8、手紙

 クロエはどきどきしながら祖母の話の続きを待った。窓の外ではまだ三日がかりのマドレブランカの秋祭りが続いていて、青い空にひとつ、誰かの手からはぐれて風船が昇っていくところだった。


 イルゼは帰ってきてから約束のとおり話のさせられどおしで、ようやくゆっくりとお茶を一口すすった。


 「それから半年かけて、ルイージはシャルロッタのためにたくさん実験をしたの。やり方なんてどこにも書いていないから、ルイージは一から手探りでいろいろ試さなければならなかったのね」

 「うまくいったの? 」


 クロエはせっかちに尋ねた。イルゼは焦ってはだめよと笑い、お茶をもう一口飲んだ。


 「その半年からもう三か月経ったある週末、シャルロッタではなくて、わたしのところへルイージから手紙が来たの。僕はもう治療はできない、シャルロッタには、君から謝っておいてほしいって。それしか書いていないの」

 「えっ? 」

 「無責任だと思うでしょう。長いつき合いのあるわたしだって、まさかそんなことをするなんてと思って、ずいぶん頭にきたわよ。絶交してやろうと思ったくらい。だけど、シャルロッタは違った」


 シャルロッタは真っ先に、ルイージの身に何か災難があったのではと案じ、イルゼが止めるのも聞かずにマドレブランカを飛び出した。追いつくのがやっとだったわと、イルゼは目を細めた。


 「シャルロッタがどんなにルイージを信頼していたか、彼は自分では何にも分かっていなかったの。馬鹿な人でしょう――多分、わたしたちが怒るようにわざと失礼な手紙を書いたのね。とっくに絶交されたはずの相手が急に訪ねてきたものだから、あの人ったら本当に飛び上がったのよ」

 「おばあちゃんたちと別れようとしたってこと? 」


 クロエはルイージの意図を汲みきれず、首を傾げた。イルゼは眉を下げて頷いた。


 「シャルロッタの心配どおりのことが起きていたの。しかも、ルイージの災難は思っていたよりずっと深刻でね。きっと、シャルロッタに悲しい思いをさせたくなかったんだと思うわ。落ち込んでいるところを見られたくなかったのかもしれないし……そんなところで格好つける必要ないのにね。それとも、こんなありさまじゃ彼女に告白できないとでも思ったのかしら」


 イルゼは一息ついて、言った。


 「……ルイージはいろいろ試しているうちに、自分の中から〈色を感じる力〉を抜いてしまったの。どうしてそんなことになったのか、そのときは何も分からなくてね。彼の目は、シャルロッタよりややこしいことになってしまった。シャルロッタが色を見られないのは、彼女の目の錐状体が働いていないからだったわね。同じ理由で、目が悪かったり、視線を固定できなかったり、光に敏感だったりもしたわ。でも、ルイージの目はそうじゃなかったのよ――彼の世界からは色が……本当に色だけがなくなってしまった。魔法医の資格も返さなければならなくなったの。煮ている薬の色がはっきり分からないと、毒を作ってしまうかもしれないでしょう? 」


 イルゼはなぜか、楽しそうにルイージの身の上話を続けた。


 「ルイージはシャルロッタに泣いて謝ったけど、ふたりともウォーメル家の家訓を忘れていなかったの。世界は、理不尽なことばかりでできてはいない。――ルイージはシャルロッタに、結婚を申し込んだのよ」

 「結婚」


 クロエは目を丸くした。


 「おばあちゃん、証人になったの? 」

 「ええ。そうなったらいいなとは思っていたけど、驚いたわよ。ルイージはシャルロッタに合わせる顔がないと思い込んであんな手紙をよこしたのだけど、シャルロッタはルイージが思っていたよりずっと勇敢だったのね。それでようやく、彼のほうにもその勇気が芽生えたってわけ」


