7、君の知らないあの光を

 「勘弁してくれよ、イルゼ」


 ルイージ・ウォーメルは遠慮なく眉の辺りを曇らせた。彼の目の前のふたりの女性は、もともとどうして友人になったのか分からないくらいに何もかもが正反対だったが、今もルイージに対して対照的な反応を示した。


 イルゼはただでさえ気の強そうな太く整った黒い眉を、さらに凛々しく吊り上げた。


 「あら、ウォーメル家の次期当主ともあろうあなたが、診てみることもしないで諦めるっていうの? 」

 「ミュセッティの次期当主の君になら、分かると思うんだけどなあ」


 ルイージは学生以来の友人の、そのまた友人を盗み見た。シャルロッタ・ペイジは失望のためか、光に弱い瞳のためか、一度目を伏せたきりルイージの方を見ようとしない。


 シャルロッタは銀に近いごく淡い色の金髪に空色の目をして、肌も、血管が青く透けて見えるような白さだ。世の男たちが夢に求めてやまない、磁器の人形に似た面立ちは確かにはかなげで美しい。だがルイージとしては、イルゼのように軽口を叩いて心置きなくけなしあえる女性の方が好ましかった。


 なんだい君、カラスみたいな色の髪だね。素直に綺麗な髪だねと言えばいいものを、若気の至りで彼女の髪の色をそう言ってからかったとき、イルゼは鼻で笑って言い返してきた――あなたの方こそ冬眠し損ねたムササビみたいな色の髪ね。イルゼは誰に何を言われようが従順にうつむいて黙り込んだりはしない。そして、学生時代からのその気の置けなさを彼は気に入ってもいた。


 ルイージはできる限りの容赦ない声で言った。


 「いいかい、色が分からないっていうのはね、ただ目が悪いというのとはわけが違うんだ。目玉を取り出して、切り刻んで中をいじってから戻すわけにはいかないんだから。魔法は万能じゃない……仕組みが分からないものや、想像できないものを実現させることはできないよ。分かってるだろ」

 「……そう。目を専門に研究しているあなたが言うなら、しかたないわね」


 イルゼはそんなに聞き分けがいいとはとても思えない眉の寄せ方をし、シャルロッタの肩を抱いた。


 「ごめんね、シャルロッタ。彼は、ああやってはっきり言い切るのが信条なの。だから信用できるのよ……悪気があるわけじゃないの」


 イルゼが不愉快そうに眉をしかめるのは、打つ手がなくなり、勝利は得られないと確信したときだということをルイージは知っていた。つまり――イルゼが噛みついてこないのを幸いに、ルイージは考えた――彼女たちはすでにいろいろと試したあとで、簡単に治らないことなど承知の上で、最後の頼みの綱としてルイージを訪ねてきたのだ。


 だが自分に治せないものはしかたがない。ルイージの合理性はしつこくその一点張りだった。確かに他に言いようはあったかもしれないが、言わなければならないことは同じじゃないか。第一、僕は目の専門家じゃない――色が人間に与える影響を調べているだけだ。ルイージはだんだんと自己弁護に走っていることを感じながらも、シャルロッタに言葉をかけられなかった。うつむいたまま、こちらに悟られないように涙をいっぱいに溜めるような泣かれ方が、彼は一番苦手だった。


 「ウォーメルさん」


 あなたも何とか言ったらどうなの、というようなイルゼのまなざしからルイージが目を逸らそうとしたとき、シャルロッタが顔を上げた。ルイージは危うく不躾に身を引くところだった。彼女の目に、涙など一粒もなかった。

 最初からそのつもりだったのか、沈黙している間に決めたのか、シャルロッタは言った。


 「わたしの目で研究しませんか」

 「なんだって」

 「ウォーメルさんは、色の魔法の研究をしていらっしゃるんでしょう? わたしは〈色〉を見たことがないんですもの。色を知らない人間がどんなものか、知りたくありません? 」


 ルイージはうろたえた。イルゼに助けを求めたけれど、無駄だった。イルゼは口をつぐみ、ルイージの代弁も、シャルロッタの制止もしてはくれなかった。


 「――君を実験台にしてもいいって? 」


 残酷な響きが出るように言ってみはしたけれど、シャルロッタはにっこり笑った。


 ルイージは絶句した。


 シャルロッタはマドレブランカの旧家の生まれだった。世が世なら王女さまよ、とイルゼは冗談半分に言ったが、シャルロッタには確かに世間を知らない王女のような怖いもの知らずな一面があり、それはルイージにとってある意味都合がよかった。週に一度、マドレブランカからウォーメル家のあるイゾラまではるばる通ってくることになったシャルロッタは、しつらえそのものは立派だが散らかり放題のルイージの部屋を見ても眉ひとつ寄せなかったし、問診や実験には何時間でもつき合い、ルイージが危険だと注意しなかったものには平気で手を触れた――そのせいで、かなり重大な危機に見舞われることも少なからずあったのだが。


