第3話 アンダーグラウンド

 非常入口の上り階段を抜けて私は地下道に出た。土壁のところどころに電灯が灯っていて、歩きやすかった。歩いているとおばあさんが二人座り込んでいるのが目についたので、殺そうと走りかけた。しかし、ジャックが暴れ馬をいなすように私を縛っている縄を引っ張って、私を制止させた。人が通るたびに私は体の動きを止められなくなり、ジャックは私をきつく引っ張った。人が大人数で話をしている横を通るとき、私はより一層殺意が増したので、ジャックは体全体で私を押さえつけて移動した。


 地下に住み着くようになった人々が会話を楽しんでいる中を抜けて、私たちは人通りの少ない小道に入った。人相の悪い男たちがたむろしており、たばこの煙が充満していた。その道には排気口がなく、私はその煙に危険を感じて逃げ出そうとしたが、ジャックはもちろんそのまま進んでいった。


 しばらく歩くと図体のでかい三人の男たちが、私たちの行く手をふさいでいた。


「見ない顔だな、中国人か?そっちの奴は」


 男の一人が私の顔を触ろうとしたが、ジャックは縄を手放さずに、男を私から遠ざけさせた。


「おっと。こいつはやばいよ。近づいただけで殺そうとしてくるからな。だから君たちも手を出さないほうが身のためだ」


「俺たちに指図するってか、クソガキどもが!」


 男たちが大声を出した。どすどすと足音で地下空洞を震わせながら向かってくる男たちを、ジャックは毅然とした態度で思いとどまらせた。


「指図じゃなくて交渉をしに来たんだ。町の人に聞いたんだけどね、この辺じゃかなり顔をきかせているらしいじゃないか。今度から俺たちがその座に座ることにしたから、別の所にいってもらえないかな?わかってもらえたら、無傷で逃がしてやるよ」


「何を言っているんだこのクソガキは」


 私たちが人を毎日何人も殺しているということは、祖父が入念な情報操作をして隠ぺいしていたのだと、ドルベルの管理していた書類の記述からわかった。近隣の住民を殺した際も、動物園の管理不行き届きということにしていたため、数日後に動物園は廃園になった。その後、土地に愛着のある老人たちとその家族の数人だけが残り、何も知らないならず者が入りびたるようになったのだった。


 ジャックの発言は男たちの琴線に触れたようで、怒りの拳をジャックの顔に向かって振った。ジャックは華麗にそれを避け、私の背後に回り、縄をすばやくほどいた。そしてすぐに私から一定の距離を取った。私は体の身動きが自由にとれるようになったので、ナイフを袖の中からとりだして、ノータイムで襲い掛かってきた男の分厚い首を切った。頭部は白髪の男の足元に転がり、男は悲鳴を上げた。


近くで見ていた残りの男たちの首筋も切り捨てるために、ナイフの血を横腹の服の部分でふき取り、刃先を丁寧にきれいにした。ナイフに気を取られていると、ジャックがいつの間にかとてつもない速度で、私を縄で拘束してしまっていた。地面に落ちた私のナイフを拾い上げて、ジャックは男たちにそれを向けた。


「…わかったでしょ?」


 私の聞いたことのない低い声で、ジャックが男たちを引き上げさせて、私たちは新しい拠点を構えることになった。


 私は相変わらず反抗できない状態にあったが、ジャックは言った通り、食糧を私に提供し、手が使えない私の口にクリームパンの半分を押し込んだ。食料をもらうくらいなら私にもできたのだが、ジャックの結んだロープは一向にほどくことはできなかった。クリームパンを食べ終わったジャックは膝を突き合わせて、私に改まった話を始めた。


「なぁ俺は今君の意見を聞きたいんだが、話せるかな?」


 私が言葉を忘れてしまったのか聞くような口ぶりでジャックが言った。私はジャックに私の一切の行動と生死を握られているため、彼に敵意を向けることは無駄であると悟った。


「もちろん」


「…先生が死んでから、俺たちはもう自由に考えて生きられるようになった。ドルベルだって、自分の生き方を探すために出ていったんだと思うんだよな。俺はさ、先生みたいにガチガチのルールに縛られるのは嫌だ。俺自身の気持ちの思うままに生きていきたいんだ。


 俺には野望がある。まず、この町全員を俺に従わせるんだ。警察も黙らせるほどの力をもって、ゆくゆくは裏社会からこの国を支配する。そして、組織を作り、勢力を強めていくんだ。


