経立(ふったち)

朝吹

経立(ふったち)

 参考「遠野物語」 三十六、四四~四九、一〇六

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 ふもとで熊の咆哮をきいた。熊ではないかも知れない。オオ、オオと、不気味な声が往く手の山から木霊していたのだ。

 隔絶されたむらには独自の風習が残っているものだ。百年前にひとりの学者が踏み入って以来あの長い戦争を挟んでそれきり邑を訪れる者が絶えたということも、わたしの探求心をいやが上にも高めていた。まったく世に知られていない奇習に逢えるかもしれない。


 サンカの祖は逃散した農民だと云われている。戦前の官憲が定義したところの山窩サンカは犯罪集団と同義で、人里に降りてきては盗みをはたらく罪人のことを意味していた。山窩は定職も定住地も持たずに山や川に沿って移動を繰り返し、まとまった数の浮浪者として戸籍をもたぬまま世の中をさすらっていた謎多き民だ。

 したがって今からわたしが向かおうとしている秘境のむらにいるものは、狭義の意味で流浪の民サンカではない。何らかの理由で人里から分離していった者の末裔か、落ち武者の子孫だと想われた。

 世に知られていない未知の邑。うまく研究が整えば、わたしが最初の学会発表者となるだろう。

 しぜんとわたしの脳裏には功名心が沸いてきた。しかしそれを上回るほどこれから先に待つものへの期待の方が強かった。ソロモン王の秘宝を求める冒険者のような気持ちだ。

「大学時代は山岳部だったというだけあって十年のブランクがあっても足腰がお強いですね。ここからは真っ直ぐです。では」

 案内をしてくれた里の村人が引き返していく。里と行き来するものがいる証として踏みしめられた獣道のようなものが確かに山中のせせらぎに沿っていた。里の者は云った。

「曾祖父が子どもの頃に一度しか見たことがないのですが、邑には老若男女総勢二百人はいたようです。温厚で幼子みたいな連中です。何も怖いことはありません」

 しかし里人は顔を曇らせてこうも付け加えた。

「どうしてもというから案内しますが、あなた、戻って来れるといいですね」

 そこで、念のためにわたしは他県の大学でわたしと同じ准教授をやっている友人の葛西に頼み、下山予定日を過ぎても戻らぬ時は捜索願いを出してくれるように頼んでおいた。葛西もわたしも独り身で、葛西は山岳部の部長をつとめていたような山男だ。

 ふと違和感を覚えて腕をみた。上着に山ヒルが落ちていた。ライターで炙って振り落とした。蛇の模様のように樹木をぬって日差しが落ちている。衝立のような大岩を乗り越えて狭隘の下りを抜けると、そこが邑だった。山の中にぽっかりと平地が現れたのだ。


 赤道に近い熱帯雨林にひそむ原住民は葉で家を作るが日本の群生植物はそんな大きな葉をもたない。山間に暮らす邑人は地面を掘り下げて柱を何本か立て、枝を組んで屋根にして、枯れ枝や常緑樹の葉を隙間なく天地に撒いた竪穴式住居に似たものを幾つも造って住んでいた。外観は伏せた椀に似ていた。

 邑人むらびとたちはやって来たわたしに珍味をふるまい、わたしに女を与えてくれた。下界では見たことも抱いたこともないようなやさしい女で、夜のあいだは傍にいて、山鳥が鳴く払暁に小屋から出て行ってしまう。若い女の腰を揺すって乳房を唾液で湿しているうちに、火影の蔭で女をさばいている猟師のような気分になった。

「かわいいね」

 女に名を訊いたが応えはなかった。それだけでなく邑人たちは誰もがウウとかアーと云っているだけで、体系的な言語を持っていない。足取りや身動きはしっかりしているのだが、下界では施設にいるであろう人たちの群れだった。

 わたしが山裾で訊いたオオ、オオという木霊も、彼らの喉が立てるものであったのだろうか。

「言葉など交わしませんよ」

 戸数が五軒。それが目安となる超限界集落すらも突き抜けた廃村寸前の麓の里は老人が数名残るのみになっていたが、幼少の頃から彼らは山の民の存在を知っていたという。里の老人たちは彼らのことを稀人と呼んでいた。

「軒先に野菜や米を積んでおくと、夜のあいだに山を降りてきた稀人が取っていくんです。物々交換のつもりなのか、子どもが作るような下手な木彫りの工作や鳥の卵、艶々した河原石とかを置き残してね。知能指数的には幼稚園児くらいじゃないですか」