 その日も、ルイージはシャルロッタの髪を元通りにしようとひときわ躍起になっていた。崩れた本に押されて落ちてきた瓶の中身が、瓶を受け止めたルイージの右手とシャルロッタの頭にかかってしまったのだ――よりにもよって、赤い染め粉だった。美しい銀色の髪には、恐ろしく前衛的な赤い斑ができてしまっていた。


 お湯を持ってきた家政婦は客を招いておきながら部屋の片づけを怠っていた(しかも、妙なものばかりを置いている)ルイージに何か言いたそうだったが、ルイージはお湯のたらいと布を受け取ってすぐ彼女を閉め出してしまった。ここで足止めされたら、落ちるものも落ちなくなってしまう。


 ところが、当のシャルロッタは鼻歌交じりに言った。


 「ルーイったら、そんなに慌てなくても大丈夫よ」

 「大丈夫なもんか。ちゃんと落ちなかったらどうするんだ」


 シャルロッタの髪を少しずつ拭きながら、ルイージはいらいらと答えた。並みの女性が泣くところで泣かない彼女の大らかさは、初対面ですでに披露されてはいた。だがしかし、二目と見られない姿になってしまうかもという瀬戸際に、どうして僕の方ばかりこんなに焦らなくてはならないのか。


 ルイージはシャルロッタのすぐにも千切れそうな細い髪に気を揉んで――ようやく気がついた。そうか、彼女は〈赤〉がどんな色だか知らないのだ。


 「シャルロッタ、君、表を出歩けなくなってもいいのかい? 」

 「あら、どうして? 」

 「君の髪だけど、まるで目いっぱい血をかぶったお化けみたいだよ。塔から身投げした王女さまって感じ」

 「それって、誰が見てもそう思うのかしら? 」

 「生きものの体に赤い色がついていたら、まず血がついてると思うのが人間ってものさ。かなり根源的な感情なんじゃないかな――命に関わる情報だからね」


 シャルロッタはまあいやだ、とまるでそう思っていない口ぶりで笑った。


 「模様がついたらおもしろいかと思ったけど、そういうわけにはいかないみたいね。もし落ちなかったら、上から別の色で染めればいいんじゃないかしら。そうしたらあなた、似合う色を見立ててくださる? わたし、分からないもの」

 「――ごめんだね。君には君の髪の色が一番似合ってるよ」


 赤い染め粉は――染め粉といっても元はある薬の材料だったのだが――お湯で溶けてルイージの持っていた白い布に次々と色をつけ、埃っぽい石の床に意図しない染めものの山ができあがった。最初の方に使っていたものから、濃い赤、薄い赤、桃色。ルイージの指が握り込んでいたところに、思いがけなく花のような模様がついたもの。シャルロッタの髪の筋が、水の流れのように染まりついたもの。そして彼女の髪そのものは、どうやら元に戻りそうだった。


 「よかった。これで元通りだ」

 「まあ、本当? 」


 シャルロッタはルイージに借りた鏡で合わせ鏡をし、後ろ姿を確かめた。彼女の手前にある鏡越しに目が合い、彼女が思ったより嬉しそうな笑顔を見せたので、ルイージはあっという間に自分の機嫌が直るのを感じた。僕がほだされやすいわけじゃない、とルイージは自分に言い訳した。シャルロッタを相手に、いつまでも意地を張りつづけられるやつがいるならお目にかかりたいもんだ。


 「あのね、ルーイ。イルゼは優しくて、とても頭がいいの。昔からよ」

 「え? イルゼ? 」


 急にこの場にいない友人の話をシャルロッタが持ち出したので、ルイージは何か聞き逃した話の流れがあったろうかと思ったが、そうではなかった。


 「まだ小さかった頃の話なんだけどね」


 シャルロッタは言った。


 「わたし、昼間はあまり出歩けなかったの。お日さまの光が眩しすぎて何も見えないから……もちろん、友達なんかひとりもいないし、外のことなんか何も知らなかったわ。本も、誰かに読んでもらわないといけなくて……だけどあるとき、屋敷に同じ年頃の女の子が訪ねてきたの」

 「それがイルゼだったのかい? 」

 「そうよ。イルゼのお母さまと一緒に。父と母が相談していたのね。シャルロッタの相手をしてくれないかって」


 シャルロッタは白い頬を興奮のためにほんのり紅潮させた。


 「イルゼはいつも、本を読んでくれたの。わたしがそれまで、触ったこともないような……薬草や、石の古い本なんか」

 「魔法使いの家の子は、小さいうちからそういう本を読み継いで力をつけるのさ。……でも、君はもっと違う本の方がよかったんじゃないかい? 」


 ルイージの中のイルゼは、まだ他の誰にも〈競争相手〉の座を譲り渡してはいない。多分永遠に、この上なく信頼の置ける友人ではあるけれども、どことなく気に食わない女性でいてくれることだろう。ルイージとしては、シャルロッタが週に一度しか一緒にいられない自分を差し置いて、週に六日も会えるイルゼの話をしていることが何となくおもしろくなかった。


 「イルゼのやつ、自分の常識が一般に通用すると思っていたんだろ」


 ルイージが言うと、シャルロッタは頬を緩めた。


 「もちろん、イルゼは魔法使いのための本がたまには……ええ、そうね、ちょっと退屈だって、分かってたわよ。だからどんなに難しい本でも、わたしの興味を引くような話をしてくれたわ」