 それを実行に移すための鍵として、君のその圧倒的な脅威が不可欠だと考えた。俺が人並み以上にできるのは、先生のもとで鍛えたスピードとロープワークくらいだから、それぐらいじゃ盗人か鼠小僧くらいの下っ端にしかなれない。そこで、糸のその狂気じみた暴力が必要になってくるんだ。暴力は言葉で作られたあらゆるものを凌駕する。それを使って、立ちはだかるものを全部倒していけば、無敵の存在になれる。素晴らしいじゃないか」


 ジャックは私に共感を求める目線を送った。


「俺と君が手を組めば、国家転覆なんて夢じゃない。君が政府官僚を全員殺した後に、俺が支配権力を牛耳るんだ」


 高揚感にあふれた笑顔を私に浴びせ、満足気であった。私はジャックの思想が現実的か非現実的か、判断がつかなかった。座学の時間でも、私は彼よりも頭が悪いということは知っていたので、何か壮大なことを考えているのだと思っていた。


「ジャックがそんなことを考えていたなんて、思わなかったよ」


 私は思ったままのことを言った。ジャックはそれを賛同ととらえ、私の袖の中からサバイバルナイフを探り出した。そして、私の両肩に触れない程度に垂直に振り下ろし、私の袖の中にナイフを戻した。ジャックが何をしたのかわからなかった私をよそに、説明をした。


「イギリスにおける騎士の儀式の一つさ。日本人の君にはわからないだろうけどね。この儀式はとっても光栄なことなのさ」


 ジャックは鼻を鳴らしていたが、私にはどうでもよかった。ジャックが私を開放しない限り、私は自由を得ることができないということは、祖父のもとで調教されていたときと何ら変わりはなかった。ただ、ジャックは私に無理なことは要求しなかったし、私の存在を貶めることもしなかったので、まだ心の安定は保てていた。


 ジャックは自分の代わりに私を戦わせ、なんの成果を上げられなくても私に三食を与えてくれた。食事は暴力によって圧力をかけた家や店から奪ったものであった。寮の近くの住民は温厚な人が多かったため、すぐに従順になって食べ物を差し出した。私たちはさらなる勢力拡大を求めて、ロンドン近郊の地下の世界を征服していった。


 ジャックのやり方は悪く言えば大雑把であった。自分の存在が確実に相手に刻まれるように、私を悪役と見立ててヒーローさながらの演技を披露したり、逆に自分は手を出さず人が多いところで私を暴れさせたりもした。私が誰かを殺しそうになっても止めるので、最終的にはジャックは思う存分メンツを作ることができていた。


 地下道に響き渡る「ペール・ギュント 朝の気分」の放送が、私たちに朝が着たことを知らせていた。夜じゅう拠点を移動していたので、その日の朝食は残念ながら二人とも食べられなかったが、ジャックは私を引っ張って町の人たちのいるほうへ向かった。


 ジャックはとあるパン屋に立ち寄って、店先に並んでいるライ麦パンを手に取って、店主に見せてこう言った。


「これをください」


 店主は値段を指で示してみせた。ジャックは小間使いで稼いだなけなしの小遣いを崩して、店主に手渡した。店主がお金を受け取った瞬間に、ジャックが私の縄をほどいた。私はジャックの締め付けるような凝視の網をすり抜けて、店主の首元に襲いかかることにした。ジャックを狙わなかったのは、私がジャックの縄さばきにかなわなかったからだ。首元の皮膚をナイフで刺せる寸前で、ジャックは一瞬の動作で私の胴体に縄を巻き付け、私を後ろに倒した。店主はぽかんとした表情で、首筋をしきりに触っていた。


 ジャックは倒れてきた私に潰されながら私の手綱を引き直し、店主に向き直った。


「何をするんだ、こいつは!」


 店主は怒りと悲しみに満ちた表情で私を見た。


「こいつはパンが好きすぎて、あなたのことを恨んでいるんですよ。恨み殺されたくなかったら、お金を恵んでやってください。そうすれば、他のパン屋に行って他の店主に目が行くかもしれない。さもなかったら、きっとあなたは昼にならないうちに死にます」