 イルゼはほほえんだ。ルイージとシャルロッタの再会に立ち会った当時の祖母も、おそらくこんな表情でふたりを祝福したに違いないとクロエは思った。


 「ルイージはそのあと、モンドさんのお店を手伝いながら自分がした研究を本にまとめて発表したの。失敗はしたけれど、目のつけどころが斬新で、貴重な実験だったから。それで国中に名が知れて、治療の方法について意見がほしいって依頼が来るようになって……魔法医だった頃以上に、彼は有名になったの。彼のおかげで助かった人もひとりやふたりじゃないと聞いているわ」

 「ルイージさんの目は、治ったの? 」


 クロエは尋ねた。イルゼは首を振った。


 「しばらくして治す方法は分かったのよ。というか、彼に治せないはずないのよ。彼の考えた理屈の通りに魔法は働いたんだから。ちょっと、考えてごらんなさい。今までの話の中に、実は答えがあるのよ」


 クロエはしばらく黙って考えた。もともとルイージ・ウォーメルの考えていた案は、錐状体の代用として水晶を用意し、杆状体が感知した明度と頭の中で合成するというものだった――色は脳が知覚している――ルイージ・ウォーメルは、色を見ること〈だけ〉ができなくなってしまった――。


 「おばあちゃん」


 クロエは腕に鳥肌が立つのを感じた。


 「ルイージさんが変えてしまったのは、〈目〉じゃなくて〈頭の中〉だったんじゃ……? 」


 イルゼは満足そうに頷いた。


 「そのとおりよ。ルイージの魔法が働いたのは彼の目ではなくて、頭の中だったの。考えれば当たり前よね。彼は、最初から頭の中へ直接色を送ろうとしていたんだもの。……なのに、〈見えない〉というだけでルイージは目の調子を変えてしまったんだとみんなが――ルイージ本人もよ! ――思い込んで、なかなか原因が分からなかったのね。……でも、治せると分かっても、ルイージは目を……正確には、頭を治さなかったの」


 クロエは驚いて、とっさに声が出なかった。


 「ど、どうして! 」

 「ルイージは、わけを話してくれなかったわ。いつか治すつもりだったかもしれないし。でももしかしたら、色のない中に生きて、シャルロッタと同じ世界に住んでるつもりだったのかもしれないわね……」


 イルゼは謎めいた出来事を語るための、とっておきのひそやかな口ぶりで話を続けた。


 「ルイージは二十年と少し前に、シャルロッタもそのあと二、三年で亡くなって、あとに残ったのはふたりの友だちだったわたしと、ルイージが魔法をかけた〈夕焼け〉だけ――」

 「〈夕焼け〉? 」

 「ルイージが叔父さんのお店で買った水晶のことよ。ルイージは水晶に、夕焼け空から色を写し取ったの。世の中で一番美しい光の集まりだから、もしうまくいったら、シャルロッタはこの世で一番美しい世界を見られるに違いないってね……実は、〈夕焼け〉の中にルイージの〈色を感じる力〉が一緒に混ざっているのよ。頭に送ろうとして頭から抜いてしまったんだから、ルイージがかけたのと逆の魔法をかければ彼の目は元通りになったはずだわ」


 魔法って奥が深いわよね、とイルゼは笑った。


 「オレンジ色の石なんだけど、中にはとても上手に色を入れてあってね。宝石で言うとオパールに似ていて……ルイージの研究の本に載ってたおかげですっかり有名になって、欲しがる人の多いこと……」


 クロエは口の中がからからになって、同時に、すうっと頭が冴えるのを感じた。もしかしたら、もしかしたら、もしかしたら……。


 クロエは勢い込んで尋ねた。


 「それ、今どこにあるの? 」

 「シャルロッタが亡くなる前にわたしに譲ってくれてね。あの人に引き会わせてくれたあなたに、と言って……ミュセッティの家で宝物として受け継いでいこうと思ってリーツェに渡したのだけど、あの子が家を出て、それっきりになってしまったわ」


 イルゼはすまなそうにクロエを見つめた。


 「ルイージにも、シャルロッタにも、それにあなたやセヴィアンにも、なんだか申し訳ないことになってしまったわね。せめて、誰か値打ちの分かる人が大切に拾ってくれていたら……」