 「へえ。どんな? 」

 「この草は、占いに使うのよ、とか。この花からは、おいしい蜜が採れるのよ、とか。この石は――」


 シャルロッタは白い両手を擦り合わせた。


 「磨いて、指輪にはめるのよ、とか」

 「なるほど……」

 「おとぎ話だったこともあったし、料理の本だったこともあったわ。本物を見たことがあるものばかりじゃないけど、イルゼのおかげで世の中にはどんなものがあるか、どんな人たちがいるか、これでもわたし、よく知っているの」

 「君は、生きるのが上手だものなあ……」


 ルイージはシャルロッタの向かいに椅子を引き寄せ、脚を組んだ上から頬杖を突いた。


 マドレブランカからイゾラまで旅してくる途中、行きずりに彼女を見た人は、何不自由なく育てられた娘だというところしか想像できないだろう。飛行艇で二時間ほどの道のりがシャルロッタにとってどんなに危険で、楽しくて、不安なものかを、彼らは考えつきもしないに違いない。


 シャルロッタがルイージのもとに通い出して、最初のふた月ほどはイルゼが一緒についてきていた。しかし、それからあとは彼女がひとりで来るのがいつの間にか当たり前になり、最近は両親やイルゼも黙って見送ってくれるようになったとシャルロッタは楽しそうに話していた。


 これまでルイージが出会ってきたすべての人の中で、シャルロッタに勝る勇気を持った人物はひとりもいなかった。


 イルゼの話が癪だとか思ったことはすっかり忘れて、ルイージは尋ねた。


 「それじゃ、君はもし色が世界の中に加わったら、〈本物〉が見たいのかい? 」

 「そうね。そして、昔イルゼがそうしてくれたみたいに、世の中のたくさんのものを誰かに教えてあげられたら……」


 シャルロッタの目はひとつのものをじっと見つめることができないので、絶えず瞳がいろいろな方を向いてしまう。けれど今は、曇った窓から射しこむ柔らかな斜陽が彼女の横顔を包むように縁取っていて、彼女の瞳はいつもの何倍もきらきらと輝いているようだった。


 まるで、希望と歓喜に打ち震える美しい魂そのものだ。


 ルイージが黙っているのを、シャルロッタは呆れていると思ったらしい。自信がなさそうに、彼女はうつむきかけた。


 「……わたし、町で先生をやろうと思ったの。でも、そのためにはどうしても色が分からないといけないし……それに、本の小さな字が見えなくてはいけないでしょう? 虫眼鏡を使えば、ちゃんと読めるのよ。――明るすぎないところでならね」

 「十分じゃないか」


 シャルロッタは弾かれたように顔を上げた。持ち前の眼振が、今度は不安そうに揺れている。ルイージは、入った光がころころとよく遊ぶ彼女の目が嫌いではなかった。


 彼女はきっと、今まで何度も言われてきたのだろう――その目では無理だ、と。


 「たとえ僕の治療がなくたって、君はきっと夢を叶えるよ……勇敢だもの。夢を叶えるために一番必要なのって勇気を持つことだろ」

 「ルーイ……」

 「だから僕は、君を助けるんだ。夢について君が話してくれたことを、僕は嬉しく思う」


 ルイージは思い切って言った。シャルロッタはぽかんとし、驚いた顔をして、口元に手をやった。


 それから、どんな乙女も敵わないほどの笑顔を見せた。この顔はイルゼにはない、とルイージは思った。少なくともルイージの前では。


 「あなたのお部屋ね、イルゼのおうちと同じ匂いがするの」


 シャルロッタがイルゼの話を持ち出したのは、これが言いたいためだったのだろう。草や木や、花、土。古い本。甘い薬も、苦い薬も。人が生き、積み上げてきた知恵と知識の匂い。


 ルイージは戸惑った。シャルロッタは口にこそ出さないが、てっきりカビ臭いくらいには思われているだろうと思っていたのだ。


 「もし元に戻らなかったら、染め直すか、切ってしまおうと思っていたけれど」


 シャルロッタは編んだ髪を巻いてまとめ、きれいな形に結い直した。魔法のような手つきだった。


 「そうなったって、もっと素敵になれるかもしれないって信じてたのよ」


 ルイージは言葉に詰まった。一瞬でもイルゼの話を癪だと感じた自分を、今や張り倒してやりたい。


 「そりゃあ僕は、短い髪だって悪くないと思うけど……」


 シャルロッタはあくまで快活に言った。


 「そうよ。だって、イルゼに負けないくらい優しい魔法使いのお部屋だもの。悪いことなんか起こるはずないじゃない」


 女性と話していて返事に困ったのは初めてだ、とルイージは思った。イルゼが聞いたら大笑いだ。あのルイージ・ウォーメルが、照れくささに負けるなんて。


 そしてルイージは、一連の染め粉事件の決着がすべてついたあとで、ようやく自分がいかに慌てふためいていたかを思い知った。イルゼが聞いたら大笑いだ。あんなに慌ててお湯を使わなくてもよかったのだ――何しろ、彼は魔法が使えるのだから。



