5-3

 放課後、夜七時。教室。

「あれ、坂東? どうしたんだいこんな時間に」

 いつもの習慣で仕事終わりに校内の見回りをしていた仁は、三年五組の教室に一人いた隆太を発見し声をかけた。

 隆太は答える。

「部活中に、教室に忘れ物したことに気づいて。それで急いで取りにきました」

「忘れ物」と、仁は隆太が右手に持っている大学ノートを見た。「土橋との交換日記かい?」

「違います」即答。「物理のノートです。宿題が出て」

「ほうほう。その中には土橋がくれた誕生日プレゼントの下敷きなどが入っていたりしたり」

「マジうぜえ」

 しかしそれ自体は本当だった。確かにこの物理のノートの中には乃梨子がくれた下敷きが入っている。気づかれて面倒臭い展開になるのも大変だったので隆太はカバンにノートを入れた。

 見抜いているのか否か、仁は顔が綻んだ。

「いいねえ。この教室には恋がいっぱいだ」

「恋、恋ねえ……」

「土橋のことが好きなんだろ? ほら言っちゃえよ! 素直になっちゃえって!」

「うぜえ、マジうぜえ!」

 ふふ、と仁は笑う。

「なかなか長いお付き合いみたいだけどいつでもお前さんは情熱的だなあ」

「情熱、情熱的ねえ……まあ好きですけど」

「おや。まるで倦怠期の夫婦のようではないか。よかったらこのぼくがかわいい生徒の悩みを聞こう」

「いや自分の恋愛事情なんて人に話さないっすよ」

「恋バナは楽しいではないか」

「先生はどうなんですか?」

「あれはぼくが十四歳、ジェーン・フォンダばりの美少女を好きになり……」

「知らねー」

「二人でロスアンジェルスのホットドッグを食べに行く夢を見たものさ」

 仁にとっては架空の恋愛事情を構成するのはもう慣れたことだった。ゲイであることを隠せばいいというのはゲイであること“だけ”を隠していればいいというわけではない。異性愛規範の世の中において操作しなければ会話は山ほどある。だがいまの仁にとってそれはさほど難しいことではなかった。その範疇では道化のように振る舞うことも彼の一種の処世術だった。そして仁は考える。メディアのオネエタレントたちも、多かれ少なかれ道化として振る舞っているという自覚があるのだろうな、と。あるいは彼らは自分たちの振る舞いがナチュラルであると思っているかもしれないが、カメラの回っていないところでの彼らはまさに“普通”だった。それはオネエではないとか女性的でないとか女装をしていないとかそういうことではなく、言葉通りの“普通”なのだ。結局、カメラなどフィルターを通してしまった時点で事実は大なり小なり歪曲されるのが世の常だ、と仁はいつも思う。“誤解がある”というだけで生きづらい。

 そしてこの場合、カメラのフィルターは“学校という社会の構成員”である。

「ま、ぼくの恋人は数学の教科書だから」

「はあ、そうすか」

 仁はいつもそんなことを言っている。顔だって別に悪いわけではないし、キテレツな男を好きになる物好きがゼロとも思えないので、仁は恋愛に興味のない男なのだろうなというのが隆太の印象だった。

「高校生はいいねえ。若いのはなんでもできる。でも若いころは若さが武器であることに気づかないんだよね。わかるわかる」

「なに一人で納得してるんすか」

「いやはやお前さんは土橋以外のことはどうでもよさそうだねえ」

「そんなことないすけど。じゃ、先生の高校時代はどうだったんすか」

「ぼくの? あれはぼくが十七歳、アラン・ドロンばりの美少年だったころ……」

 話が長くなりそうだったので隆太は歩き始めた。

「帰ります」

「まあ待ちなさい」

 廊下に出て二人は会話を続ける。

「お前さんは友達たちの恋をどう思う?」

 第三者の一人として、隆太が光のことをどう評価しているのかを遠回しに聞こうと思っていた。生徒を特別扱いはできないが、仁としてはやはり光のことを放ってはおけない。

 だが、隆太は素っ気ない。

「いやだから、俺は他人の恋バナには興味ないんすよ」

「全然?」

「全然。だって、自分が好きな相手を好きでいられればそれでいいじゃないすか」

「もうちょっとなにかをプラスすれば名言になりそうだ」

「誰が誰を好きでもほんとに興味ないし……まあ北原みたいに性別を超越したりしたらちょっと興味湧くけど、それだって別にどうでもいい」

 同性愛者は別に“性別を超越した恋愛”をしているわけではない。だが、異性愛規範が強くかつ男女二元論の世の中においてはそういった感想になるのも致し方ないと思った。むろん、仁はそんな訂正などしない。

 そう、ここで“闘わない”から、社会はより良くならないのだ、ということは、仁はよく理解していた。それでも自分は闘わない。なぜならそうしたら死ぬからだ。

 それよりちょうどよく光の話題になったから、あまり派手にならない範囲で聞き出そうと思った。

「北原はどんな感じ? 大黒も萬屋もだけど。あの三人、放送室事件のときけっこう話題だったからね」

「どんな感じって、萬屋にいつも懐いてますよ。会長会長って。萬屋もなんかマジで拒絶してないし、あいつはゲイじゃないけど満更でもないってことなんすかね」

「ほう」とにかく元気にやっているようではあったので仁は内心ほっとした。「大黒と萬屋はどんな感じだい」

「大黒はなんかよくわかんないけど光くん光くんって言ってるし、萬屋はまあわからなくもないけどいつも大黒のこと見てるし。バランスいいんじゃないすかあの三人」

「なるほど。でも、大黒が北原のことが好きなのはお前さん的には“なんかよくわかんない”んだね」

 仁としては、光をゲイだと理解した上で恋心を抱く、という千歳に興味があった。

「乃梨子は“千歳は母性愛が強いから”って言うんすけどね。わかんねえなあ。俺が女だったらもっとかっこいい男を選ぶと思うけど。それならどっちかっていうと萬屋を好きになりそうっていうか。あ、かっこいいって顔がどうとかだけじゃなくて、こう、雰囲気とか」

 あるいは––––千歳が光への恋を諦めたとき、この三角関係がどうなるのか、それも心配だった。

 隆太の発言に仁は続ける。

「まるでお前さんのような好青年を?」

「ほんとうぜえ……」

 やがて正面玄関に到着し、職員用玄関へと向かう仁とはそこで別れた。

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