「そんなこと言ってないで、早く警察署に保護されてきなさい」


 冗談のような言い訳を耳に入れることなく、店主は冷徹な態度で警察に電話をかけ始めた。ダイヤル音が聞こえたときに、ジャックがすかさず言った。


「いやいや…そんなことすると、さらに俺たち圧力かけますよ。この町の人たち全員に、この店の悪評を言いふらして回ってやる。こいつは警察なんて目じゃないですから。イチコロですから」


「は?」


「じゃあ自分の命と、俺たちの矯正と、どちらかしか取れないとしたらどちらを取りますか?」


「…お前たち、なんだその格好は。ふざけているのか。現実みなさい」


「俺、実をいうとこの少年からこの町を守るためにここに流れてきたんです。だから今あなたを助けたお礼にお金をください」


 あれだけ大きなことを言っていたジャックの話は、全く大人には通じず、店主は電話を呆れからか電話を切ってしまった。とうとうジャックは私に強硬手段に出ると告げて、店主を殺さない程度に殴りつけてほしい、と頼んだ。人がざわざわと集まってくる時間になり、口論を繰り広げる私たちに注目は集まっていた。ジャックは私のナイフを没収した後、拘束を解いた。私は殺そうと思って店主に殴りかかり、店主ももちろん抵抗したが、やがて体中があざだらけになり、意識が飛んでしまう前に、店主は涙声で降伏を宣言した。ジャックは店主から少なくない金額を受け取り、集まっていた人々に向かってまた何か演説を始めていた。


 その時私はうずくまる店主を見ても、殺したくはならなかった。無抵抗のものを襲うことは、あってはならないと思った。町の人々の営みに触れ、ジャックとともに行動していくうちに、私は自分の行動が人間社会では異常であることに気づいた。だからといってもはや私は人の営みに合わせる思考回路を放棄しており、ただただ失われたもののむなしさを感じた。


 ジャックは縄をほどかずに、私を使って町の人々をおどして回っていたが、不審に思った町の人が警察に通報して、私たちは出張ってきた警官たちに囲まれた。三年前ほどに私は何度も警察に連行されていたので、何人かの警官には顔を覚えられていた。当時から不気味がられていたが、縄に縛られている私を見て、殺される心配から解放されていた。警官はジャックから、保護責任者が他界したこと、そして私たちが今日行ったことを聞きだした。ジャックは私たちを連行しようとする警官の手を振り払った。突然私の肩に手を置き、警官たちに見せつけるように手を広げた。


「知ってる人もいると思うけど、俺たちは大量殺人者だ。そして、その中でも抜群の殺人数を誇るサイコキラーがこの男、錦糸だ。糸なら、ここにいる町民全員の首を、あなたたちが銃を抜く前に飛ばせますよ。俺が、この縄をほどけばね」


 やってみますか、と言ってジャックは手に握ったロープをぴんと張ってみせた。


「もう政府は俺たちを止めることはできないよ。圧倒的な力の前では、権力も法律も敵じゃない。精々俺たちを止められるといいですね」


 ジャックはあまりにも大きな言葉を堂々と放ち、警官たちを大いに驚かせていた。ジャックの宣言は誇張もなく、偽りのない本心からの言葉であった。警官たちの中にはたじろぐ者もいたが、その中でも一人がひるまずに私の前に出た。銃を私に向けて構え、安全装置を静かに外した。


「隊長!」


 呼ばれた警官は三年前に私の肩に銃弾を撃ち込んだ男であった。自信と不安が混じった表情で私を見据えていた。


「ジャック君。その少年を拘束していてくれよ。大切な部分を撃ちもらしてしまうのでね」


 ジャックはびくっとして、ロープを素早くほどき、私を開放した。しかし、先ほどの店主への申し訳ないという気持ちがあった私は、銃口を見ても動こうとは思えなかった。また、何度も拘束と開放を繰り返すうちに、いくら人を殺さなければならないという欲を満たそうとしても、満たされないことが精神的苦痛となり、動くことすら無気力になっていた。


ジャックは動かない私を必死の形相で見た。そして一瞬の思考で名案を思い付き、私の耳元で祖父の教えを早口で耳打ちした。するとものすごい焦燥感と殺人衝動が体全体に駆け巡り、ジャックの言葉に合わせて私も同じように口が動いた。