 イゾラのウォーメル家は、南の外れの丘にある。


 今でこそ海の都と呼ばれるイゾラだが、海の上にある町はあとから干潟に土台を築いて建て増しした部分で、もともとは海沿いの小さな村のひとつだったに過ぎない。港を開けば恐ろしい渦潮や、凶暴な鮫の溜まり場をみなが避けて通れるのに、広い干潟と沼地が外海との間に横たわっていて、かつて大きな船は入って来られなかった。沼地で自由に船を動かすのは、嵐に鍛え抜かれた船乗りがありったけの知恵と勇気とを奮い起こしたとしても難しいことだったのだ。


 かといって、海路が使えなければ隣町へ行くのにさえ山脈を大きく迂回しなければならず、海上に町ができる前のイゾラは、〈見捨てられた土地〉〈神の視界から外れた村〉とあだ名されるほど細々と続いてきた村だった。箒で山越えに挑む者は大勢いたが、真夏でも白く雪の残る山の気温に大抵耐え切れなくなり、すっかり凍えて戻ってくるのがお約束だった。


 人々の様子を見かねて海の上に町を築こうと提案したのが、何代目かのウォーメル家の当主だった(その当時は彼の家も決して裕福とは言えなかった)。彼は海に与える影響を最小限に抑えた町の土台を考案し、過酷な生活のあまりかたくなになっていた人々を説得して、港を開くのに尽力した。その功績が広く認められ、イゾラが一大海上都市に発展をとげたあと、もともとの村長の孫が建てたのが今のウォーメル家の屋敷だ。当時のイゾラの領主は海の上の町に地位と邸宅を用意してウォーメル家の人間をそばに置きたがったが、ウォーメル家ではこの申し出を辞退したため、何百年も経った今でも屋敷は相変わらず土の上だ。青いヤグルマギクに覆われた小高い丘での暮らしはささやかで、満ち足りていた。


 「きれいねえ」


 ヤグルマギクに埋もれてシャルロッタが言ったので、ルイージは本から顔を上げた。例の染め粉事件からひと月あまりが過ぎ、この日はルイージが開発した特別な眼鏡を試すためにわざと日の高いうちから外に出ていたのだが、もう日が翳りはじめる頃合いだった。彼女は白い山脈と、山肌に赤く潤む夕焼けを指差した。


 「あのあたりなんか。暗くなってくると、よく分かるわ」

 「……ああ。そうか」


 夕焼けの色合いのことを言っているのではないのだと、ルイージは気がついた。一緒にいるとつい、彼女は自分と同じものを同じように美しいと感じているのだという気になってしまう。ルイージはどんな天気の、どんな季節の丘もそれなりに気に入っていたが、春の今時分、紺から金まで順々に流れていく夕焼けは特別だった。


 シャルロッタの目で見れば(ルイージの想像する限りでは)、眩しい空がだんだんと東から消えてゆき、西の空が何段階もの明るさで――ルイージの言い方だと、何種類もの白と黒と灰色で――埋まっているに違いない。遮光の工夫が凝らされた眼鏡を喜んでかけている彼女が、普段はよく見えないであろう残光に輝く雪山に見とれるのは当然だった。


 「君はさ、」


 ルイージは金色の最後の光が山肌に吸われ、いっそう濃くなっていく夕空をいつまでも見つめているシャルロッタに尋ねた。そろそろ光も影もなく世界はひとつの色に塗り潰されるはずだが、彼女は瞬きもしないで山脈の頂きの辺りを熱心に眺めているのだった。


 「夕焼けしてるところを見たくないかい」

 「夕焼け? 」


 シャルロッタはくるりとルイージの方を向いた。だんだんとすべてのものがぼんやり霞んできた中で彼の方からシャルロッタがどんな顔をしているかははっきりとは分からなかったが、彼女の声は明るかった。


 「もしかして、今見えているの? 」

 「さっきまで、君の見ている方がちょうどそうだったよ」

 「そうなの……」


 シャルロッタはルイージお手製の魔法眼鏡をかけたり外したりしてまたしばらく山の方を向いていたが、結局外してルイージを心細げに見つめた。


 「だめね。イルゼにもあれがそうよ、って教えてもらったことはあるけど、わたしに見えているのはきっと、赤やオレンジとは言わないんでしょう。――眼鏡をありがとう。おかげで一日中、明るい場所にいられたわ」


 シャルロッタはお礼を忘れずに言って、今度は逆にルイージに尋ねてきた。


 「あなたは、夕焼け空は好き? 」

 「うん……」


 迷ったけれど、ルイージは正直に答えた。


 「僕はどんな空よりも好きだよ」

 「それは、美しい? 」

 「ああ、きれいだ」

 「きっと素敵なんでしょうね」


 そう言って頷くシャルロッタを見ているうちに、ある思いつきが急にルイージの胸を高鳴らせた。ルイージは天啓とも呼べるたった一瞬のひらめきを逃すまいとして目を固く閉じた――落ち着け、ルイージ・ウォーメル。小さな塊にまとめようとするな。どれだけ大きなものに育つかは、おまえ次第だぞ。


