第二話 通知表と母さんの笑顔

 これは一体なんなんだ?


 ぼくは我が目を疑った。

 そんなはずはないと何度も見返すが、悲しいことに書かれた文字が変わるはずもない。


 まずい。これはマジでヤバいなんてものじゃない。

 先生から渡された通知表は、明日から始まる夏休みという存在を消去してしまい、ぼくを奈落の底に突き落とす。

 このままだと、国立大学に行けそうな高校には進学できない。

 受験は来年だから、二年生の夏休みだけはしっかり遊ぼうと思っていたのに。現実は甘かった。

 

 まわりが通知表を見てワイワイ騒いでいる中で、ぼくはひとり机に突っ伏している。こんな成績、とても母さんに見せられない。どうやってごまかせばいいんだ?

 絶望的な気分のまま終業式を終えた僕は、今日からどうすればいいのかを悩んでいた。

 二年生だというのに、夏休みは塾の夏期講習に通わされるだろう。朝から晩まで勉強勉強で、バンドの練習もできなくなる。


 地獄だ。

 こんなときこそバンドメンバーと一緒に大好きな曲を演奏したら、気分が晴れたかもしれない。でも今日に限って全校一斉に部活動が休みとは。


 蝉の声が、夏休みを失いそうなぼくをあざ笑う。夏の太陽は体を焼き尽くさんばかりに降り注ぐ。

 強烈な日差しに文句をつける気力もない。


 ぼくは大きくため息をつき、視線を落としながら校舎を出た。

 熱せられてベタついた空気がぼくの全身を包む。

 暑さのあまりこのまま溶けてしまうんじゃないかと思いながら歩いていると、校門を出たところで、

「ハヤトー、待ってよう」

 と呼びかけられた。あの明るい声はぼくのプリンセス、麻衣だ。


「部活のないときくらい、一緒に帰りましょうよ」

 無邪気に微笑む顔は少し汗ばみ、頬が軽く紅潮している。ぼくを追いかけて走ったのかな。

 自分のために息を切らしてくれる女の子がいるなんて、ぼくはなんて幸せ者なんだろう。

「あら、暗い顔してるのね。さては成績がぼろぼろだったな」

 麻衣は肩を少し上げてクスッと笑うとぼくと並んで歩き始めた。

 触れられたくない傷を笑顔で容赦なくえぐる。前言取り消し。プリンセスじゃない、小悪魔だ。

 ぼくは深いため息をついた。


 こうやって並ぶと、麻衣のほうが背が高い。

 でもぼくは気にしない。幼稚園の頃は頭ひとつ差があったのに、最近はあまり変わらなくなった。声変りがまだのぼくは成長期前だし、今に麻衣を追い越してみせる。


 そしてあの日のように麻衣を守る、強い男になるんだ。


「そういう麻衣はどうだったんだよ。余裕見せてるけど」

「まあまあってとこかな。ほら」

 麻衣は惜しげもなくぼくに通知表を渡す。

「すごい……」

 中を見た途端、ため息が出た。


 主要教科はオール五で副教科に四が混ざっているだけだ。

 なにが「まあまあ」だよ。授業中の様子やテストの結果を見ていたらなんとなく予想はついたけど、ここまで差があるとは。

 このままでは同じ高校に行けないよ。


「はあ……」

 無意識のうちに、またため息が出た。

 ぼくが軽音で忙しい以上に、麻衣の吹奏楽部は忙しい。放課後も休日も練習に次ぐ練習を重ね、その結果、何度も県代表になっている伝統のある部だ。

 そして麻衣は高校でも全国大会に出場できるところを目指している。そこは県内でも一、二を争う進学校だから、二年生のうちからしっかり勉強しなくてはいけない。


 そういうわけで吹奏楽部の部員は、総じて成績もトップクラスだ。あの倉田先輩も例外ではない。三年生で受験を控えながらも、秋の全国大会が終わるまでは引退せず、最後に追い込みをかける。