 里の人たちは今はもう使われていない錆びついたドラム缶を指した。

「温かい湯をつかうとさっぱりすると分かったのか、入浴を真似するようになりましたよ。満月の前後に食料を用意しておけばそれを取りに来る以外には害もないし、無断で畠や鶏を荒らされたりするよりはいいというので、大昔からそうやって付き合っていたそうです」

 山奥に暮らしている謎めいた邑の人々はみんな黒眼がちな、マルチーズのように丸い眼をしていた。知的に少し弱かった者たちが追いやられた邑。これが元々の始まりではないかという仮説をわたしはたてた。

「君のことは、なんと呼ぼうか」

 夜になると例の若い女がやって来て、熾した火で焼いた川魚と、山芋や米を一緒に煮た何かを食事として渡してくれる。粥に似たそれに持参してきた塩やしょうゆをかけてわたしが食べるのを女は間近からじっと見つめ、食べ終わるとぱっちりした黒眼ですり寄ってくる。敷き詰めた葉が鳴った。里でもらったのか拾ったのか、女は男物の古びて色褪せたフリースジャケットを得意そうに着ており、フリースの袖を肘までまくって膝小僧を出し、蔓で編んだ沓をはいていた。里からもらったドラム缶に邑人たちは川から汲んだ水を入れて湯を沸かし、髪やからだをよく拭いており、女の膚も垢じみておらずきれいなものだった。

 滞在するわたしのために、邑人たちは比較的新しい住居をわたしのために譲ってくれた。里にとって邑人が稀人ならば、邑にとっても山麓から来る者は稀人なのだ。

 はだかの上に直に着ているフリースやわたしの衣類に付いているファスナーを、ヤーヤーと口で唄いながら上下に滑らせて女は遊んでいた。

「タヒチに逃避したゴーギャンになった気分。意味が分からないだろうけど」

 その女のことはホカちゃんと呼ぶことにした。甘えん坊を意味するポカホンタスと冷え込む山の夜をあたためてくるカイロから適当に連想した名だ。

「物々交換だけでなくてね、戸に鍵のなかった祖父母の代には、衣服や食料の礼のつもりなのか夜になると勝手に寝所に女が入って来てその家の男衆にまたがってきたそうですわ。まあ誰とやってきたかも分からんし細菌やら何やら粘膜に未知の怖い病気があるかもしらんしで、女たちがそれはあかんと散々云ってきかせて、ようやく止んだそうですけど。あの人たちは予防接種も受けてませんしね。昔から稀人と交わると忌み子が産まれるという話もありました。それでも、もしかしたらあの山の中にはおやじの異母兄弟でもおるのかもしらんのですわ。ははは」

 梅毒にでもかかったら既往歴に一生記録として残る。人文科の教授がそれでえらいことになって罵声の限りを妻から浴びせられた挙句、他にも何かルール違反を在籍の嬢に対して試みたようで店の受付に身分証明書が貼り付けられてそれがネットに流出し、慰謝料と子どもと新築の家をもぎ取られて去年離婚した。

「今からでも運転免許をとって、タクシーの運転手にでもなろうかと……」

 見るからに煤けきり一回りも小さくなったその教授は降格すらもスキップした放逐処分になることが確実で、笑い話にもできないほど悲惨だ。

 ウー。

 ホカちゃんがぱたんと胸の上に乗って来た。わたしの鞄を指してホカちゃんが腕を叩く。

「ウーウー」

「ご褒美のキャラメルはまた明日。風邪をひくから服を着ておきなさい。おやすみ」

 迂闊だった。下山したらすぐに病院に行こう。

 アーウーと挨拶をしてくる邑人たちの黒いつぶらな眸。滝のある岩場に行ってみるとホカちゃんがフリースをまくりあげてまるいお尻を見せながら女たちと小魚を獲っている。女たちの白い下肢のあいだを魚が泳ぎ、空気は澄んで、滝の涼しい音に樹々をわたる鳥の鳴き声。浅瀬で遊ぶ子どもたちがわたしに笑顔を向ける。トマス・モア先生でも連れてくれば、ウトピアだと叫びそうな光景だ。

 その夜から数日に渡って大雨が山に降った。雨水が小屋に流れ込んでくるかと想ったが、ふしぎと水の被害は邑を避けていた。

 ナイフで削った小さなキャラメルの欠片をねだられるままにホカちゃんに与えながら、轟々とうなる天界から完全に護られている邑の中で、わたしはホカちゃんを抱いてうとうとしていた。

 わたしは分かっていなかった。理性を保っているつもりでいて、すでにわたしの頭は正常ではなかったのだ。今日は何日目だ?