 ルイージが急に眉間に皺を寄せたまま何も言わなくなってしまったので、シャルロッタは驚いて彼の肩に手をかけた。


 「ルーイ、どうしたの? 」

 「シャルロッタ」


 ルイージは遠慮がちに肩に置かれたシャルロッタの手を取り、両手で握った。それはかなり情熱的な仕草だったので、二度目のびっくりにシャルロッタは手を引っこめるなり、声を立てるなりという反応を一切してこなかった。ただ彼の手の熱に、手を任せていただけだった。


 「もしかしたら……」


 ルイージはゆっくりと切り出した。祈りの声に似た調子だった。


 「君に色のついた世界を見せてあげられるかもしれない」


 シャルロッタは何も言わない。黙ったままの唇が半端に開き、そこからすっと息を呑む音がした。


 それから、彼女はようやくひとつ頷いた。


 丘の上のウォーメル家の、灯かりという灯かりすべてに火が入った。灯かりを点けるために表へ出てきた家政婦は突然光に照らされて目を細めているルイージとシャルロッタを見つけ、まあ呆れた、という顔を作ってから叫んだ。

 ――坊ちゃま、お嬢さま、もうお夕飯の時間でございますよ。


 「明日の予定が少し変わったよ」

 「一緒に町の方へ行くんじゃないの? 」

 「僕なりに、どこへ行こうか考えてたんだ。それを、少し変える」


 ルイージはシャルロッタの手を引いて彼女を立たせ、腕を組んだまま歩き出した。


 「明日は、ちょっと変わったものを売ってるお店に行かないといけないな」

 「どんなもの? 」

 「ひょっとしたら、君がイルゼに教えてもらったものの中でも、珍しい方のもの」


 翌日は、春らしく煙った快い晴天だった。シャルロッタは例の眼鏡をかけて、鼻歌を歌っている。ルイージは彼もよく知っている童謡を上機嫌で歌うシャルロッタのあとをのんびりとついて歩きながら(シャルロッタは目があまりよくないにも関わらず、ルイージより先に立って平気でどこにでも行ってしまうのだ)、試作品の段階では分厚いレンズと太い弦のせいでぼってりとしていたあの眼鏡を、彼女に似合わせようと必死で削り、組み立て、計算し直したことに彼女は気がついているだろうかととりとめなく考えた。


 あの、彼女の目の形をもっとも引き立てるレンズや、曲線の装飾がついた芸術品のような弦は、はじめから偶然にでき上がったわけではないのだ。ルイージはシャルロッタと眼鏡が思っていたとおりにぴたりと似合ったことに満足しながら、問われるまでは明かすまい、とひとりでにやにやした。


 イゾラの町には人が溢れていた。港町らしく人々の顔ぶれは様々で、しかしみな一様に、どことなく楽しげに浮き足立っている。人混みを越えて楽器の演奏が聞こえ、出店の主人たちは歌うように調子よくお客を呼ぶ。どこからか、パン生地の焼ける匂いが漂う。


 ルイージは運河を行く花売りのひとりを手すり越しに呼び止め、平底の小舟に満載の花籠から蝶の形をした白い花を咲きこぼす一枝を買った。イゾラには満ち潮の海水で町が沈まないように水をうまく逃がす運河が何本も通してあり、細い小舟を使って生計を立てている人が昔からいた。


 「かわいいお連れさんねえ」


 花売りのおばさんはにこにこしながら耳打ちすると、受け取った小銭をエプロンのポケットへ落とし、小舟を操って運河へ戻っていった。折よく、運河の向かい側に並ぶ店のガラス工芸に気を取られていたシャルロッタが振り向いた。彼女は視力に頼れない分を補うかのように、耳がとてもよかった。


 「何を買ったの、ルーイ」

 「かわいいお連れさんにあげるかわいいお花」


 ルイージは花のついた枝をシャルロッタの鼻先にふわりとかぶせた。彼女は目を丸くして枝を受け取った。


 「いい香り」


 何ていうお花、とシャルロッタが尋ねた。ルイージは心底幸せそうな彼女を眺めながら、上の空でさあ何だったかな、と答えた。花の名前が何であろうと――たとえ〈ハツカネズミ〉だとかいうのだとしても――見とれるほど彼女に似つかわしい花をあの氾濫する花籠から選び出したことに酔い心地の今のルイージには、大した問題ではなかった。


 「クオレビアンコ、だよ。まだ出たばかりの新しい品種なんだ」


 別の花売りが手すりのそばに舟をつけて商売を始めがてら教えてくれた。彼は花になどまったく似合わなそうな日焼けした無骨な手で、くるくると小さな花束を作りはじめた。彼の店きっての売れ筋だった。


 「ルイージ、ご婦人に贈る花の名前くらい知らんとな。知らなかったにしてはいい見立てだったと褒めてもいいがね」

 「どうしてさ、おじさん」

 「言わせるない」


 花売りのおじさんははにかむような笑顔をふにゃふにゃと浮かべ、シャルロッタから切った枝のままだったクオレビアンコを受け取り、花のまとまりを切り分け、他の花を少し取り合わせてあっという間に花束に仕立て上げた。そして、半ジッタでいいぞ、とありもしない通貨をルイージに請求した。ルイージは鼻に皺を寄せてみせ、取れたままポケットに入れたきりだった上着の金色のボタンを渡した。


