第17話 決意のラストコール

 行為を終えると、早々に会場を後にして、雪姫ゆきは一条の運転で家に向かっていた。当然、雪姫の家に帰れるわけはないので、一条の家だ。

 麻布通りを南下し、マンションが並ぶ一角、その地下駐車場に駐車し、高層用のエレベーターに乗り込む。雪姫には想像もできないが、ここの駐車場代だけでちょっとしたワンルームの賃料を上回っている。

 エレベーターを降りてすぐ、一条宅の玄関があり、ドアをくぐる。

 ドアを開けた瞬間に自動で照明が灯る。マンションとは思えない広い玄関で、廊下もゆったりと幅がある。

「さ、入って」

 一条に促されて廊下を進むと、広いリビングダイニングに通された。ここだけで二、三十人のパーティが余裕でできそうだ。奥からアイランドキッチン、八人掛けのダイニングテーブル、一段低い場所に六人掛けソファー三つがコの字に置かれ、その中心には大きなガラステーブルと、家具が悠々と置かれている。部屋の一面は全て大きな窓になっていて、都内の夜景が一望できる。

「ザ・お金持ち、ってかんじですね」

「君だって生活水準でいえばそんなに変わらないだろう?」

 正直な感想を少しの皮肉のように取られたのか、一条は雪姫の上着を受け取りながら笑う。

 広めの戸建て住宅に住んでいて家政婦を雇っている白野家は確かに裕福なのだが、その自覚はあまりなかった。周囲の住宅は大なり小なり裕福な家庭が多かったし、小中学は私立のお嬢様学校だったせいもある。転機は公立高校への進学だ。父の死と母から向けられる嫌悪に対する半端な反抗の結果だったが、奇しくもそれが、自分の生活水準が一般的なものより高いことに気づかされたきっかけだった。

 自由に使える金額が月に数千円しかなく、数万円使うにはアルバイトに勤しまなければならない。そんな生活があることを、十代半ばにして初めて目の当たりにした。

 数百円の洗顔料や化粧水など使いたくないと当時は本心で思っていたが、このひと月半の生活を思い起こすと、だいぶ生活水準は下がったように思えた。冷凍食品の唐揚げやピラフを食べることも、命を狙われなければ経験することもなかっただろう。


 広々ソファーにL字に座り、雪姫と一条は紅茶を手にこれからのことを話し始めた。紅茶はそんなに香りがよくない。一条いわく「実家にいた頃から紅茶の良し悪しってよくわからない」ということで、かなり適当だそうだ。この家も、一人暮らしで気ままに過ごし、数日に一度ハウスクリーニングに人を入れるくらいらしい。他にも気に入った人がいればこの家に通すこともあると聞いたが、いわゆる「ヤリ部屋」というわけではなく、一条自身ここに住民票を置いているとのことだ。


「で、どういうショーにする?」


 一条の物言いは、本当に他人事ひとごとに聞こえる。どんな映画見る?と同じようなテンションで、人を苦しませる方法を聞いてくる。

「どんなことでもできるの?」

 雪姫は迷いを抱えながらも問い返す。

 母に報いを与えたいという気持ちはまだあるが、殺したいかと言われれば自信をもって頷けるか怪しい。雪姫自身に身の危険が及ぶかもしれないのならば、母・真尋まひろをどうにかせねばらないことは理解している。

 なら、なぜ躊躇うのか。

 いや、そもそも躊躇うことはおかしいことなのか?

 こうやって、紅茶を口にしながら人を殺す方法を話し合うことを、こんな異常を何の違和感なく行うことを。

「もしかして、迷ってる?自分の母親を殺すことを」

 そんな雪姫を見透かしたように、一条は口角を微かに上げる。

「別に君が直接手を下す必要はない。今日みたいに遠目に見ていればそれだけでいい。君が味わった恐怖や苦痛を、それ以上のものを、母親に与えてやるんだ」

 一条は雪姫が抱く不安や罪悪感を少しずつ取り除くために囁く。

「あの会場への連れてくる方法も、気にする必要はない」

 少しずつ、まるでゆで卵の殻を丁寧に剥いていくように。

「因果応報ってやつだよ。君が気に病むことではない」

 だから君は悪くないと、後ろめたく思う必要などないと。

「これは、君の正当な権利だ」

 甘言を囁く蛇のように、雪姫の耳元で、囁いた。


 だが、雪姫はそれでも踏み込むことに躊躇いがあった。罪に問われるかもとか自分の身に危害が及ばないかとか、そういう話ではない。

「その前に――」

 だから、本当に最後の確認として、試してみたいことがあった。


「母と、話をさせてもらえませんか」


 一条は微かに眉根を寄せた。

 そんなことをすれば、情が沸いて実行できなくなるだろう。

 実は一条の方で、催しをプロデュースする話を既に通している。一条にとっても「やっぱりやめます」なんて返事はしたくない。いや、できないと言うべきか。ちょっと確認・提案、くらいの軽い気持ちで主催グループに持ち掛けた話が、実は退けないところまで来てしまっているのだ。

 一条とて、ここでなかったことにするなんでできない。

「少し、電話するだけです」

 そんな一条の内心など気づかぬまま、思いつめた硬固い表情で、雪姫は一条を見つめる。

「覚悟を決めるために、必要なことなんです」

 