 わたしは、何故ここにいるのだろう。山の中だ。

 海風の向こうに街が見えている。

 波の上に人がいるねと海岸で母にきくと、「見えるの」母は怯えた声をあげてわたしの手を引き、二度と海に連れて行ってはくれなかった。

 童話を読んだ影響で真昼間にまぼろしでも視たのだろうか。見たこともない街と馬車、行き交う異国の人々が、しゃぼん珠の中の絵本のように海の水平線上に浮かんでいたのをこの眼で見たのだが。

「蜃気楼だろう」友人の葛西が決めつけた。

 わたしは反論した。わたしが見たものは馬車と、十七世紀ごろの欧州のような建物と人々だった。

 葛西は腕を交差させた。

「それが本当なら、なにかが交わったのかも知れないな」

 女の寝息と雨音を耳にしながら、落雷の光に打たれて瞼を開いた。何日目だ。ここに来てから何日が経ったのだ。何度も新月をみた。日数の感覚がまるでない。

 愕然となった。帰らなければ。


 邑人たちは来た時と同じように顔を揃えて送り出してくれた。ホカちゃんがすいすいと樹の枝を伝って途中まで見送ってくれた。

「キャラメルはもうないんだ」

 何かをしてやりたいが金銭などこの子には意味がない。想いついて旅行用のステンレスの腕時計を外して女に投げた。ホカちゃんは樹の上で時計を拾った。「ソーラー電池だよ」身振り手振りで太陽に当てることを教えてやった。時間の概念など持ち得ないだろうが、女はきらきらしたものが好きだし、おもちゃにはなるだろう。

「さよなら」

 振り返るとホカちゃんは枝に腰をかけて、もうわたしの方を見ることもなく脚をぶらぶらさせながら面白そうに針の回る時計を眺めていた。

 数時間歩いた。もう少しで行きに案内人と別れた峠だ。背後に何かの気配がした。すごい速さで迫ってくる。樹々が倒れていった。ダンプカーに追われるようにしてわたしは山道を駈け下りた。熊に襲われた時にはどうすれば良かったのか必死で想い出そうとした。なにひとつ間に合わなかった。



 准教授だったわたしの死は百年前にその邑を訪れた先達の学者の不審死とあわせて、山の怪奇として書き立てられた。昔の学者もわたしも死因は遭難だ。

「これが百年前の遭難者の遺した遺書です」

 紙の切れ端に何度も上から字を重ねて真っ黒にしてしまい、何を云い遺そうとしたのかまるで分からない紙切れが掘り起こされた。学者の間で『海苔遺書』と呼ばれているものだ。

「葛西准教授によれば、これが今回遭難に遭ったご友人から届いたものとのことです」

 友人の葛西がわたしが送ったメールの画面を報道カメラに向けている。


 日付:一年前

 件名:遺書

 本文:(解読不能)



 登山で鳴らした男は今も現役でその装備に隙はない。葛西は腕組をして山を睨んでいた。

「お前の遺体は下流の河原で見つかった。先週の台風で流されてきたんだろう」

 わたしは何かを葛西に伝えたいのだが叶わない。

「なぜか白骨化した手に腕時計を持っていた。水没していたはずなのに、時計はまだ動いていたよ」

 地図の中に邑はない。この世のどこにもない。あれは遠野だ。見ても入ってもいけない。死の寸前に覆いかぶさってきたものは熊ではなかった。

「一年前、お前に頼まれたとおりに捜索願いを出した。捜索は大掛かりだった。お前を山に案内した里の人たちと一緒にその邑を探しても、ドローンで探索しても、何も見つからなかった。そいつらは人なのか。猿か、狼か。何かに化かされたのか」

 わたしは叫ぶ。やめろ葛西。

「お前が見つかった川を辿れば今度こそ其処にいけるだろう。それまで俺はお前を弔うことはしない。今から俺がその邑を調べてやる」

 葛西やめろ。帰れ帰れ。

 オオ、オオと啼く山を葛西が仰いだ。



[了]

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