 「ちんけな花売りめに金貨をくださるとは」


 花売りはルイージが冗談につき合ってくれたことに気をよくして、笑いながらボタンを投げ返した。そして、男たちのやり取りを楽しそうに、珍しそうに黙って見ているシャルロッタに、作り立ての花束を恭しく捧げた。


 「〈妖精〉の姫君へ、〈健やかな心〉を」

 「なんだって? 」

 「花言葉だよ」


 ルイージが訝しげに聞き返したので、花売りは世話の焼けるやつだな、とぶつぶつ罵った。


 「クオレビアンコの花言葉だ。〈妖精〉と〈健やかな心〉。分かったか朴念仁め」

 「朴念仁ですって」


 花売りが別のお客の相手をはじめると、シャルロッタが小声でルイージに言った。


 「そんなことないわよね? 」

 「いいや、彼は僕のことをよく知ってるんだ」


 ルイージは賑やかな通りの方へシャルロッタを促しながら言った。シャルロッタは知らないのだ――ルイージから花を贈られたことのある女性は、世界でただふたり、彼の母親とシャルロッタだけであることを。ルイージがシャルロッタと同じ色を共有するために、彼女に贈るのは白い花と決めていることを。


 そして、あの花売りは知っているのだ。そうまでしながら、ルイージが長いこと肝心の勇気を出せずにいることを。



 魔法使いがよく使う店というものは、大抵大通りから二本も三本も奥まった通りでひっそりと営業している。人の声に敏感な珍しい生きものとか、手入れが悪いと強烈な刺激臭を振りまく変なキノコとか、近所に迷惑をかけなければやっていけない品物をたくさん扱っているからだ。しかしそういう店が一軒、二軒と開業すると、同じ通りに占いの店、薬問屋、まじない屋、本屋などが次々とでき、〈魔法通り〉は人知れずどんどん長くなっていくのだった。


 〈魔法通り〉はひどい臭いか、とてもよい香りがし、何となく怪しい気配がするのが常だ。ひとりの人間のように個性的で、どんなに退屈な町にあっても、また誰にとっても、とんでもなくおもしろい場所だった。買いものをしにきた魔法使いたちにこっそり混じって胸をどきどきさせている地元の人間のために喫茶店ができると、その〈魔法通り〉は一応の完成を見るのだった。


 「大きな通りね」


 シャルロッタはルイージの肩越しにそうっと占いの店を覗いた。イゾラの〈魔法通り〉には日陰も多い。薄暗い場所は、シャルロッタの目には優しいはずだった。大きい水晶のかたまりや、おかしな仮面が並べられ、店の中からはお香の粉っぽい香りが漂っている。どこかで嗅いだことのあるような、少し辛みのある香りだった。


 ルイージはシャルロッタと腕を組んで、荷物を両手いっぱいに抱えているおじいさんや、シャルロッタのように店を覗いて歩くのに忙しい人々を避けて歩かなければならなかった。彼は前に薬問屋から出てきた客にぶつかり、干からびた蜘蛛を頭にぶちまけられたことがあるのだ。


 「袋の表にリボンをつけてくださいな。贈りものなの」


 シャルロッタと同じくらいの若い娘が、本屋に注文をつけている。ルイージから、彼女の持っている本の表紙が見えた――『かくも恐ろしい、呪いの宝石全集』。


 三段に重なったアイスクリームを持って、嬉しそうに歩いている少年もいる。上から薄紫、緑とオレンジの縞模様、濃い茶色。金色の小さな星の形をした砂糖菓子が振りかけられていて、この飾りはひとりでにぱちぱちと弾けた。


 「マドレブランカにも、こんなところってあるのかしら」


 シャルロッタが言った。彼女はルイージの眼鏡のおかげで、サソリの空焼きだの、油に漬けて干した誰かの手だのに近寄らずに済んでいた。彼女が怖いもの知らずなのは事実だが、原因の半分くらいは〈よく見えないから近寄るしかない〉というところにあるのだとルイージは気づいた。


 「〈魔法通り〉は田舎の町の方が大きいよ。魔法使いが多いから」


 ルイージは大きな声で言った。魔法玩具の店先で木彫りの騎士が勝手に試合を始め、一方が相手の首を折ってしまって、大騒ぎしていた。


 「マドレブランカにもいい通りがあるって、イルゼに聞いたことがある。イルゼのうちでも、何か店をやってるんじゃないかな。ミュセッティ家といえば、蜜入りの薬と、〈旋律の呪文〉で有名だけど。……まあ、それだったら国に買い上げてもらう方がいいか」