 それを実現させるため、一年生のころからほとんどの部員が勉強にも力を入れていた。


「実力の差を見せつけられたよ」

 好きな子に勉強でも勝てないぼくは、男として尊敬してもらえるだろうか。両思いになる可能性はますます低くなる。流れる汗は暑さからだけではなさそうだ。

 麻衣はぼくの背中をぽんとたたいた。

「まだ中二だもん。いくらでも取り返せるって。あきらめちゃだめよ。絶対に同じ高校に行こうね」


 ぼくに向けてくれる無邪気な笑顔がまぶしくて、胸がドキドキする。

 やっぱり麻衣が好きだ。がんばって同じ高校に行って、この先もずっと、あの日のように守ってみせる。


 ぼくはいつまでも麻衣と一緒に歩きたい。

 このまま永遠に道が続いて、家に着かなかったらいいのに。でも残念ながらこの交差点でお別れだ。

 信号が青に変わったところで麻衣は「また明日」と言い残し、軽やかに横断歩道を渡った。その姿が消えるまで、ぼくはずっと見ていた。


 麻衣の笑顔と励ましのおかげで、落ち込みから浮上できた。つられたぼくは、うっかりスキップしそうになる。

 口元が緩むのが抑えられないでいると、角を曲がって小道に入ったところで、いきなり四人の小学生に囲まれた。

 彼らは近所に住む小学六年生の子供たちで、昔からの遊び仲間だ。

 

「ハッちゃん、彼女とデート? 見かけによらずリア充なんだね」

「リ、リア充だって? そんなのじゃないってば」

 あきらめ、どこでそんな言葉覚えたんだ。見かけによらず、だけ余計だぞ。

 いつもこんなふうに生意気で容赦のない突っ込みをしてくる。だからぼくは心の中で、悪ガキ軍団と呼んでいる。


「ねえねえ。今度の日曜、海に行こうよ。ハッちゃんがお父さん代わりになってくれない?」

 黄色い通学帽を手にして、和人かずとがもじもじしながら提案した。海か。行けるならぼくも行きたい。でもそれは無理な相談だ。

「ごめん。中学生じゃ保護者代りになれないんだ」

「ちぇっ、つまんねえ」

 秀司しゅうじがバスケットボールを指先でくるくるまわしながらぼやく。相変わらず器用な子だ。


「な、言ったとおりだろ。ハッちゃんはおちびさんだから無理なんだって」

「なんだと? さとしっ。ちびで悪かったなっ」

 気にしていることをズバッと指摘され、ぼくは年下相手にムキになる。

 悔しいことに聡はぼくより背が高い。ぼくの怒りは計算済みだったらしく、悪ガキ軍団は散り散りにかけ出した。

 まあいいや。きみたちの気持ちはよくわかるからね。


 聡たちを見送ったぼくは、焼けたアスファルトの熱にうんざりしながら家に向かう。

 のんびり歩くだけでも汗がにじむ。帰りたくないけど、エアコンの効いた部屋は捨てがたい。

 刻一刻と迫る夏休み終了のとき。部活もできず海にも行けず、家と塾の往復に明け暮れるのか。いやいや、そんなマイナス思考から抜け出すぞ。

 ぼくは猫のように顔をぶるぶるっと振った。いくらでも取り返せるって麻衣に励まされたじゃないか。あの娘の笑顔をお守りに、試練を乗り切るんだ。



   ☆  ☆  ☆



 家に着くとぼくは、玄関前で大きく深呼吸をしてから扉を開けた。ドアにつけたベルが喫茶店みたいにカラカラっと音をたて、人の出入りを知らせる。

「ハヤト、帰ったの?」

 げっ、母さんの声だ。今の時間は旅館に行っているはずだろ。

 も、もしかして……一刻も早く通知表を見たくて、おばあちゃんに宿を任せてきたの?


