第44話

 大学、家庭と始めのうちは要領がわからずにあたふたし、料理も時間を読むことができず、早く作り過ぎて冷めてしまったり、颯太が帰って来ても直ぐに出すことができなかったりとしていた。しかしそれも一ヶ月もすれば慣れはじめ、要領がつかめるようになっていた。そんな真奈美は颯太は「無理をしなくてもいいから」「急がなくていいよ」といつも見守ってくれていた。


 どこか現実感が無く結婚した真奈美だったが、葉の色が赤やオレンジになり始めた頃には、それを実感していた。大学でも、家の事と両立することで、交友関係がなくても気にはならなくなっていた。


 主婦としても自信が出来はじめた頃だった。真奈美の携帯に知らない番号からの着信があった。


「もしもし?」


 誰か番号を変更して掛けてきたのだろうか? 相手が誰か確かめるように電話に出る。


「真奈美?」


 心臓がキュッと萎縮したように痛んだ。懐かしい声。


「もしもし? 僕だけど……」

「健吾」

「良かった。違う人が出たのかと思った。久しぶりだね」

「うん」

「結婚したって聞いた」

「うん」

「おめでとう」

「うん」

「さっきから、うんってばかりだね。迷惑だった?」

「――健吾、大学を辞めたんだね」


 健吾の質問には答えられなかった。迷惑と言い切れない自分がいたからだ。


「そうなんだ。色々あってね」

「今、どこにいるの?」

「都心に近い場所」

「そう、なんだ」


 それから会話が途切れてしまった。太陽の光を反射して、眩しいほどに光っている水面のような思い出と、川の底に沈殿している泥のような記憶。懐かしい気持ちに混じって、急激に込み上げてくる。


「ごめんね。急に電話をして。繋がるとは思わなかったから」

「うん」


 そこから次の言葉が出てこなかった。健吾が幕を下ろすように言った。


「まって!」


 思わず真奈美は引き留める言葉を発してしまっていた。


「真奈美?」

「何かあったの?」

「ただ真奈美の声が、聞きたかったんだ」

「それだけ?」


 何かを期待している自分がいる。健吾の返事を待った。


「会えない? 会いたい」


 真奈美はどこでいつ会うかを、決めて電話を切った。会う約束をしたのは、講義が午前中で終了する水曜になった場所は人目に付かない場所……健吾の家でと言うことになった。


 健吾に言われた駅に行くと、既に改札で待っていてくれた。住まいは、以前のマンショに比べ、質素なアパートだった。


「汚くてごめんね」


 錆びた階段を上がると、洗濯機が廊下に置かれていることに驚いた。二階の奥が健吾の部屋らしく鍵を差し込まずに開けた。


「鍵、掛けてないの?」

「ああ、うん。盗られるような物はないから」


 力なく笑う健吾を見て、真奈美は憐憫を覚えた。靴で埋め尽くされた小さな玄関から中に入ると、以前と比べられないほど荒んでいた。時代を感じさせる流しには、食べたままのカップ麺の容器と、置かれたままの食器。八畳ほどの部屋に置かれたベッドの上には雑誌が散乱し、同じく置かれたテーブルにも、食べ残しの菓子袋。畳の上にそのままになった衣服。その為か、部屋の中は何ともいえない臭いが充満している。


「ごめん。すごく散らかってて。適当に座ってて。何か入れるから」


 冷蔵庫からペットボトルの水を出している。


「コップ、綺麗なのがないから」

「うん」


 手渡されたボトルに何となく手を伸ばせない。真奈美は狭い部屋を、見回した。


「ここ家賃が安いから」


 天井を見上げるように健吾が言う。


「掃除、してもいい?」

「え?」

「部屋を綺麗にしないと。明日から、時間がある時に来ても大丈夫?」

「え? いいの?」

「うん。それより健吾、今は何をしてるの?」

「うーん……バイトしたりかな」


 歯切れが悪い返事だったが、バイトでも働いているという事に真奈美はほっとした。


「大学、どうして辞めたの?」


 健吾は返事をはぐらかすように話題を変えた。真奈美も触れてほしくないことなのかもしれないと、それ以上の追及をしなかった。

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