 「……そうね」

 「セヴィアンの目はルイージと同じだわ――あの子、飛行艇の設計をしているんだものね。シャルロッタは、細かい作業が苦手だったのよ。……ルイージったら、まさか孫に遺伝するかもしれないなんて思っていなかったんだわ」

 「ええ……」

 「……クロエ、どうしたの? 顔色が悪いわよ」


 クロエは祖母を見た。イルゼが心配そうにこちらを覗き込んでいる――クロエは目を背けた。


 「……おばあちゃん、お話してくれてありがとう。でも、あの、わたしちょっと頭が痛くて……一晩寝れば、よくなると思うんだけど」

 「大変じゃない! それじゃあ、もうお部屋でお休みなさい。温かくするのよ」


 クロエは部屋に引っ込んだ。頭が痛くなったのは、嘘ではなかった。混乱して、何から考えたらいいか分からない。


 クロエはドレスの立ち襟から、首飾りを引っ張り出した。あの日母から譲り受けた、たったひとつの形見。――オレンジ色の、オパールに似た石。そんなはずはない、そんな話は聞いたこともない、と否定することは、もうできなかった。否定する前に、クロエには分かってしまったのだ。これが、この首飾りの石こそが〈夕焼け〉であると。


 セヴィアンが探しているのは、この石だったのだ。これさえあれば、彼は色を見ることができるようになる。魔法医の免許も取れるようになる。飛行艇の仕事だって、これまでよりやりやすくなるに違いない。それに、画材の色が分かるようになる。彼は、自分の夢を叶えられるようになるのだ。


 でも――とクロエはまとまらない考えを頭の中で繰り返した。でも、あの雨の晩に、彼は決意を新たにしたのではなかったか。他人の価値観に生きるのをやめ、清々しく未来を選ぼうと決めていたのではなかったか。今さらこんなものを渡したら、かえって彼の邪魔になるのではないか――。


 祖母にとってだって、親友と娘の二重の形見がクロエのもとにあると分かれば、その方がいいに決まっているし――。


 いえ、違う――クロエは〈夕焼け〉を握りしめた。どんなにごまかそうとしても、答えはたったひとつしかない。

わたしは、これを渡したくないんだわ。たとえ、それが彼にであっても。


 「母さまの形見は、これっきりなの――」


 それがどんなに卑怯な言い分かを、クロエは分かっている。セヴィアンに渡した方がいい、ということも、きちんと分かっているのだ。けれど、手放すことなど考えたくなかった。


 クロエは泣かなかった。彼女は少しだけ震えながら、隠しごとの相手に向かって謝ることしかできなかった。セヴィアンはみずからに与えられたものを顧みる勇気をクロエがくれたのだといったが、彼はもともと自分の身の上を嘆いたりしない人だったに違いない。ルイージやモンドがそうだったように、世の中は理不尽ばかりでできているのではないと教えられて育ってきたはずだから。クロエも、それが真実だと思っていた。


 それなのに、なぜよりによってこんな理不尽なことが振りかかってきたのだろう! この選択に、どんな可能性が秘められているというのだ! 自分こそが彼の幸せの邪魔をしているのだという、そんな事実がなかったことになったなら! ……


 ごめんなさい、セヴィアン。わたしには、勇気がないの――。


 日記の中のリーツェは、そんなクロエのことも決して嫌ったりはしない――。


 ――十月十五日、  初めまして、クロエ。



 アルモニア歌劇団を離れて養生しているクロエに届く手紙の差出人は、主にディーナだった。彼女の手紙は軽やかなおしゃべりのようで、押し花だとか、きれいな包み紙のお菓子だとかが大抵一緒に送られてくる。


 切手の消印は、ひと月経ってもふた月経ってもカレン・トーラントのままだった。ディーナの手紙によると――『デルトーレの賢女』はミリアの代役で何とかつつがなく閉幕した。そのまま次の劇場と出演交渉をはじめてもよかったのだが、『デルトーレ』の開幕前に町主催の歌劇に出演していたことが評判となり、カレン・トーラントの劇場側からしばらく滞在してくれないかとの申し出があったとのことだった。アリア・ハットンの復帰を望む声も多く、自分たちもカレン・トーラントで待つことにしたと。