 こっそり二階に逃げようにも、帰ったのがばれてはしかたがない。重い足取りで家に上がり、恐る恐るリビングの扉を開ける。

 母さんは白々しくも涼しい顔でソファーに座り、冷たいコーヒーを飲みながら本を読んでいる。

 宿はどうしたんだよ、といつもなら突っ込むところだが、今はそんな余裕がない。エアコンが効いているはずなのに、額から汗が流れ、頬を伝って落ちた。


「た、ただいま」

「お帰りなさい」

 母さんはにっこり笑って本を閉じ、ぼくに右手を差し出す。

「な、なに?」

「あら。今日は終業式じゃない。見せるものあるでしょ」

「えっと……」


 ぼくは母さんから目をそらし、視線を泳がせる。しらを切り通したかったが、無駄な抵抗はやめた。

 心配することはない。今のぼくには麻衣の笑顔というお守りがある。スッと息を吸い込み、鞄から通知表を取り出して威勢よく渡した。

 母さんはおだやかな表情で開く。この優しい顔がいつまでもつやら。ぼくはまな板の上の鯉になった気分で、母さんの足元で正座し、上目遣いで様子を伺った。


 やばい。予想通りだ。柔らかかった母さんの表情がみるみる硬くなる。上がっていた口角が真一文字になり、眉間にしわが寄る。これは相当怒っているぞ。

 麻衣の笑顔は、現実の前ではなんの役にも立たなかった。


「ハヤト、この成績はなあに?」

 低い声がぼくを、づけで呼ぶ。怒りが最大値まで達している証拠だ。

 もう終わりだ。来月の小遣いは抜きで、塾通いがはじまるのか。部活にも行けなくなる。秋のバンドコンテストに向けてデモテープを作るはずだったのに。夏の計画を立て直さなければいけない。


 絶体絶命の大ピンチ!


 と思った瞬間、家の電話が鳴った。

 母さんが出ているすきに、ぼくはリビングを抜け出すことにした。

 息子のひどい成績をネタに、友だちと長電話を始めるんだろ。さっさと切り上げて仕事に戻らないと、おばあちゃんが困るよ。


 でもいいか。この場から逃げ出せるなら。

 これも笑顔のご利益かな。

 ところがドアノブに手をかけたタイミングで、母さんに呼び止められた。


「ハヤト、ちょっと待って」

 意外なことに、もう電話が切られている。ちぇっ、逃亡失敗。

「八月になったらワタルが来るって」

「……えっ?」


 ぼくは扉を開ける動きを止めた。

「兄さんが?」

 母さんは目じりを下げて鼻歌を歌っている。ぼくの成績を叱ることはすっかり忘れたようだ。


「去年は来なかったから二年ぶりね。今年はどれくらいウチにいられるのかしら。休みのあいだずっといてくれたらいいけれど、それは無理よね、そうでしょ、ハヤト」

「うん、そう……だね」

 会話をあわせるように適当に返事をすると、ぼくは部屋に戻った。とりあえず夏期講習の話が出なかったからよしとするか。


 着替えてベッドに寝転ぶと、机の横においてある本棚が視界に入った。

 一番上の棚におかれた小さな額には、ギターを弾く兄さんの写真が入っている。高校の文化祭で、ライブをしたときのものらしい。去年の夏に来られなかった代わりに、送ってくれた。

 母さんと違って、ぼくは兄さんの訪問を素直に喜べない。小さいときほどじゃないけれど、今でも複雑な気持ちになる。

 でも顔を合わせたらそんな気持ちは吹き飛んでしまう。だって兄さんは頼りがいがあって優しくて、こんなぼくでも大らかに受け止めてくれるから。


 ステレオの電源を入れて、買ったばかりのCDをかけた。アメリカのロックバンドのアルバムだ。

 英語なのでろくに聴き取れないし、歌詞カードも読めない。それでも曲の持つ力強さは解る。パワフルなリズムパートと、自信に満ちたシャウトするボーカル。そして曲に彩りを与えるギターのメロディ。

 ぼくは特にギターに集中しながら、このアルバムを何度も聴いている。


「そうか。会うのは二年ぶりなんだ」

 去年は大学受験があったから、兄さんは来なかった。一年間練習したギターを聴いてもらえなくて残念だった。

 今練習しているのはステレオから流れている曲だ。兄さんが好きなバンドの新譜だったので、無理言っておばあちゃんにCDと楽譜を買ってもらった。

 もっともっと練習して、うまく弾けるようになってみせる。二年間会わなかったあいだに、どれだけ上達したか聴いてもらうんだ。

 兄さんを驚かせてやる。よし、燃えてきたぞ。


 ぼくはベッドから起き上がり、本棚の横においたギターを手にして椅子に腰かけた。チューニングをすませて楽譜を広げる。

 初見ですらすら弾けるほどギターの腕は良くない。何度も練習を重ねないと、必ず途中で手が止まる。もっとなめらかに指が動くといいのに。

 兄さんが来るまでに、一曲くらいは弾けるようになっておこう。


 ぼくの日常はこんなふうに、音楽や麻衣のことで占められている。もちろん勉強だってあるけどね。

 だから地球のためのヒーローにはなれそうにない。

 そのためにできることを考えている暇は、残念ながらないんだ。



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