2章 ただ純粋だっただけ

第1話 起こる前触れなのか

 怖い、嫌や、怖い……!


 速水はやみカナは夜道を急いでいた。まだ21時頃で、ひとり暮らしの社会人なのだから門限がある訳では無い。この後に用事がある訳でも無い。なのに彼女のハイヒールに包まれた足は、少しでも早く早くと急き立てられる様に動いていた。


 ここは街灯もある商店街なので、周りの人通りも多くは無いがちらほらといる。お店などはほとんどが閉まってしまっているが、明るさはそれなりにある。不穏を感じるシーンでは無い筈だ。


 やっぱり気のせいやない! 後ろに何か……! 怖くて振り返れへん!


 寒いのに、額と背中にじわりと汗が滲む。走っているからだけでは無く、きっと冷や汗なんてものも混じっているだろう。


 商店街を抜けて住宅街に差し掛かり、人家の灯りのある通りになるが、駅から離れれば離れる程暗さは増して行って、人通りも少なくなる。カナの中の恐怖心は増すばかりだ。


 あと、あとちょっと……! もう少し行ったらカフェがあるから、そこで……!


 そうしてカフェから漏れ出る灯りで通りが微かな明るさを取り戻した時、その前にいた店員と思しき青年と目が合って、カナは安堵して強ばった表情をほっと崩した。




 クリスマス、そしてお正月も越し、新たな年を迎えていた。寒さはますます増し、外を歩けば耳が凍る様だった。


 晩ごはんの時間帯もやや落ち着いた20時過ぎ、店内はまた静かになっていた。カフェ・シュガーパインの閉店時間は21時だ。秋都たちはお客さまに気取られない様にこそこそと後片付けを始める。オーダーストップももうすぐである。


 最後のお客さまが退店されたのは、閉店時間の21時だった。おふたり連れの女性のお客さまはまだまだ話し足りないのか、席を立たれてからもきゃっきゃとじゃれ合いながら出て行かれた。


 これから駅前に戻って2軒目にでも行くのかも知れない。若人にとって週末の夜はまだまだこれからだ。


 そんなふたりを微笑ましげに見送りながら、春眞は外に出していた黒板を店内に片付け、ようとした時。


 ひとりの女性が駅、商店街の方から息せき切って走って来た。かなり慌てている様子だ。春眞と目が合うと、安堵した様に見えた。目の前で止まる。


「あ、あの、もう閉店で、すか?」


 荒い呼吸を繰り返しながら、女性は途切れ途切れに言う。確かに閉店なのだが、女性から只ならぬ雰囲気を感じた。慌てている様子もそうだが、何やら怖がっている様な、不安がっている様な。そして顔色が悪い。


 灯りはシュガーパインから漏れ出るものぐらいで薄暗いが、春眞の目からははっきりと見えた。一般的な女性の肌色を差し引いたとしても、陶器の様に青白い。


 流石にこのまま返してしまう事が躊躇われ、春眞は女性を店内に促した。


「大丈夫ですよ。どうぞ」


 すると女性は心底安心した様に、ぎこちなく微かな笑みを浮かべた。


 春眞が店内に女性をご案内した時、カウンターに居た秋都がそれに気付き口を開き掛けた。が、女性の後ろで小さく頷いた春眞を見て、女性を歓迎する様な笑顔を浮かべた。さすがカフェ経営者であり、営業用でもオネエはこういう機転が利いて助かる。


「こちらへどうぞ」


 それは茉夏も同様で、テーブルを拭いていた茉夏は女性の為ににこやかに椅子を引いた。女性は小さく会釈をすると、そこに浅く腰掛ける。すると両手で腕を抱く様に縮こまり、かたかたと震え出したのだ。近くの茉夏は勿論、見守っていた秋都も春眞も驚いた。


「どうかしはったんですか? 具合が悪いとか……」


 まさか救急車案件? 茉夏が慎重に訊くと、女性は震える小声で呟く様に言った。


「……怖い、んです……。誰かに、追い掛けられてる様な気がして……怖ぁて」


「それは……」


 どうしたものかと、茉夏の視線はまず秋都に移る。すると秋都は何やら考え込む様な表情を浮かべ、すぐに電話を持ち上げた。


 このシュガーパインは賑やかな駅前からは僅かに離れた住宅街にあるが、商店街が近いこともあり、この時間帯でもわずかだが人通りがあると言える。なので幸いにも痴漢やら何やらそういった類のものが出現したという話は殆ど聞かなかった。


 だからと言って必ず出ないという訳では無いだろうし、根拠にもなりにくい。何よりこの女性の怯え方は嘘だとは思えなかった。


 痴漢許すまじ! と思ったかどうかは不明だが、茉夏の拳がぐっと握られる。男前の茉夏はその辺の男よりよほどフェミニストだ。


 いや、まずこの女性が遭ったのは痴漢とは限らないのだが。


「ごめんなさい、こんな事言われても困りますよね」


 女性は顔を上げ、不安の滲んだ表情で、だが気丈に微笑んだ。茉夏は首を振る。


「お気になさらんでください。しばらく休んでかれてくださいね。ご自宅はどちらですか? よろしければ後でお送りしますよ」


 この状態のまま外に出て貰う事は流石に出来なかった。追い掛けられているのが本当であれ勘違いであれ、彼女が恐怖を感じている事に間違いは無いのだから。


「ええ、よろしければ車お出ししますよ」


 春眞も援護射撃をする。3人とも運転免許を持っていた。


「ああ、いえそんな……少し時間をいただけたら、大丈夫やと思いますから。家もそんな遠無いですし」


 女性はそう言い首を振る。しかしここで引き下がらないのが茉夏である。もし彼女がひとりで帰る事になっても、無事家に帰り着くまで後を付けるぐらいの事はするだろう。自分の性別を忘れて。本当に痴漢が出ているのなら、自分こそ危ない筈なのに。