 手紙の最後には、エドウィンや、ライアットや、スオロや、代役を見事務めてくれた後輩のミリアたちが、必ず何かを添えてくれる。無理をしないようにという労わり。元気で戻ってきてねという励まし。色とりどりのインクで花束が描かれていたこともあったし、のど飴が一袋、別に届いたこともあった。


 セヴィアンからもよくはがきが届いた。画面いっぱいにヨダレを垂らして眠るロッティの顔が描かれた絵はがきは、クロエが一撫ですると描線が一本ずつほどけて、今度は画面いっぱいの文面が現れる仕掛けだ。白っぽい毛並みの細かな線は、句読点の集合だった。


 「あの子、絵が上手ねえ。彼ほどじゃないけど、ルイージも美術が得意だったわ」


 文面をなぞって絵に戻したところで、イルゼが覗き込んだ。


 「〈画家の密談〉という魔法よ。宛てられた人でないと、文章にならないの」


 けれど、クロエは歌劇団にもセヴィアンにもよく不義理をした(彼女が返事を出す前に次の手紙が来るという理由もあったが)。胸にひとつ抱えた秘密は言い出すときを逃してしまったまま、クロエの良心の中でどんどん重たくなっていった。


 イルゼに〈夕焼け〉を持っているのは自分なのだと告白しなければならない。セヴィアンに〈夕焼け〉を渡さなければならない。ディーナに手紙を書いて、もうすぐ戻るからと伝えなければならない。やろうと思えばどれもたやすく、クロエの望みでもあることのはずなのに、どれもまだ叶っていなかった。――クロエは十二年経った今でも、父と母を夢に見る。魔法院で初めてイルゼに会った日の晩は、ふたりがシャンデリアを避けて、舞台の上からクロエに手を振る夢を見た。飛び散るガラスに怯えるクロエに――夢の中でクロエは六歳に戻っていた――、父と母は大笑いするのだ。


 「これはこういうお芝居なのよ、クロエ」


 母はクロエの首から〈夕焼け〉を外し、自分の首へかけてから、こう言う。


 「預かってくれてありがとうね。でも、これは今日だけの特別。十八歳になったら、あなたもガラス玉ではなくて本物の宝石の似合う素敵な女性になっているはずだから、それまではお母さんのものよ」


 魔法使いは、賢くなければならない。ようやくその道の一歩目を踏み出したばかりのクロエは、自分でも馬鹿なことだと思いながらも、みなが差しのべる手の手前で立ち止まってしまったのだ。六つの頃のままの、小さなクロエは。


 〈夕焼け〉は彼女にとって、ルイージの傑作でもシャルロッタの思い出でもミュセッティ家の至宝でも、ましてクロエのものでもなく、ずっと母の象徴だった。十八歳になり、母から認めてもらえたら、初めてクロエが持つはずのものだった。


 十八歳になったらと言ったでしょう、と言いながら母が父とともにやって来て怖い顔をしてみせるのを、十八歳になった今でも、クロエは待ちわびているのだ――。


 リーツェの手帳はどう見ても一年分日記を書くのがやっとだろうという大きさなのに、十月十五日の日記を境にリーツェがいくら細かな記録を残そうと、続きがある限り決して紙がなくなりはしないようだった。飛びがちだった日づけはめったに書き漏らされなくなり、気がつけば最初の日記から、手帳の中では八年が経っていた。その紙面には、押し花の栞が挟んであった。


 ――十月十五日、クロエ五歳。おめでとう、おめでとう。

これからも、明るくて優しいあなたでいてね。


 秋も深まってきたある暖かな日に、歌劇団から何度目かの手紙が来た。やはり、ディーナが書いたものだ。琥珀のような深みのある枯れ葉色の封筒には、相変わらずカレン・トーラントの消印が押してある。ディーナがそうと知っているかは分からないが、切手はありきたりな花の柄ではなく、セヴィアンの設計した郵便局の鉄のアンコウの絵だった。どうも何かの記念切手らしく、小さい画面の下の方にさらに小さく、「百五十周年」と印刷されていた。