 一条から電話を借り、非通知で自宅へかけた。

 本当は真尋に直接かけた方がいいのだが、雪姫のスマホは一か月半前から紛失中だ。だから、微かに覚えている自宅の電話へかけた。

 コール音が続く。

 スピーカーにしているので、隣に座る一条の耳にも延々と続くコール音が届く。

 午後十時になろうかという時刻、すでに通いの家政婦は帰っている。あとは母の帰宅次第だと、延々と呼び出しを続けるコール音に嫌でも意識が集中する。

 一分ほど経っただろうか。

『もしもし』

「—―――っ」

 スピーカー越しの、落ち着いた雰囲気の、上品そうな印象の女性の声。

 白野真尋が電話に出た。

 思わず雪姫の息が詰まる。

『もしもし、どちら様?』

 自分を殺すために人を雇い、二度も刺客を差し向けた、実の母親。

『もしもし?』

 ひと月半ぶりどころか、二カ月は聞いていない母の声に、何か返そうと声を出しかけ、詰まる。

『イタズラなら切りますよ』

 苛立ち始めた真尋の声に、雪姫は慌てて声を発した。

「お母…さま……」

 電話越しに、息をのむ気配を感じた気がする。

『まさか……、ゆ、き……?』

 ありえないと、そんなわけがないと。

『本当に、あなたなの……?』

 白野真尋が、声を震わせた。

「ええ、わたしよ、お母さま」

 先ほどまでとは裏腹に、雪姫は真尋とは対照的に、自分でも驚くくらい落ち着いた声で応じていた。

『なんで、生きて―――』

「それは――」


『なんで生きてるのよっ!!一度ならず二度までもっ!!往生際の悪いっ!!』


 先ほどまでの上品そうな印象とは真逆の、ヒステリックな金切り声が電話口で騒ぎ始めた。

 一条は声に出さず、溜息と共に呆れた。

 こんな母親がいるのか、というところにではない。

 電話の向こうに雪姫以外の人物がいるとは考えないのか。例えば警察や、自分の経営する病院関係者とか。そうでなくとも、何かの間違いだ、早く家に帰ってこいと甘言を吐いて雪姫を誘導して自宅で始末をつけるとか方法はあるだろうとも。いや、そんなこと考えられないくらい驚き、忌み嫌っているからこそなのだろうか。

「そんなにわたしに死んでほしいのね」

『当然よ!あなたどこにいるの!待ってなさい!すぐに人をやって殺しに行かせるから!』

 これも感情に任せた物言いだ。

 電話会社に言っても通話先の情報など教えてはくれないだろう。警察が動かない限り、通話履歴から場所を特定することなどできやしない。それと、ここまで犯行を自供しているわけだが、これを録音されて警察に駆け込むとは考えないのだろうか。

 またも呆れていた一条は、次の雪姫のセリフに言葉を失った。


「—―今なら、手を引けば、わたしが許すと言ったら、どうする?」


 一条は耳を疑った。

 許す?二度も命を狙ってきた母親を?正気か?

 いや、許されても今度はコチラが困るが、と一条の内心では焦りの感情が沸く。

 驚いたのは、真尋も同じだった。

『何を言っているの?』

「これ以上わたしのことを狙わないなら、このことは警察に言わないし、わたしも遠くに行く。少なくとも、首都圏からはいなくなる」

 そんなに目障りならば目の前からいなくなってやる。

 命を狙ったことも、罪に問われることはない。

 そう雪姫は宣言した。

『フフ、何を馬鹿な』

 それを、真尋は一蹴した。

『あなたが生きていることそのものが気に食わないのよ!目の前から消えてやるから見逃せと?あなたがこの世で生きていること自体が許せないというのにっ!!』

 雪姫の中に、じわじわと感情が溜まっていく。

「そんなに、お父様の寵愛を受けられなくなったことが悲しいの?そんなにわたしが選ばれたことが悔しいの?殺したいほどに?」

『当然よ!わたしからあの人を奪った罪は、あなたの死をもってしてそそがれるべきものなのよ!だから大人しく――』

「お母さま」

 その声を遮り、雪姫は核心の一言で質す。


「わたしを、殺したいほど憎んでいるの?」

『当然よ!苦しみ悶えながら死ぬといいわ!』


 なんて母親だろうかと、一条は聞こえないよう溜息を吐く。

 絵に描いたような毒親だ。本当にこんな人間がいることに、呆れを通り越して笑いが出てきそうだった。


「また、わたしを殺しに来るの?」

『当然でしょ!あなたがどこにいようと、どう隠れようが、必ず探し出して息の根を止めてやるっ!!』


 普通なら、心が折れてもおかしくないはずだ。

 子供にとって、親から不要と断じられることは大きな衝撃であり、ストレスであり、絶望のはずだ。

「そう――」

 だから、次の雪姫の一言は、一条にとっても真尋にとっても理解できないものだった。


「わかった。ありがとう」


 そう言って、雪姫は通話を切った。

 言うに事欠いて「ありがとう」とはどういうことか。

 いぶかしむ一条に、雪姫は長い黒髪を掻き上げ、大きく深呼吸すると、その目を見て言った。


「会場のセットって、どんなものが用意できるんですか?」


 電話前とは打って変わり、落ち着き払った様子と声音で、雪姫は質問した。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る