拾伍

「お口、大事はありませんの」

「結構、大事だな。まったく。飯を食ってて、頬を噛みちぎるような間抜けだよ。笑ってくれや」

 一晩、キラは綿を口に詰めて過ごした。隣で横たわりながらも、いつまで経っても眠らない妹は、夜中にソっと、兄の背にすり寄った。

 そう、怖じるなよ。こんなもの、序の口に過ぎないんだから。

 綿の入った、動きづらい口で、背にすがる妹に、そう告げた。ヒュッと詰まる息の音。

 ああ、憐れな女。色濃い血を分けた、双児の片割れ。のみならず、先のない、早々に壊れ死ぬことが、生まれながらにして決まっていた男。そんなものに、恋慕してしまうなど。

 ああ、しかし。そうなるように、仕向けてしまったのは、おれだったか。

 そんなことを思いながら、兄は鉛のようにのしかかる倦怠感に、靄がかる意識を委ねた。

 そうして迎えた朝。そばに妹はいなかった。朝餉だ、と呼びに来た彼女は、いつもの、キビキビとした娘だった。

 キラは、ぬるい粥を口に運ぶ。

(サラにバレちまったからには、もう、ずっとコレだろうな。正直、飯の味なんて、しばらく前から分からなくなってはいたし、口にも腹にも、この方がいいのは、確かだが。いよいよ、病人だ。延々と粥しか食わなけりゃ、この人らにも、怪我したから、なんてもので誤魔化せなくなる)

「出かけられるの」

 握り丸められた米をみ、ミノリは不安げに、キラを見上げた。

「平気だぞ。足腰をやっちまったわけでもなし。悪いな、心配かけちまって。しかし、今日は天気がいい。暑くなりそうだ。青空に、緑が映えるだろうな」

 ほとんど液体の食事を、キラは早々に終える。他の者達が口に運んでいく食物を、彼は眺める。どこか気の抜けた雰囲気でも、漬物と米を口に入れて咀嚼する妹の姿に、キラはひそかに嘆息する。

(この人らが、いてくれてよかった。二人きりだったら、サラはきっと、俺と同じものしか食わなかったろうから。家主が二人して粥しか食わないのに、客人が普通の食事なんて、気が引けるに違いない。そうだ。おまえは、この人らのために、ちゃんと食え。この、痩せっぽちの子供が、遠慮しないでいいように、おまえは食わなきゃならない。それでいい。ああ、よかった、この人らがいてくれて)

「茶でも淹れてくるかな」

 キラは軽い膳を下げがてら、その空間から離れた。


「すごい。広い」

 人の引く車に乗って街を抜け、高台に大社をのぞむ公園へと、四人はやってきた。幾千本にも及ぶ梅の木々。花はとうに散り、緑の葉の合間に、かすかに赤みを帯びはじめた、丸い青実がのぞく。

 社の奥に、紫が枝垂れている。満開の藤の花を背負う、薄緑の屋根。まばらにも絶えない参拝客が、長く広い石段の両端を、ゆったりと移動していく。

 鮮やかな模様を滲ませた、鯉が泳ぐ池のほとりに降ろされ、長く隣町に住んでいた親子は、感動をあらわにする。

 水面には白い睡蓮、浅瀬には水芭蕉、あたりには鮮やかな紅色をした芍薬と、菖蒲かあるいは燕子花カキツバタが花開く。そのほか、開花の時期を過ぎたか、まだ迎えていない多年草が、足場となる石の道を避けるように根付いている。

 陽光は、静かに揺れる水面に跳ね、魚の鰭にあおられた睡蓮が、時折フラリと揺れる。

「ここ、初めて来たのかい」

「ええ。隣町でも、有名でしたし。来てみたいとは、思っていたんですけれど」

 カヲリはうっとりとしたような、心を奪われたような、気の抜けたような、子供がえりしたような顔をして、人の手によってつくられた自然の中、あたりをたしかめるように、ゆったりと、目と、体を回した。

 ミノリは池のほとりにしゃがみ込み、寄ってくる鯉の群れの中に指を入れて、跳ね上がった飛沫に腰を抜かす。

「はは。餌をくれると思ってんな、こいつら」

 キラは笑って、石の上に尻もちをついている少年の後ろに立った。

「餌やりは、どなたが」

「生き物の管理は、あちらの神主さまが」

 カヲリの問いに、サラは藤を背負うスクナの大社を示した。

「あ、そういえば。そちらの神様は、お二人のご先祖様だと。街の方にお伺いしました」

「ええ、そういうことになっています」

「今更ですけれども。改めて、本当に、ご立派なお家なんですねぇ」

「あんなに、大きな建物が必要なほど、栄えていた時期もあるようですけれども。今はもう、二人きりです」

「いずれ、栄えますよ。また」

 カヲリは笑う。サラも微笑む。

(そんなこと、どうでもいいの)