ゾーンに入ったことを感じ取ったジャックは、すぐに私から離れた。私は警官よりも先にジャックを殺そうと思ったが、すでに私の視界から消えていたのだった。


私のスキを見て、隊長が私の心臓に向けて発砲した。私は弾丸を目で捉えることはできなかったが、間一髪で体を九十度回転させて避けることができた。そしてすぐにサバイバルナイフを構えて、警官に向かって走った。隊長以外の警官は情けない声を出して逃げ出したが、隊長はさらに弾丸を撃った。装填された拳銃の弾丸が無くなる前に、私は隊長の喉元にたどり着き、ナイフで彼の頭部を切り離した。警察署の方面に走り出す警官も、殺すべき対象として、逃がすわけにはいかなかった。助けてくれと泣き叫んだ警官の生き残りの首を切断し、私を脅かす存在を消すことができた。


私が全員を殺し終わっても、ジャックは私を拘束しなかった。ジャックは賢い男であったので、私の精神状態の変化に鋭く気が付いていたことは確かであった。また、おそらく警察との再戦があることを考慮して、縄を使わないことにしたようだった。ジャックは私の殺意が届かないところまで離れ、私を好きに歩かせた。


私はあてどなく地下道を歩き、人とすれ違うたびに人の首をはねていた。それと同時に、私の背後に尾行しているジャックの気配を感じていた。ジャックは目視で姿を確認できない程度の距離で、かつぴったりとついてきており、私は居場所を突き止めることはできなかった。ジャックの中では、私はジャックの制御下に依然として配属されているようで、時々私が寝ている間にくだらないメモと小さなパンを近くにおいていたようだった。私はジャックの意図は彼が自分で口に出さないとさっぱり読めなかった。


自由になった私が求めていたものは、人を殺すことであった。縛られることのない手で、血まみれの戦闘服の懐をまさぐり、祖父の手帳の感触を確かめた。少し死体の血で装丁が汚れていた。


歩き疲れると、私は人通りの少ない道に入り、土壁に背をつけて休息をとった。土壁は私過ごしていた個室を思い出すもので、とても心が落ち着いた。


ジャックの尾行つきで放浪している道中のさなか、都市に近い住宅街の地下道で、私はドルベルに会った。私が見たドルベルの姿は、血なまぐさい白装束を捨てた、貴族のような黒いジャケットを羽織った、いかにも育ちのよさそうな少年であった。口元を真一文字にむすび、親代わりであろう女と手をつないで歩いていた。


私は人ごみを片付けながら近づこうとしたが、その地下街は私たちが潜んでいた地下街よりも人口が多く、私が人殺しを起こしたことで周りの人間が騒ぎ出したため、彼らは混乱に乗じて逃げてしまった。騒ぎはさらに大ごとになり、警備隊が出動する事態になってしまっていた。


私の存在は都市のほうでも知られるようになっていたため、警備隊の人数は三十人をゆうに超えていた。警備隊は全員ショットガンを所持し、間隔を一定に整然と整列していた。長距離武装をした集団に対して、私の勝ち目はないことはわかっていた。しかし、祖父の手帳の教えのもと、私は抵抗するものとして立ち向かわずにはいられなかった。自分が死ぬ恐怖はもちろんあったが、だからこそ祖父の手帳の内容を思う存分信じることができた。彼らは殺人の犯罪者の処刑という大義名分で、平気で同じ生き物を殺すことができる、それは私も同じであった。


私は構えられた銃口に向かって一心不乱に走り出した。打ち出された弾丸をスライディングで回避し、そのまま警備隊の間まで滑り込んだ。そして、再び警備隊が私にショットガンの照準を合わせる間も与えずに頭を確実に切り落とし、ズバズバと人の間を切り込んでいった。私はサバイバルナイフの勢いを落とすことなく突き進んだ。真っ白であったつなぎの戦闘服は返り血で真っ赤に染まり、警備隊を全員殺すころには、明太子のような姿になっていた。もはや私の服に汚れていないところはなかったため、ナイフは警備隊の質の良い制服で拭った。


私が三十体の死体をぼんやりと眺めていると、遠くからジャックの声が響いてきた。彼は路地に隠れていた。


「おー、派手にやったなー」


 汚れていない白装束を着ているジャックは私が歩きだそうとするのを制止させた。


「近づかないでくれよ?そこから先は俺のナワバリだ。近づくとまた縛りつけるからな」


 ジャックは私の足元にあるまっすぐに倒れた死体を指して、ボーダーラインだと強調した。ナワバリのラインを決めることは、生命の安全と存在の維持を認めることであると、私もジャックも座学の授業で学んでいた。


