第35話

 適当なベンチに座った真奈美は、かじかんだ手を少しでも温めるため、両手に息を何度も吹きかけた。 温まっては直ぐに冷えてしまう手が、完全に温まることはない。


 真奈美はバックから携帯を取り出して、膝に乗せた。どれくらいそうしていただろうか。残っていた朱い空が、ほとんど夜に身を潜めてつつあった。

 真奈美は携帯を持つと、健吾に掛けた。掛けたものの、出てほしい、出てほしくない気持ちが何度もせめぎ合っている。

 あと三回呼び出しても出なかったら切ろうと、カウントダウンを始めた。その直後、電話が繋がり、真奈美は慌てた。


「もしもし真奈美?」


 いつもと変わらない健吾の声。でももしかしたら、誰か隣にいるのかもしれないと考えると、声が詰まってしまう。


「真奈美? 何かあった?」

 

 あったよ。と言いたい。でもやっと出たのは言葉は「明けましておめでとう」だった。


「おめでとう。メールだけだったもんね。忙しくてごめん」

「ううん。実家はどう?」

「変わりないかな。結局バイトがあるし」

「今日は何してたの?」

「今日は昼まで寝てたんだ。今からバイト」

「出かけてないの?」

「家族で出かける予定だったんだけど、母さんが嫌だって言いだして」


 雷が体を突き抜けたようにショックだった。健吾が明確に嘘をついた。一緒にいたのはきっと家族でも親戚でもない。


「今日ね駅で、健吾が女の人と腕を組んで歩いているのを見たの」

「え? なんで?」


 その言葉が全てを語っていた。


「違うんだ真奈美、今どこにいるの? 会って話がしたい」


 真奈美は迷った。確かに嘘をつかれた事、自分とは会えないのに他の女性を一緒にいたことはショックだ。

 でも電話で全てを終わらすのは気が引けるし、健吾の事は嫌いにはなれない。なぜなら優しくて自信がなかった彼を知っているからだ。


「今から家に行ってもいい?」

「うん。マンションで待ってる。本当にずっと待ってるから」

「バイトは?」

「休む。だからずっと待ってるから」


 懇願する健吾の声を聞いた真奈美は、一度家に遅くなるかもしれないと連絡を入れてから、公園を出た。


 マンションの近くまで来ると、玄関ホール前で自分の体を抱え込むように立っている人影が見えた。距離が縮まるにつれてそれが健吾であることを知った。

「健吾、何してるの?」

「真奈美……」


 今にも泣きそうな声で真奈美の方に向かってきたかと思うと、そのまま健吾に抱きつかれた。


「ごめんね。ごめん……」


 真奈美は、大きな犬に抱きつかれているみたいだと思った。耳元で健吾が鼻を啜っている。


「とにかく部屋に入ろう。体、冷えてるみたいだし」

「うん」


 返事をしても、健吾は真奈美を離さず動かない。真奈美は子供を落ち着かせるように、彼の背中をポンポンと叩いた。


「部屋に行こう」


 健吾の体が少し離れると、胸元が急に冷え込んだ気がした。そして大きく冷えた穴が開いたように思えた心が、ゆっくりと戻っていくようだった。

 部屋に入ると、電気も暖房も点けたままになっていた。


「座って。温かい飲み物をいれるから」

「いいよ。それより健吾、冷えてるでしょ?」

「僕は大丈夫だよ」


 力なく笑った健吾の顔を見て、胸が痛んだ。先に傷ついたのは自分のはずなのに、心臓が半分ほどに縮んでしまったかのように息苦しくそして、短い時間で色をかえてしまう、夕日を見た時のように切なくなる。

 真奈美は入れ立てのコーヒーを一口飲み、健吾が話すのを待った。

 カップの中が、半分くらいになった時だった。


「僕、舞い上がってたんだと思う」

「え?」


 目を伏せながら、健吾は続けた。


「始めは凄く嫌だったんだけど、言い寄られてるうちに徐々に洗脳みたいな感じになってたんだと思う。そのうち、一度でいいからデートしてくれ、そしたらもう諦めるからって言われて。そんなことが数人とあったんだ。本当にごめん」


 健吾は、勢いよく頭を床につけた。

 健吾は優しい。それに彼に言い寄ってくる女性たちの押しの強さは真奈美もわかっている。

 そして健吾のその優しい部分を執拗に突くようにして、彼が折れたのだろう。それは何となく想像できた。でも心のどこかで少し、それでもきっぱりと断って欲しかったという思いがあった。

 目の前で土下座をする健吾を見ていると、急に不憫に思えてくる。


「もういいよ。顔を上げて。でももうしないで欲しいかな」

「本当にごめんね」

 

 健吾はそのまま、子供が甘えるように真奈美の腰に抱きついてきた。


「僕には真奈美だけだから。僕を見つけてくれたのは、真奈美だから。愛してる真奈美」


 膝にある健吾の頭を、なだめるように撫でる。その度に細くて柔らかい髪が、真奈美の指に絡まった。


「私も。愛してる」


 健吾は真奈美の足に、何度も唇を這わせた。次第にスカートを捲り上げると、真奈美を床に押し倒した。

 傷けられたはずの相手なのに、こうして覆いかぶさってくる健吾が愛おしくて仕方がない。胸元まできた彼の頭を、赤ん坊を抱くように大事に腕で包み込んだ。


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