 何の百五十周年なのかは、手紙を読んですぐに知れた。ディーナの話題は、一行目からそのことでもちきりだったのだ。


 「カレン・トーラントの生誕百五十周年……」


 クロエが思わず呟くと、机の向かいで編みものをしながらイルゼが顔を上げた。クロエがマドレブランカに来た頃イルゼが編んでいた靴下はとうに出来上がっていて、イルゼは今、クロエの手袋を作っている。


 イルゼは目の前の作業を中断し、固まった肩を動かした。


 「何が百五十年ですって? 」

 「カレン・トーラントよ。町ができて百五十年になるみたい。来週から大きなお祭りになるって書いてあるわ。それでね……」


 手紙に目を通しながら話していたクロエは、最後のほんの数行で言葉に詰まった。そこには今のクロエにもっとも必要で、もっとも避けたかった誘いが書かれていたのだ。


 どうしたの、とイルゼが首を傾げる。クロエは心を決めた。祖母の顔つきは、そのくらい優しかった。


 「……みんなの出ている公演は今月中で全部終わって、来月には違う町へ行こうと思っているんですって。みんなで、お祭りを見てからね。その前に一日だけでもカレン・トーラントで歌わないかって、ディーナが言ってくれたの。みんな待ってるからって」

 「まあ、素晴らしいじゃない」


 イルゼはぱちんと手を打って賛成した。マドレブランカの秋祭りでクロエが歌うのをじかに聴いてからというもの、イルゼの遠慮はそっくり歌手という仕事への大きな賛同になったようだった。


 「演目はなに? 」

 「ガラ・コンサートよ。有名な演目の曲ばかり、何曲か選んで演奏するみたい」


 クロエは沈んだ声で言った。


 「どうしましょう。練習が全然足りないわ」

 「あら、これから毎日でもすればいいわ。この辺りには大きな劇場はないけど、森の中で歌ってたって誰も文句なんか言わないもの」


 イルゼは楽しそうに頷き、やがて心の弾むような、マドレブランカの祝祭の歌を口ずさみながら編みものを再開した。


 「カレン・トーラントにはセヴィアンがいるし、わたしも安心だわ」

 「えっ? 」


 後ろめたさが先に立ってぎくりと聞き返したクロエに、イルゼの、編み地越しの目が険しくなった。


 「クロエ。どうして歌劇団を休んでいるか、忘れたなんて言わせないわよ。あなたはお茶にイバラベニランを盛られたんでしょう。まだ、誰がどうしてそんなことをしたかも分かっていないのよ」


 クロエは恐る恐る言った。


 「わたし、どうしてだか分からないわ……」

 「あたりまえでしょう! あなたが命を狙われなきゃならない理由なんてひとつもありません」


 イルゼはぴしゃりと言った。かつてルイージ・ウォーメルを何度も黙らせてきたであろう気丈さは健在だ。


 「覚えておいでなさい、クロエ。世の中にはね、自分より美しいというだけで人を殺すような人もいるのよ。自分より弱いものをいじめて、自分を保たなければ生きていけない人もいる。自分に関係なくても、悪いことをした人になら何をしても構わないと考える人だっているわ。心の弱い人は、いくらでもいるのよ」


 イルゼの怒りは一言ごとに冷静さがとってかわり、最後にはこの上なく悲しげに、首をゆっくりと横に振った。


 「――とにかく、次の公演も、ひょっとしたらその次も、何が起こるか分からないわ。カレン・トーラントにいる間はセヴィアンに来てもらいましょう。わたしは……」


 イルゼは目を伏せた。


 「わたしは、――賢女としては絶対にしちゃいけないことだけど――わたしのことを、あまり信用していないの」

 「おばあちゃん……」


 クロエは押し黙った。イルゼの耳に逆らうことなど、とても言えなかった。けれどイルゼはさすがに落ち着いてものを見ていて、クロエがどうも浮かない顔をしているということに、じきに気がついた。


