

「ほんとに、あいつ、アルバイト先の人間関係で悩んでるみたいでさ」

「それはしょっちゅう聞きます。気の合わないおばさんがいるって」

「上司が理解あるから、それでもう二年近く勤めてるわけなんだけど」

「なんで辞めないんだろ?」

「うーん」千歳の問いに君尋は少し考え込んでしまった。「実は俺の紹介なんだよね」

「あ、そうなんですね」

「店主の友達が俺のゲイ友達でね。それで。だから、かえって悪いことしたんじゃないかと思ってる」

「へえ」

 その料亭の店主もゲイなのだろうか、と気になったが、なんだか無邪気に質問してもいいのかよくわからず、それで二人は黙り込んでしまった。

 その様子を察してか、君尋は話題を変える。

「まあ職場の人間関係の悩みっていうのは普遍的なものだからね。気にするなっていっても無理なものは無理なわけで。俺もいろいろアドバイスはしてるんだけど」

「どういうアドバイスですか?」と、千歳は訊ねた。「今後の参考のために」

「さっきもさらっと言ったけど、一生懸命にはなってもがむしゃらにはなるな、とか、常に六十パーセントぐらいの気持ちで完璧にやりすぎるなとか。あと、その気の合わないババアを中国人だと思えとかね」

「中国人?」

「うん」

 と、そこで君尋はいつか光に話したことを二人に説明する。説明していくと、和洋も千歳もなんだか渋い顔をした。

「中国人に対して差別的だし、日本人に対して攻撃的だし、でも、リアルなやり方だと思うんだがね」

「差別的……ですか」和洋は考える。「“差別”がよく、わからなくて。それ、中国人にも日本人にも失礼な気はするんですが」

「そうだね。ただ、“差別”と、“差別ではないけど問題”、というのは切り分ける必要がある」

「ネットに書き込んじゃったりしないように?」

「大切な人を傷つけないために」千歳の質問に君尋はできるだけわかりやすく説明しようと心がけた。「誰もが誰かを差別しているから」

 一瞬、沈黙が走った。

 その沈黙をそのまま君尋が切り裂いた。

「君たちも誰かを差別しているし、もちろん俺も光も誰かを差別している」

「俺たち、別に」

「いいや。これは人間の性だから無視することは不可能だ。人類の原罪とも言えるだろう」

 君尋はいったん水を飲んだ。

「じゃあつまり差別とはなんなのか、ということだけど、これが非常に難しく一言では語れない。世界中で議論が巻き起こっていることだからね。そして実践で、Aさんの使う差別という単語とBさんの使う差別という単語の意味がそれぞれ違っている、というのはあるあるで、だから話が噛み合わず、しかしこう考えればいいんだ、ということは基本的にはない。もっとも君たちはまだ高校生だからわかりやすく教えてあげる必要があるんだろうけど、俺、教えるのはどうも苦手でね」

「……」

「でも––––もし君たちがもっと大人になって、この問題をもっと突き詰めたいと考えていたとしたら、ぜひ自分自身で追求してもらいたいと思う。わからないから教えてくれ、というのは真摯な態度に見えるけど、あなたたちはもう大人なんだから疑問が浮かんだなら本を読んだり自分で調べるべきだ、っていうことで。その手段の一つにわかっている人に聞く、というのがあるだけで––––大人は自分で行動しなきゃいけないはずなんだが、ね」

 それはよくわかる、と二人は思った。いまは高校生だからわからないことがあったらとにかく人に訊ねるといった態度でもいいのかもしれないが、いずれ大人になったらそうはいかないことはなんとなく理解はしていた。

 ––––だが、それでも君尋の言葉を聞いて、自分たちはちゃんと自分たち自身でものを考えられるのだろうかと不安になる。確かにいまはまだ高校生の子どもだ。だが、大事な友達の光を思うと、やはり質問者の立場にあぐらを掻いているわけにはいかないと思う。だが––––それでも、と思う。千歳は言った。

「光くんのことを知るために、本を読む、とかっていうのは、なんだか変な感じがします」

 君尋はくすくす笑った。

「あいつが、ゲイであることのなにかで悩んでいたとき、それを千歳ちゃんの肌感覚で解決できるほど差別は甘くないし、この世界は甘くない」水を飲み干す。「俺もそうだった」

「誰にも話を聞いてもらえなかったんですか?」

 和洋の問いに、君尋はどこか寂しげに言った。

「いや。俺が話を聞いてやれなかった」

「?」

「ゲイタウンでずっと生きてると……まあゲイに限った話じゃないけど、同質性の高い人間たちとずっと一緒にいると、自分たちの輪から外れている同類に対して排他的になる、というのはあると思う」

