拾陸

(あれ、なんだ)

 キィン、と、頭の中で高い鐘の音が響いている。滲む光は、眼球を突き破るよう。間近に感じる人の気配、しかしその声は奇妙に遠い。冷水ひやみずが血管を通り過ぎる。生気を攫っていかれるような心地。

「にいちゃん、にいちゃん、大丈夫ッ」

 抜かれた生気を補うように、体が必死になっている。かろうじて繋ぎ止められた意識を、手繰り寄せ、掻き抱く。

「あッ、ミノリ、大丈夫か」

 我を取り戻したキラは、グッと首を起こした。水を吸った着物が、重く肌に貼り付いている。

「大丈夫、僕は。引っ張ってもらったから」

 少年は、乾いた玉砂利の上に膝をついて、不安げにキラを見つめていた。濡れ鼠にならず済んだらしい。

「痛いところはないか」

「平気」

「よかった」

(しかし、俺が倒れちまうとは。貧血か。なにも、今じゃなくたって)

 とりあえずは、立ち上がって川から出なければ。キラは体を支える腕に力を入れた。

「ウッ、てェッ」

 左腕から走った激痛に、彼は驚き大勢を崩し、また水の中に沈む。

「にいちゃん、怪我したの」

 ミノリが裸足で川の中に入り、キラに寄った。

「う、うん。ちょっと、強く打ったかな」

(折れたな、これ)

 少年には曖昧に答えながら、キラは冷静に腕の状態をさぐった。が、まずは探るまでもなく、折れたと判った。

 キラは右手の無事を確認しつつ、体をズルズルと動かした。濡れた石を巻き込みながら岸に移動するさまを、ミノリが見守っている。

「ごめんなさい。ちゃんと、気をつけようと思ってたのに」

「ん、ミノリのせいじゃないぞ。俺が、ちょうどクラっとしちまうのと、おまえが転びかけるのが、重なっちまっただけ。支えるつもりだったんだけど。悪いな、放り投げちまったよな。本当に、怪我してないか。擦りむいたりとか」

「ん、膝のところ、少しだけ。でも、痛くないし、血も出てない。大丈夫」

「そうか」

 腕の痛みは鋭く、ゾッとするほどに激しい。それを堪えながら、キラは冷静であるように努めて、負傷箇所を検分する。

(手首、じゃあないな。前腕だ。尺骨が折れたのか。橈骨とうこつは、どうだ。くそ、わからん)

 前腕の外側の肉が、奇妙に歪んでいる。前腕の芯となっている二本の骨のうち、より太い一本が、半ほどでポッキリと折れているのは確実で、しかしもう一本がどうなっているのかを確かめるには、痛みがあまりにも邪魔だった。キラは検分を諦め、大きく息を吸い、吐いた。

「母さんらのところ、戻ろうか。俺も、サラに手当してもらわねえと。自分じゃあ、できそうにねえや」

 責任を感じているのか、泣きそうな目をしている少年の頭を、痛みのない方の手でポンと撫で、キラはフラリと立ち上がった。水を吸い重くなった着物を絞る余裕もなく、素足のままで、草履に指を引っ掛ける。

(ただでさえ、貧血起こして倒れたってのに。骨まで折っちまうとはな。背中も打ったのかな。腕が痛すぎて分かんねぇ。でも、頭を打ち付けなかったのは、不幸中の幸い、ってところかな)

「ああ、ありがとう」

 ふらつくキラの腰に、ミノリは細い腕を回す。長身の青年を懸命に支えようとする、痩せた子供の気遣いを、キラは受け入れることにした。


 ずぶ濡れのキラと、彼に涙目で寄り添うミノリの帰りに、池の畔でくつろいでいた二人の女人は驚愕の表情を浮かべ、その姿をみとめるなり、パタパタと男子らに駆け寄った。

「なに、どうしたの、一体」

「軽い目眩でな。うっかり。手をついたときに、怪我した」

 キラは、迫る妹に告げた。左腕を庇いながら、青ざめた顔をして。

「僕が、川の中で転びそうになったから」

「まあ」

 母親のもとに戻り、緊張が切れたのか、グスグスとミノリは泣き出した。息子の言葉足らずな説明にも、カヲリは要領を得た顔をした。

「そんな。ごめんなさい」

「いや、いや。違うんだって。偶々、おれも目眩を起こして、一緒になって転んじまったんだ。本当は、軽く支えるつもりだったのに。却って、変に掴んだまま放り投げちまったと思うんだ。ミノリに余計な怪我をさせるところだった」

