3-2

「で、ここで判別式の解を……」

「う〜む」

「わかったか?」

「わからないことがわかったということがわかった」

「あのな……」

 放課後。教室で千歳と和洋は光に数学を教えていた。

 以前から、光は二人に勉強を教えてくれと頼んでいた。いつも赤点ギリギリとは言わないが成績が壊滅的であるという自覚はしていたので、成績優秀な千歳と和洋に教わりたかったのだ。千歳は光のためならと部活に参加する時間を少し遅らせ、和洋は今日たまたま陸上部が休みだったので教えることにした。光のアルバイトは夜からなので問題はない。

 はあ、と、光はため息を吐いた。

「数学ってセンスの話なんだよね。おれにはセンスないみたいだ」

「積み重ねの話だろ」

「ジン先生がいつもエレガントにどうとか」

「それはある程度できるようになってからの話だ」

「ジン先生、授業自体は面白いんだけどね〜」

「でも光くん、進学組に入ってるぐらいだからどこかいい大学狙ってるんじゃないの?」

「まあね〜。それはそうなんだけどね〜」

 この成績ではFランを避けることはできるが、とは思ったが、せっかく勉強する気になっているのだから意欲を削ぐわけにはいかないと和洋は黙った。

 だいぶ頭を使って光がふらふらになっているのに気づき、千歳はちょっと話題を変えてみた。

「光くん、初恋はいつ?」

「え、初恋〜?」

「なんだよその話題転換は。勉強はどうするんだよ」

「もう三十分もやってるんだから。あたしもそろそろ部活に行きたいし」

「すまないねえ……」

「いいのいいの。ただ食べるだけなのも勉強」

「しかしなんで初恋話なんだよ」

「いいじゃん別に。じゃあそんな萬屋くんの初恋はいつ?」

 一瞬沈黙し、そして和洋は答えた。

「言わない」

「え、なんで?」

「なんとなく」

「どうせ幼稚園の先生とかじゃないの」

 和洋は目を剥いて千歳の方を見た。

「な、なんでわかるの?」

「そんな感じするもん」

「うん、おれもそんな感じする」

「どんな感じなんだよ……そういう大黒はどうなんだよ」

「あたしお父さん」

 二人は目を丸くした。

「お、お父さん?」

「かわいい娘でしょ」

「ま、まあな……」

「仲、いいんだね」と、どこか羨ましそうな瞳で光は千歳を眺める。「いいなあ」

 怪訝に思い、千歳は訊ねた。

「光くんは、親とうまくいってないの?」

「おれ、母子家庭で。その母親が高一の夏ごろ死んじゃったんだよね」

 しばしの沈黙。

「ごめん。そういえばそうだったね」

「ううん。いまなかなか幸せですし」

 和洋は突っ込んでみた。

「……親とうまくいってなかったのか?」

「うまくいってないっていうか、なんか、いやっていうか合わないっていうか。だから正直母親が死んだ直後はすげー困ったけど正直ちょっとほっとしたとこもあって。割とすぐ君尋さんが後見人になってくれたし、結構恵まれてるとは思うけど」

 “母親が死んでほっとした”という説明に、千歳も和洋もどう反応すればいいかわからない。

 きっと、話してないだけで、いろいろな葛藤があるのだろう、と、思う。

「まあおれの話はいいよ。千歳ちゃんは親と仲良しなの?」

 急に話題を振られ千歳は戸惑う。

「え。あ。うん。うちも父子家庭で」

「そうなのか?」またまた和洋は目を丸くした。「親御さんは––––」

「お母さんが、あたしがちっちゃいころに病気で死んじゃって。記憶もあんまりない感じで。だからずうっとお父さんと二人暮らし」

「ああ、だから初恋がお父さん」うんうん、と光は納得していた。「なんとなくわかるかも」

 母子家庭の場合、息子の初恋相手が母親になることはあまりないことなのだろうか、と千歳は思ったが、しかし光の家庭の事情がなかなか複雑であることを理解し始めていたのでまだそこまで突っ込むわけにはいかないと自重した。

「いや、初恋の話をしてたんだった」と、千歳は姿勢を正した。「光くんの初恋はいつ?」

「おれはたぶん、小学校四年生のとき、クラスの女子に」

「女子?」

「ふーん」

 目を丸くした千歳とは異なり、和洋はあっさり納得していた。

 千歳は訊く。「昔は男の子が好きじゃなかったの?」

「うーん。まあたぶん生まれつきゲイなんだろうなとは思うんだけど、自覚が芽生えたのは中一のころで。ただま、自我が芽生えたころからなんか自分男の子ばっかり見てるな〜と思ってはいたんだけどね」

「へえ〜。ゲイもいろいろなんだね」

「そうそ。全人類がいろいろあるんだよ」

 二人はくすっと笑う。

 同性愛のことはあまりよく知らない千歳だが、光のことはもっと知りたい。もっとわかりたい。光の立場でものを考えられるようになりたい––––いつも千歳はそう思っていた。

 そしてそれは、和洋も同じようだった。

 だから和洋は、光の家庭の事情をさわりだけ聞き––––光が母親のことを“母親”としか呼んでいなかったことが、気になっていた。


 そのとき、がらっと教室のドアが開いた。

「あれ? お前さん方、まだいたの?」

 仁が現れた。

「勉強教えてもらってましたん」

「おお、いいね迷える子羊よ。そろそろ本腰入れないとヤバみだったもんな」

「ジン先生もおれに教育しに来たの?」

「わわわわっすれもの〜わっすれもの〜」と、机に進み、クマのキャラが描かれた手帳を手に取った。「うっかりうっかり」

「あー、うっかり」

「なにが?」

「手帳を盗み見ればよかった」

「北原……先生は哀しい。お前さん、ちょっと前まではぼくにそこそこ敬語を使っていたというのに……」

「ところで先生は彼氏いるの?」

 一瞬よりは長い沈黙と、仁の静止。

 光の質問の意味がよくわからなかった二人の頭は疑問符で埋め尽くされていた。

 条件反射的に仁は変な声を出す。

「へっ」

 光はにやりと笑った。

「先生。おれの方が隠すのうまいよ」

「え。えーと。その……」

 と、しどろもどろになり、やがて冷静さを取り戻し、仁は笑顔を作って頭を掻いた。

「参ったな。てへっ」

 ジン先生も、ゲイだった––––ということに気がつくまで、二人はだいぶかかった。

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