 「旋律の呪文? 」

 「そう。言葉の響きや抑揚に特徴があって、唱えると歌っているみたいに聞こえるんだ。うちも新しい呪文を作ることはあるけど、ウォーメル家の呪文はどっちかというと文語的で、響きが堅苦しいと言われる。僕に言わせれば、うちのは詩的なだけなんだけどね。新しい魔法ができた場合、しばらくは考え出した家で使うんだけど、評判がよくなってくるとみんなが使いたがるだろ。国に一定の基準があるみたいでね、国中に広めるべきだとなれば、政府が買い上げてくれるんだ。で、それが教科書に載ったりするわけ」

 「芸術家なのね」

 「魔法は、そういうものとは切り離せない。絵や、詩や、音楽なんかと」


 ルイージは長い通りの一番奥で足を止めた。一軒の店が道を塞ぐ格好で建てられている。イゾラの魔法通りの突き当たりはこの店で、最初にできたのもこの店だった。緑の木枠の出窓には、大きな瞳でこちらを見つめる人形や、帆船模型――両手に抱えるほど大きなものから、瓶に入っているものから――、何かの羽根、何十種類もの植物の種の瓶詰め、鉱物標本、どこかの地図、鍵ばかり入れられた箱に、歯車ばかりの箱、指輪ばかりの箱など、見るからに怪しげなものがこれでもかと置かれていた。どれも相当に古びていたが、飾ってあるものにも、窓にも、埃ひとつついていない。扉は開いていて、道の敷石がそのまま奥へ続いていた。


 ちょうど大人の目の高さにある木枠に、字が彫られていた――あなたの想像力と、創造力のために。


 「ここ、僕の叔父さんのお店なんだ」


 ルイージは言い、何もないところに浮いている(ように見える)ドアノブを掴んで開けた。扉の向こうには敷石ではなく、別の床がある。では、さっき開いていた扉は? 開け放した戸板も、奥へ伸びる敷石も、みな本物の扉に描かれた絵だったのだ。


 「こんにちは、モンド叔父さん」


 ルイージは声をかけた。モンド・ウォーメルは店の奥にしつらえた作業机で何かを磨いている途中らしかったが、誰かが入ってきたことに反応して顔を上げた。比較的近しい身内だけに、目元の辺りにルイージと似たところがないわけではない。だがモンドの出で立ちは、すっきりして品のよいルイージとは正反対だった。暗めの店の中で、かがり火のような真っ赤な髪が揺れている。着ているものだって、まるで大道芸人みたいだ。彼は店の主というよりは、店主の代わりに留守番している売りものの人形のようだった。


 「やあ、調子はどうだいルーイ」


 モンドは気さくに手を上げて近づいてきて、シャルロッタが驚いた顔で突っ立っているのに気がつくと、なんだか嬉しそうに赤くて派手な市松模様のチョッキを引っ張った。シャルロッタはモンドのチョッキの色までは分からないはずだが、彼のちぐはぐさ加減ときたら、もはや色の問題ではなかった。


 「お嬢さん、驚いた? 驚いたかい? この服をどう思う? 」


 シャルロッタはかなり時間をかけて、


 「独創的だわ。その……すごく、個性的」


 と答えた。


 モンドは大きく頷いた。彼が身動きするたびに、首のリボンの端にくっついている鈴がちりちり音を立てている。


 「そうとも、独創的だ。それは僕にとっては、この上ない賛辞だ……僕のことを、変な人だとは思わないでくれたまえ。僕は今、〈究極の独創〉について考えているところなんだよ。この服も表通りの店の売れ残りを買ってきたものだから、独創的とは言い切れないんだが……結局のところ、みずからの外側に求めても仕方のないものなんだろうけどね……」

 「僕の〈究極の独創〉について、相談しに来たんだけど」


 ルイージは話の切れ目にうまく割り込んだ。モンドは独創性とは何かについての見解を引っ込めて、甥と甥の連れの顔を見守った。


 「彼女に関係があるのかな? 」

 「シャルロッタの目は少し特別なんだよ。治す方法を思いついたんだけど、聞いてくれないかな」

 「いいとも。それなら、その間は臨時休業にするとしよう」


 モンドは外のノブに閉店の札をかけ、ふたりを促した。


 「お茶の味も君たちにはかなり刺激的だと思うけど、我慢してくれよ。さて、閉めたあとに言うのもおかしいが、〈源の店 モンド〉へようこそ」


 モンドが魔法で隠していた窓をすべて開けると、明るい光が店をくまなく照らした。窓の向こうには海が見えている。よく見れば、カーテンはすべて帆布でできているのだった。モンドはしょぼしょぼと瞬きした。


 「さらば、宵の光よ。次は本物の、美しい夜のもとで会おう」

 「この店がこんなに明るいところは初めて見たよ」


 ルイージが言うと、モンドは悲しい顔をした。


 「開店前は毎朝こんなふうだ。だけど、暗くて静かな場所の方が人間の想像力は逞しくなるだろ」


 モンドは椅子を出しながら、棚に並んでいる巻き貝の殻をひとつ取ってふたりに見せた。棘が十本も張り出し、太陽のような形をしたその貝殻は、ちょうど人間の頭と同じくらい大きかった。