 ……いや、茉夏なら返り討ちにする可能性が高い。その辺の男性相手なら怯まない茉夏である。


 秋都がカウンターから出て来た。手にはコーヒーと紅茶が載せられたトレイが。


「お客さま〜、コーヒーとお紅茶、どちらがお好みかしら〜?」


「あ……、紅茶が好きです」


「ではどうぞ〜。サービスですよ〜」


 秋都は温かな紅茶を女性の前に置いた。女性は先程より幾分か安心した様な表情でカップを手にした。


「ありがとうございます……」


 選ばれなかったコーヒーは秋都が口を付けた。秋都ご自慢のブレンドだろう。茉夏と春眞が「自分たちのは?」と訊く様に人差し指で自らを指すと、秋都は親指を立ててカウンターを示した。その先には湯気の昇るカップがふたつ。


 ただしカップはお客さま用のものでは無く、いつの間に取って来たのか、休憩中に使うマグカップだったが。


 意地でもカフェのものはお客さまのものというスタンスと言う訳か。流石だ。


 さて中身は……驚きだ、いつものインスタントでは無かった! 旨いで兄ちゃん! つい茉夏と目を合わせて、こんな時なのに感動してしまう。


 いつの間にか女性の身体の震えも治まった様で、美味しそうに紅茶を啜っている。ああ良かったと春眞は胸を撫で下ろす。


 さてどうしたものか。春眞としては、本当に車を出しても良い、寧ろそれが良いと思っていた。状況が状況なので、男性だけに送られるのは怖いだろうと思うので、茉夏にも同乗してもらおう。多分、いや確実にふたつ返事だろう。言われずとも乗り込むかも知れない。


 その時、表のドアがやや乱暴な音を立てて開かれ、ドアの近くに設えた棚に置いてあるシュガーパインの鉢植えが小さく揺れた。


「ただいまー」


 末弟の冬暉だった。冬暉は兄弟の中で1番粗野と言うか乱暴な面がある。迂闊に暴力に訴えないのが幸いであるが、いかんせん口が悪い。身も蓋もない言い方をすれば、柄が悪い。春眞たち兄弟は慣れたものだが、初対面の、特に女性には怖がられる要素になっている。


「ちょっともう冬暉〜、ドアはもうちょっと静かに開け閉めしてよね〜。シュガーパイン落ちちゃったらどうするんよ〜、レンタルなんよそれ〜」


「うるせぇわ! それより電話の女性どこや。っと」


 3人の兄姉たちに囲まれる様に座っている女性に目を留める冬暉。ふん、と小さく頷いた。


 秋都が電話を掛けた先は冬暉だったのだ。冬暉は警察官なのである。女性の言が本当なのか気のせいなのかは判らないが、女性を安心させる為にも警察の耳に入れておくのは有効だと思ったのだろう。しかし。


「あんたか。とりあえず今日は送ってやっからよ、明日にでもうちの署に来いや」


「え、あの」


「ちょ、ちょい待ち冬暉!」


冬暉ユキちゃんちょっと!」


「ちょっと冬暉〜」


 乱暴に先々と話を進める冬暉に、女性は戸惑い、兄弟一同はストップを掛けた。


「何やねんおめぇら」


「何やねんや無いって。冬暉、まずはちゃんと話を聞いてあげてって」


「秋兄から聞いたんで充分やろが。どっちにしても被害届け出すんやったらうちに来て貰わんとどうにもならんやろ」


 面倒臭そうに言い捨てる冬暉の頭を、茉夏が怒りを込めて叩いた。


「痛てぇな! 何すんだ姉貴!」


「ほんまにあんたはいちいち急かし過ぎ。そもそもこの女性はユキちゃんの仕事とかも知らへんねんてば。あ、あのですね、この冬暉は私らの弟で、警察官なんです。安心していただけるかと思うて呼んだんですが……やんね? 秋ちゃん」


「そうよ〜」


「電話なんか無くっても帰って来るんやから一緒やろうが」


「だってもう9時よ〜、遊びに行ってるんやったら、いつ帰って来るか判らんじゃな〜い」


「仕事やっての」


 女性は呆然としている。先ほどまでの落ち着いた雰囲気で女性も安心していたと言うのに、突然慌ただしくなったものだから、付いて来られないのだろう。冬暉は口が悪い上に短気だ。よく警察官なんて仕事が続いているものだと思う。


「ただの痴漢なら、わざわざあんたを呼ばないわよ〜 ほら、万が一って事があるじゃな〜い? ねぇお嬢さん、追い掛けられてるって感じたの、今日が初めてかしら? まだ9時でしょ〜? 確かに遅い時間だけども、人通りだってまだあるし、痴漢が出るには早い時間だと思って〜」


 秋都のこの台詞で、冬暉の目がすっと細められた。曲がりなりにも警察官。敏感に秋都が言おうとしている事を感じ取った様だ。


「秋兄、ストーカーとか疑ってんのか?」


「ピンポーン」


「え、そんな」


 努めて脳天気そうに応えた秋都とは対照的に、女性の表情にはまた怯えが走った。それに気付いた茉夏は女性を労る様に、その肩にそっと手を掛けた。

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