「なんとなくわかります」

「昔、大事な友達がいたんだ」

 一瞬、君尋が自分の方を向いたような気が和洋にはした。しかし君尋は特に何も気にせず会話を続けた。

「大事な友達だった。そいつはがむしゃらで、常に全力百パーセントで。俺は当時、二丁目でなかなかゲイライフを満喫してたから、そいつのゲイとしての悩みに『そんなこといちいち気にするな』としか言ってなくてね。社会の話だの差別の話題だのしてくるあいつがちょっと鬱陶しかった。それでもあいつとはずっと友達だったんだけど––––結局アメリカに行ってしまったよ。その後はもう連絡も取れなくなった」

「……」

 君尋は、ため息を吐く。

「光は、そいつに似てるんだ。あいつと同じで、いつも全力なのが、放っておけない。だから––––取り返したい、と思う」

 店内のにぎやかな声と、このテーブルが、それぞれ別の世界であるような二人にはした。

 君尋は続ける。

「ま、気が向いたら、光のことを助けてやってくれたら、俺としてはありがたいんだな」

「君尋さんは」言おうか言うまいか迷ったが、しかし、意を決して千歳は訊ねた。「光くんのことが、好きなんですか?」

 君尋は、ふふ、と笑う。

「内緒だよ」

 千歳からすれば、新たな恋のライバルの出現であり、そしてそれはかなりの強敵であることを瞬時に理解した。

「きっかけとかあるんですか? 光くんがその友達に似てるから?」

「いや。君たちと同じで、あらゆる恋はただ一つの理由で始まるものだ」

「ただ一つの理由?」

 千歳も和洋も、自分が恋に落ちたきっかけのことを想起した。いまでもその日のことを鮮明に思い出す。思い出したときは気恥ずかしくなり、いつでも嬉しくなる。

 千歳は問う。

「それはなんでしょう」

「それはもちろん、その人がその人だから好きになったのさ」

「?」

「君たちは、いまの想い人の何らかの行動に対して、“なんかいいな”と思ったのが先にあって、そのあと好きになった理由を述べていくようになる。でもね、“なんかいいな”と思ったのは、あくまでその人がその人だからなんだよ。AさんとBさんが同じ行動を取ったからといって恋に落ちるわけではない。こういうのを哲学で美のイデアというとかなんとかかんとか」

「……」

「だからまあ、その友達に似てるから、というのももはや関係ないと思うね。あいつがあいつだから好きになった––––それが唯一の理由だよ」

 千歳は光への想いのきっかけを、和洋は千歳への想いのきっかけをそれぞれ頭の中で思い浮かべた。確かに君尋の言う通りだと思う。では、と思う。なぜ“その人”を好きになったのだろう。美のイデア––––恋に落ちるということ、それはもはや自分たちの意思とは無関係な問題なのだろう。ただ、そのときその人を好きになる必要があったから好きになったのではないか––––言葉には出さなかったが、二人はなんとなくそんな風に思った。

 君尋は苦笑した。

「こんな二十八のおっさんが十七歳の高校生に惚れるなんて、リアルに犯罪だ」

「心は自由だと思います。それに、十八になれば、結婚もできるし」和洋は、そのまま一気に続ける。「––––俺は、そんなに遠くない未来に、同性同士で結婚できるはずだって思います」

 和洋の言葉に君尋は、なんともいえない笑顔をした。

「そうだね。いつかそうなったらいいね」

 そのとき、ウェイターが料理を運んできた。どこか物々しい雰囲気のテーブルに、彼はあくまでも従業員としての職務を全うするべく淡々と仕事をこなそうと心がけた。

 そしてこれが、みんなの世界。

 いつもの日常。


「ただいまー」

 夜。光が帰宅する。君尋はソファでいつものようにハイボールを飲んでいた。

「お帰り」

「今日も疲れたぁ〜」

「お疲れ様。いつものババアはどうだった?」

「最悪。今日なんか、わかりやすく無視された」

「いつものことじゃないか」

「ほんとマジかったるい。こういうのっていつか慣れるのかなあ」

「あるいは慣れたころに、お前もそのババアと同じ島の住人になるのかもしれないよ」

「げ。それはやだ〜」

「結局、闘っていられるうちが華なのかもしれないぜ。いま俺ちょっとかっこよくなかった?」

「むう……これが人間の証明なのだろうか」

「ま、こっちおいで。とにかく聞くよ。なんでも聞いてやるから、だから––––思い詰めないようにしな」

 光はソファに座る。いつもの定位置。

 そして光の愚痴を聞く。

 これが自分の日常。

 あるいはいつか伝えられるのだろうか。

 早く大人になれ。もっと大人になれ。そしたら、いつかきっと––––伝えようと、思う。君尋はひたすら愚痴をこぼす光が、大切で大切で仕方がなかった。


 EPISODE:5

 The Only One Reason

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