第8話

 朝、いつもと変わらない両親が「おはよう」と挨拶をしてきた。昨日の姿はどこにもなかった。


「おはよう」


 母親の隣に立って朝食の手伝いをする。パンを焼きながら、コーヒー豆を轢いて、真奈美がスクランブルエッグをつくる。

 豆の香ばしい香りがまだ寝ぼけている頭を刺激する。父親は経済新聞を読みながらニュースを見て、できたてのコーヒーを飲んでいた。


「今日は遅いの?」

「うーん……別に予定はないから、講義が終われば真っ直ぐ帰ってくるとは思うけど」

「あらそうなの? じゃあ夕飯は準備しておくわね」

「うん」


 朝食を終えて部屋に戻ると、携帯のランプが点滅していた。送信者は笙子からで、受信時間は昨日の零時。起きた時は朝日で反射して気付かなかった。


「昨日あれから一緒に帰って行ったけど、話を聞かせてね。明日は一限から必修だから席、取っておくね」


 話を聞かせてと言われても、同じ地域に住んでいて、親同士が知り合いという地元の話になってしまう。

 真奈美は嫌われないように笙子からの内容を何度も読み直して、文章を考えて返信をした。


「行ってきます」

「気を付けてね」


 いつものように玄関を出て駅に向かうと、早足で歩くサラリーマンが何人も真奈美を追い抜いて行く。

 追い抜いて行く人たちはあっという間に見えなくなる。


 今日はヒールのないパンプスを履いた。昨日のように痛くなる心配はないが、まだ昨日の名残が足に残っていた。


 駅前にある横断歩道で信号待ちをしていると、肩に何かが当たった。見ても肩には何も付いていない。


「おはよう」


 隣に立っていたのは成海だった。


「あ! 成海さん。おはようございます」

「昨日は大丈夫だった?」

「はい。送ってもらってありがとうございました」

「いいよ。家が近いんだし。それよりいつもこれくらい時間に駅にいるの?」

「一限目がある時はそうですね。でも一年だから毎日そうなんですけど。大学に入ったら、今日は昼から講義でゆっくり寝られると思っていたら、ほとんど一限から六限まで授業があって、高校と変わらないんです」


成海は白い歯を覗かせた。


「そうだね。でも二年になれば少しだけ余裕はできるから、心配はないさ」

「そうなんですか?」

「まあ普通に履修していれば、ね。大瀬良さんは心配ないだろうけど」


横断歩道の軽快な音が響き、真奈美も急ぐ人並みに自然と歩調が揃ってしまう。


「時間、まだ大丈夫でしょ? そんなに急いで歩いたら、危ないよ」


「だ、大丈夫です」と言いながら心の中では多分と付け加えていた。


「あの、成海さんって……うちの両親と知り合いだったんですね」

「え? ああ」


 成海の返事は、薄い膜が張られたような拒絶が混じっている気がした。でも漏れ出る好奇心から見て見ぬ振りをした。

「それに立派な家、みたいで」

「まあ、議員とかやってるだけど俺は関係ないから。家は兄が継ぐし、俺は次男だからこうやってサラリーマンやってる。他とそう変わりはないよ」

「でも昨日、どうして急いで帰っていったんですか?」

「懇意にしてるってのは何となく知っててね。なんか掴まると……ね?」


 継がなくて関係が無いといっても、その名前は砂糖菓子のように甘く、蟻が群がるにはということなんだろうと、昨夜の両親の言葉を思い出し理解できた。


 吸い込まれるように改札を抜けホームに立つと、すぐに電車が滑り込んできた。押されるように乗り込んだとき、成海と離れそうになった。でも手首を掴まれ引き寄せられた。


「大丈夫?」

「へ? あ、はい」


 ムスクのような爽やかな香りが、成海から香ってくる。慌ただしく跳ねる胸の振動が、空気を伝って相手が感じるのではと心配になった。

 車内は音楽を聴く人の音漏れや、何とか読もうと新聞を捲る音。電車が揺れると、みんなが同じ方向に傾く。

 気を反らせた真奈美の心臓は、何とか平常運転に戻りつつあった。

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