 「ここは、絵描きや、詩人や、作家や、音楽家、それから魔法使いのために〈ひらめき〉を売る店なんだ。もちろん、他のどんな人にもね。たとえば、この貝ひとつから、君たちならどんなことを考えつくかな? 数学者なら? 政治家なら? 女優さんなら? イゾラの奥さんたちなら、夕食の献立を思いつくかもね。答えはひとつじゃない。でも店を明るくすると、ここはどう見ても港町のちょっと変わったみやげもの屋さんになってしまうのさ」


 ルイージの後ろで笑い声が上がった。開いて本棚に置いてある古い植物図鑑の中で、挿し絵の魔法使いがモンドの話に頷いていた。


 「シャルロッタは、その貝の色が分からないんだ」


 すぐに自分の考えに没頭してしまうモンドに話を聞いてもらうには、彼の話の小道具を巻き込むのが手っ取り早いことをルイージはよく知っていた。モンドは手に持ったままの貝殻と、ルイージ、シャルロッタを順に見つめた。


 「色が分からない、か……」


 モンドはシャルロッタの目や、表情を観察し、わずかの時間でかなり多くの可能性を検証したらしかった。はっと何かに気がついたような顔をしたり、時々眉を寄せたり、忙しく顔つきと考えを変え、最後にルイージへ朗らかな言葉をかけた。


 「いい眼鏡を考えたじゃないか。うちの店で売りたいくらいだ」

 「買い手がつくかい? 」

 「すぐにね。強すぎる光は大抵の人にとって厄介だ。光だけじゃない。何事にも〈ちょうどいい〉段階があるんだ」


 モンドは貝を棚へ戻し、細かな模様が彫金された変わったサイコロや、縦に長い輸入ものの墨絵や、水の中をひらひら泳ぐガラスの金魚や、店の中の売りものをひととおり眺めた。


 しばらくそうしていたが、やがて両手を挙げて降参を訴えた。


 「なるほど、確かに君の計画はずいぶん独創的みたいだね。しばらく考えてみたけど、僕にはこれという解決策は浮かばなかったよ。でも僕のところに来たってことは、この店に何か君たちを助けるものが置いてあると踏んでるんだろ? 」

 「前に見せてもらったことがあるものだからね。今回欲しいのは、特別質のいいやつなんだ」

 「へえ、なんだい? 」

 「水晶さ。うんと透きとおって、よく磨いてある大きなの」

 「水晶? 」


 シャルロッタが傍らから聞き返した。モンドは腕を組んで、甥の話を最後まで聞くつもりでいるらしい。


 「人間の目の中には、光を感じるところと色を感じるところがあってさ」


 ルイージはシャルロッタに大まかに説明した。シャルロッタは自分の目について調べ尽くしたあとだったようで、すぐに反応した。


 「色を見るのが錐状体すいじょうたいで、光を感じるのが杆状体かんじょうたいだったかしら。錐状体は網膜の中心にまとまっているから、うまく働かないとわたしのように、何かをじっと見つめられなくなるって」

 「そう。僕は水晶を君の錐状体の代わりにできないか、と考えてるんだよ。水晶に色を入れる方がいいか、完全に外の景色と繋げられるかはやってみないと分からないけど。頭の中の記憶や考えを、映像として抜き出す魔法の記録を読んだことがある――脳みそから出せるなら、脳みそに入れることだってできるはずだろ」

 「色を感じているのは、厳密に言うと目ではなく脳だからね。シャルロッタの杆状体はきちんと働いているわけだから、仮の錐状体から取り込んだ色の情報を頭の中でうまく光とくっつければいいってわけだ」


 モンドは腕を組んだままで脚も組んだ。


 「遠隔的に視覚の一部を管理し、脳でひとつの映像にする……なるほどね。考えたこともなかった」


 モンドが笑いかけると、シャルロッタは事情を分かっているような、分からないような放心した様子でルイージとモンドの間にまなざしをうろうろさせた。しまいに、とても小さな声でそんなことができるの、と呟いた。


 ルイージは正直に答えた。


 「分からない。うまくいかないかもしれない……やってみれば、少なくとも答えは出る」

 「魔法は僕らの想像の及ばないことには働かない。幸せになりたいという願いがそうそう叶わないのは、自分にとっての幸せが何なのかをちゃんと知らないからだ」


 モンドは優しく言った。


 「だから、君のように希望がはっきりしていれば、魔法は格段に働きやすくなる。もしうまくいかなかったら、それは〈色が見えるようになる〉ということよりも大事なものが君にはあるということだ。世の中は理不尽ばかりでできているわけじゃないんだよ」


 モンドはここで、ルイージを見た。強い光は射していないのに、その目はまぶしげに細められていた。


 「僕から言いたいのはこれだけだ。どんな出来事も、結局はひとつの真理に含まれる。良し悪しを判断するのは僕らの勝手だけれども、最後は帳尻が合うように世界は動くもんだってね」


 モンドは席を立って、作業机の後ろの棚の、上の方の段から平たい箱を出してきた。中はふかふかした紺のビロード張りで、氷のかけらのような水晶がいくつも収まっている。まん丸の玉、五角形、六角形、涙の形、一番輝く多面の玉などなど。


 「兄さんによろしく言ってくれ。彼も多分、君の計画に反対したりしないよ……多分。僕と同じ理由でね」

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