 「あの子と喧嘩でもしたの? 」


 決して探り出そうというのではなく、何気ない思いやりのある調子で、イルゼが尋ねた。クロエはいいえ、と小さく首を振った。


 「そんなんじゃないの……」

 「でも、なんだか嬉しくなさそうよ」


 イルゼはクロエを見ずに、熱心に編み目を数えた。気軽な世間話の途中みたいに。


 「クロエ、ひとりで悩んでみるのも大切だけれど、そばにあなたの四倍は長く生きてる人がいることを忘れちゃ嫌よ」

 「……わたし、セヴィアンに渡さなければならないものがあるの」


 クロエは時間の経過の短さとはとても釣り合わない、心の中の疲れとつかえをとうとう白状した。


 「まあ、それだったら」


 イルゼはクロエの悩みが何なのかを掴みかねた様子だ。


 「なおのこと彼に会いたいんじゃない? 」

 「〈夕焼け〉を渡さなければならないの」

 「〈夕焼け〉? ルイージの? 」


 クロエは立ち襟から例の首飾りを取り出した。イルゼはじっくりと鑑定し、じきに頷いた。


 「間違いないわ。あなたが持っててくれたのね」


 イルゼの顔色は変わらない。なんとか説明しなければと、クロエは何度も余計に息を吸い込んだ。


 「〈夕焼け〉があれば、セヴィアンは目を治せるわ。だけど……」

 「クロエ」

 「どうして、どうしてこんなにうまくいかないのかしら? 母さまの形見が……」


 彼の探しものだったなんて。


 「クロエ、大きくひとつ、息をしてごらんなさい。お茶を飲んで」

 「セヴィアンに渡した方がいいって、分かっていたの……。だけど、わたしは……とてもずるいことを、しようとしたんだわ」

 「大丈夫よ。望んではいけないことなんかないの。リーツェの代わりにずっとあなたのそばにあったものを、あなたが手放したくないと思うことの何がいけないというの? 」


 イルゼは席を立って、クロエの背をさすってくれた。そういう仕草のすべてから、クロエは祖母が〈夕焼け〉に執着していないことを悟った。


 「セヴィアンはきっと、あなたが決めるのを待ってくれるわ」


 椅子に戻って、イルゼは言った。編み針を手に取ることはしない。彼女は、明かすのに勇気が必要だった心に向き合うべきときを心得ていた。


 「それに、そうね……。もしあなたが〈夕焼け〉をリーツェの記憶として手放せないと決めたなら、受け入れてくれると思うわ。すべて分かった上で、あなたの心のために手を貸してくれるかもしれないわね」

 「そんなこと」


 クロエは驚いて、お茶にむせてしまった。祖母はいったいどこから、そんな都合のいい解釈を弾き出したのだろう? 


 「どうして? 」

 「彼は多分、あなたが思っているよりあなたのことが好きよ」


 ルイージを思い出すのよ、とイルゼは目を閉じた。クロエは何と返事をしたらいいのか、言葉をすべて吸い上げられてしまったみたいに、何も言えなかった。


 「〈夕焼け〉を渡すかどうかは、あなたが決めなくてはならないわ。そして、どちらにせよその結果の責任を取らなくてはならないの。あなたにならできるはずよ」


 イルゼはまた、手袋を編みはじめた。クロエは黙って、その手元を見守った。


 カレン・トーラントへ行きましょう、とイルゼは孫娘にほほえみかけた。


 「クロエ。優しい子に育ってくれて、ありがとうね」



 クロエが五つになった日の記録のあと、手帳のページは何枚かに渡って千切り取られていた。まるまる一年分の記事が抜けて、次の年のクロエの誕生日を過ぎた十月十七日の日記がある。それが最後の記事だった。


――十月十七日、マイラ、ごめんなさい。メルクリオ、ありがとう。

クロエ、父さま、母さま。愛してるわ。

愛してる。

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