「前に君に力になってほしいと言ったが、それはまだ続いている」


 ジャックにしては短めのセリフを残し、路地の闇へ消えた。


 私は行く当てもないまま地下道を歩いていた。ゆく先々で人の営みを破壊していく中で、地上にシェルターが完成したことを耳に挟んだ。また、シェルターのさらなる増築計画も進んでいると話していた。家庭用の小さな一室に残されたポータブルラジオから聞こえる男の声は、シェルターのこと以外にも殺人鬼の話を取り上げていた。私はそのラジオを拾い上げ、壁に強く投げつけてアンテナを折った。


 私を恐れた人々は地下道を歩き回ることはなくなり、自分の家のシェルターに隠れるようになったため、私は手を出すことができなくなった。自分と同じ種族を殺すことができなくなった私は、悶々とした気分になっていた。歩きすぎて靴の底がすり減るほどになったころ、私は地下道のすべての道を網羅していた。人を殺すことが不可能になった私は、何とかして地上シェルターに行く方法を探していた。ある家のシェルターの固い非常扉を無理やり開けようとしたが、私の力では開けることはできなかった。扉の向こうからは親しげに笑う声が聞こえ、私は一層人を殺したいという欲求が増した。


 食料が得られなくなって数日ほどたったころ、私は珍しく人を見つけた。少女であった。彼女は私よりも年下で、あどけなさを体現したかのような外見をしていた。彼女は土の壁に間隔を開けて写真を張り出していた。


写真の人物はどこかで見たような風貌をしていたが、名前を見るとジャックであった。幼いころの写真で、快活な笑顔をほころばせていた。『兄を探しています』と大きく見出しを付けて張り出されていたため、あの少女がジャックの妹であることが推測された。確かに彼女の髪の色はジャックの色と同じであった。


 私が張り紙をじっと見ていると、彼女は私を恐れることなく近寄ってきていた。私はその時点で彼女を排除したかったのだが、彼女に手を出すとジャックに拘束されることが推測されたので、手を出さなかった。彼女が話しかけようとしてきたのを軽くかわそうとすると、私の血なまぐさい袖をためらわずにつかんで私を引き留めた。


「あの、この人を見たんですか」


 彼女は純真な目で私の顔をしっかりと捉えていた。


「私はクリスって言います。この人に見覚えがありますか」


「関わらないでほしい」


 私は弱い頭を振り絞ってクリスを傷つけず、かつジャックを刺激しない回答を考えたが、クリスは私から離れなかった。クリスは私がジャックのことを知っていることに感づいて、さらに追及した。


「この人は私の兄です。小さいときに私と兄は離れ離れになって、その後連絡が取れないんです。この辺りには殺人鬼が徘徊していて危険なので、何とか無事を確認したいんです…どうか教えてください」


 張り紙を指さしながら、クリスは袖を握る力を強めた。握りこんだせいで、服に染み付いた血のにおいが手についたことで、クリスは私が殺人鬼に関係していることに気が付いたようだった。手を放して涙をこらえながら私に懇願した。


「お願いします!兄に会ったんですか教えてください」


 叫ぶほどの大きな声を出され、私はどうすればわからなかった。しまいには、短い腕で私の服につかみかかって押し倒そうとしてきたので、非常に邪魔くさかった。


クリスが装束の胸のあたりの部分をつかんできたとき、私の特技である我慢が限界に達した。反撃しなければという思考のままに、彼女のまだ柔らかい頭蓋骨につかみかかろうとしたが、ジャックが一瞬のうちに現れ、クリスを私から引きはがした。引きはがされたクリスは、驚いた表情でジャックを見て言葉を失っていた。ジャックはクリスを私がすぐに手を出せないところまで移動させて、クリスを落ち着かせた。彼らの会話は聞こえなかったが、感動の再会を果たしているようであった。


私は幸せそうに微笑む二人をぼんやりとみていた。


彼らは会話を終えると、私の目の前から去っていった。ジャックは去り際に首だけを回して、目で真横の壁を見るように指示した。壁には彼の爪で掘ったと思われる文字で、『寮に戻れ』とあった。彼の目は私に忠告をするようなまなざしであった。確かに、地下道には人が通らなくなったし、住民は固く扉を閉めているためここからでは地上に出ることができない。私は理にかなっていると思い、寮のシェルターに戻ることにした。

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