 キラの言葉を、どのくらい真に受けたのか。カヲリはミノリをなだめてから、羽織を脱いで、背伸びをする。練色の羽織をキラの頭に被せ、つま先立ちのまま、彼の濡れそぼった髪を拭く。

「とにかく、このままではお風邪を召されてしまいます。今日のところは、帰りましょう。怪我の手当も、お家じゃないと難しいのでしょう」

 紫に腫れ上がってきているキラの左腕。それを調べているサラの様子も気に掛けるように横目にしながら、カヲリは言う。

「骨接ぎの先生に、診てもらいましょう」

「んん」

 きっぱりとしたサラの言葉に、キラは歯切れ悪い返事をした。

「カヲリさん、せっかくの綺麗な羽織を汚させてしまって。すみません、ありがとうございます。この人、骨を傷めているようなので、慣れている先生にしっかり手当を受けさせてから帰ります。先に、家に戻っていてください」

「なにもできなくて。お夕飯、用意しておきますから。キラさんは、お粥でいいのかしら」

「ええ、お願いしますわ。久々に外に出て、わたしも気が晴れました。ミノリ君、ごめんなさいね。せっかく、楽しい気分でいたのに。本当に、気にしなくていいのよ。この人が勝手に転んだだけなんだから」

「まったく、情けない。俺が言えた口じゃあねえけど、気をつけて戻ってくれ」


 母子と別れて人力車に引かれながら、知り合いの骨接師の元へと向かう道すがら。道は舗装されているし、引手も気を使ってくれてはいたが、やはり少なからずは揺れるものである。折れた腕を、無事な腕で支えても、カタンと揺すられるたびに、負傷箇所から激痛が走る。

「ああ。こわ」

「仕方ないでしょうに」

「そりゃ、そうだけれど。こわ」

 先程から、キラは治療を受けるのを嫌がっている。骨が折れ、ズレてしまっているからには、その位置を矯正して固定する処置が必要である。無論、医者であるキラは分かっている。それがどれほどの痛みを伴うかも、おおよそ想像できる。ゆえに、怖がっている。

「ねえ、カヲリさんに話したのか」

「なにを」

「俺の具合」

「少しだけ。体調、ずっと優れないようですけれど、お体が弱いんですか、って聞かれたから。最近は、あまりよくないんです、って」

「ふぅん。やっぱ、買い物だとかで街にも出てるし、噂で耳には入るんだろうな」

「そうね、たぶん」

「べつに、虚弱体質じゃあないんだけれど」

「今の状態だけ見たら、そうなるでしょうよ」

「改善できる体質ならなァ」

 ため息がてら、身震いをする。公園を出る前に、サラとカヲリが手分けして念入りに絞ったとは言えど、大きな着物は相変わらず湿ったままであるし、日はまだ空にあるが、真昼もとうに過ぎている。

「着替えを貸してもらいましょう」

「それなら、下帯も取りたいな。漏らしたみたいで、気持ち悪い」

「いいんじゃないの。あとは帰るだけだし」

「うん。あのさ、昔、ふたりで遊んだこと、思い出したよ。婆さんが、川岸にいてさ」

「お祖母様が休みの日、暑い時期はよく行ったものね」

「おまえはもう、川遊びなんてしないんだろうな」

「そうね。外で脚を出すような歳じゃないわ」

「おれは、幾つになっても平気だけれどな」

 懐かしい、と。色の変わった右腕に、キラは目を落とした。口元に浮かぶのは、微笑。

「怪我をしても、いい気分を味わえたなら、よかったわね」

「そうだな。この後が、いやなんだけれど」

 そう言うと、キラは顔を上げ、赤みを帯び始めた空を見上げる。彼は、はは、と笑った。

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