 サラは、少年と笑い合う兄の背を、まぶしげに見つめた。


「水辺って、いいなぁ」

 石の上に膝を抱えて座り込み、小石を池の中に投げ入れながら、ミノリが呟く。

「なんだよ、しみじみと。落ち着くのか」

「うん、それもあるけど。家の近くに、川があって、友達がよく、みんなで遊んでる」

「混ざりたいのか」

「うん。いいなぁ、って。でも、流れが急だし、危ないから。土手の上から眺めてるばっかり」

「川か。この近くにあるぞ。浅いし、流れもゆったりしてる」

「いいなぁ。行ってみたい」

「じゃあ、行くか。まだ、水は冷たいだろうけどなぁ。まあ、せいぜいおまえの膝下くらいまでだ。女二人は、ここでのんびり話していたそうだから、とりあえず、声だけ掛けてくる」

「うん」

 期待に大きな目を輝かせながら、少年は石の上から小尻を離した。


「広ぉい」

 少年はまた、感激の一言をもらした。

 きらめきながら、緩やかに流れる大量の水。水底の丸石を転がし、縁の岩にぶつかりながら、一方へと進む水は、穏やかにせせらぐ。

「入ってもいいの」

「気をつけろよ」

 羽織を川岸の玉砂利の上に放り、着物の裾をたくし上げて、裸足になったミノリは、流れる水の浅いところに足をひたした。

「うわぁ」

「冷たいか」

「冷たい」

 けれども、少年は感動のおももちで、パシャリ、パシャリと、細い脚で水をもてあそぶ。

「あっ、魚」

 水流の中に、きらめく生き物のすがたをみつけた少年は、奥の方へと進んでいく。彼のふくらはぎまでが、水にひたる。

「どれ、おれも久々に入ってみるかな」

 キラは袴の裾を折って、腿まで上げた。草履と足袋を脱ぎ、乾いた玉砂利を素脚で踏みつける。日で温められた石は、少しばかり熱い。

(気をつけていれば、転ぶことも、そうそうないだろうが。川遊びには慣れていないだろうし、万が一のときには、手が伸ばせる距離にいてやろう)

 キラもまた、水の中へと足をひたす。予想のとおりの冷たさには、驚きもしなかったが、冷感はジワリ、ジワリと骨まで染みてくる。

(ミノリは、少しくらい足を冷やしても、平気な体質だからな。けれども)

「あまり、長居はしないぞ。体が冷えすぎたらいけない」

「うん」

 ミノリは、水流に逆らう向きで漂う小魚を、ジッと眺め続ける。追うでもなく、捕まえようとするでもなく、ただ眺めている。

 キラは少年の方へと歩み寄りながら、ふと、過去に思いを馳せた。

(もっと、暑い時期だったな。サラと、おれとで、この川で遊んでいたのを、河原の、ああ、あの石だ。あの石の上に座った婆さんが、眺めてた。どんな表情をしていたっけ。おれたちは、なにがそんなに楽しくて、笑っていたんだっけ)

 足に絡みつく水の感触が奇妙らしく、ミノリははしゃぐでもなく、ただ静かに、浅い川の中にいる。

(なんで、おれはこの子供が、気にかかってしかたがないんだろうか。同情しているのか。この子供が、少しでも元気になると、おれは自分が救われたような、そんな気分になる。歳は、十二下か。微妙な差だな。兄弟気分になるには、少し離れているし、親子気分になるには、少し近い)

 沢にいるにしては大きな蟹が、ノロノロと水底を歩いている。銀色の小魚に夢中でいるミノリの足元に、彼の背後から歩み寄っていく。

「デカい蟹」

「えっ、なに」

 ポツリと呟いたキラの声に、言葉に、ミノリが振り返る。足元に迫っていた生物の姿に、彼は驚き、たたらを踏み、水流にとられた脚をもつれさせる。

「ぎゃぁ」

 こんな事もあろうかと。そのつもりで少年の近くにいたキラは、転びかけた子供へと手を差し伸べた。

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