第16話 動揺

「終わったよ」


 いつまでも視線を逸らしていた雪姫ゆきに、一条は声をかけた。

 あれから一分後、水面に男の姿はなかった。

 赤い絵の具を溶かしたバケツのような水深一メートルの会場と、ワニの口に血に濡れたシャツが引っかかっていることが、男がどうなったかを如実に語っている。

「どうだった?」

「悪趣味ですね」

 一条の問いに、遠慮なく雪姫は感想を口にした。

「自分よりも弱いものが蹂躙されるのを笑いながら眺めているなんて」

 そこまで言って、一度溜息を挟んでから、


「これが、世間にバレることはない、っていうんですか?」


 本題に入った。

 ここに来たのは捕食ショーを見るためではない。

 世間にバレずに人が消える場所。その実在を示すための場のはずだ。

「もちろんだよ」

 一条は笑みのまま、自慢げに語る。


「ここには金を余らせている金持ちや、権力を持った人間が集まっている。国家公安委員会や警察庁、国会議員、財閥の経営層、海外の資本家、民間軍事会社、まぁいろいろだよ。彼らは自分たちが楽しむための労力は惜しまない」


 雪姫は呆れから再度溜息を吐く。

「警察も、ですか」

「そう。警察に通報が入っても、捜査の際に上から圧力がかかる。起訴しようとしても検察でまた圧力がかかる。途中で証拠がなくなる、現場状況の保存がうまくいかないなんてことはよく起こる。一部の正義感の強い人間が白日の下に晒そうと息巻いていると、突然行方不明になってしまう」

「……」

 悠然と語る一条の言葉に、雪姫の意識は呆れから畏怖へと変わっていく。

 創作の中でよく出てくる、金持ちの道楽のための闇カジノや闘技場みたいなものだと思うに留まっていたが、認識を改めなければいけないと思った。

 世間には悪い人がいるとか、警察は全面的に信用ならないとか、そういう話ではない。多くの一般人は、この場所の存在を知らずに一生を終える。先ほど喰われた男も同様だろう。この場所に来る前までの彼にとって、最悪のシナリオは拘置所で数年過ごした末に絞首刑にかけられることだったはずだ。それが、五体を喰い千切られて捕食されるという想像の外の死を迎えるとは夢にも思わなかったはずだ。

 今回はたまたまそういう人間がターゲットにされただけで、実は一般人がここに、に放り込まれることもあるのではないか?それこそ、肩がぶつかった、気に食わない目つきだと、そんな理由で凄惨な死を与えられてしまうのではないか。そんな想像をしてしまう。


「いつも、なんですか?」

 動揺を表に出さないようにと意識したためか、質問がひどく抽象的になった。

 だが、一条は意を汲んでくれているのか、答えてくれた。

「動物だと、ライオンとか、ヘビとか、サメとか、あとカバとかかな」

 カバというのが意外だったが、怒らせると巨体に似合わぬ俊敏性と約一トンの顎の力で襲われ、命はないという。アフリカでは年間数百人がカバに襲われて死亡しているそうだ。

「『舞台セット』も、金さえ出せばいくらでも組み立て可能だよ。百メートルの崖を作ってその身一つの綱渡りでも、迷路を作ってトラップを仕掛けることも。先月の『リアルテトリス』は盛り上がったな~。四段目で潰れちゃったけど」

 状況を少しでも理解しようとした質問だったが、凄惨な情報まで得られてしまった。その情報はひとまず頭の隅に追いやり、会場の仕様に自由度が利きそうなことだけを意識して留めておく。


 ここに母親を放り込めば、苦痛と悲鳴に塗れながら命を落とすのだろう。

 一方で、自分にそこまでの決意ができるだろうかと今になって考えてしまう。

 本当に、自分に母を殺す気があるのか。

 いや、殺すほどの衝動を維持できるのか。


 ひと月半前、雪姫が車に押し込められ、強姦され、なんとか逃げ出したあの山中で、確かに報復を誓った。

 母が雪姫を憎いのは理解している。父の気持ちが自分ではなく娘に移っていること。妻への気持ちよりも、倫理に背いた娘へのを選択したこと。その怒りが、憎しみが、愛する男ではなく対象となった女に向けられたこと。

 それが、憎悪から排斥へと昇華された結果が、これまで雪姫が二度命を狙われたという結果だ。


 ならば、自分は『殺されかけたのだから死んで当然』と割り切れるか?

 落ち着いて考えれば、そんなことはないはずだ。

 明るみに出ないだけで、ここに母を放り込めば、それは殺意をもって殺したのと同じだ。直接手を下すかどうかは問題ではない。

 自分が、白野雪姫が、実母・白野真尋まひろを殺すのだ。

 人を殺すには殺意が必要だ。

 その殺意を、これからも延々と持ち続けられるのか。

 殺されかけた直後だからこそ、興奮していただけではないのか?


(違う……)


 雪姫は首を振る。

 そうではない。それだけではない。

 自分が母を殺すのは、自分が生きるためだ。

 母が雪姫の生存を知れば、第三の刺客が差し向けられる可能性がある。

 母が自分を殺そうとした証拠が出てくれば警察が動くかもしれない。だが証拠があったとして、罪状は殺人未遂ではないか。それでは捕まってもいつか刑期を終えて出てくるのではないだろうか。

 いや、そもそも母はこの場所の関係者ではないかと疑う。大病院の経営者というのは、この深淵の地に列席するに値するものだろうか。


「あの、母はこの会場に――」

「あ、それはないから安心して」

 不安を口にした雪姫に、一条は答える。

「君の母親は、この会には参加していないよ」

 参加者のリストでもあるのだろうか。そんなものがあるとは思えないが。

 もしくは、母はそんな格ではないとか、そういう意味だろうか。

「俺だって、収入だけじゃなくて父親のコネがあっての参加だしね。母親はここのことなんて知らないし、年の離れた弟だって、全然関係ない会社で働いてて、当然こんな世界が現実にあるなんて思っていない」

 言いながら、一条はぐっと顔を近づけた。

「それよりさ――」

 端正な顔が更に近づく。

「んんっ――!?」


 そして、雪姫の唇が塞がれた。


 唇同士が触れ合うに留まらない。

 ついばむような動作から、やがて舌が挿し込まれ、互いの舌が絡められ、歯頚しけいを撫でられる。

「な、なにを――」

 抗議というよりも困惑から声を上げる雪姫に、一条はこれまでとは別種の笑みを浮かべる。

「興奮しちゃった」

 それは、ひどく子供じみた、イタズラ坊主のように見えた。

「人は生命の危機を覚えると子孫を残そうと性衝動が強くなるらしいんだけど、こういうの見ても興奮するものなんだね。これもミラーニューロンの共感なのかな」

 雪姫は視線を下げる。

 一条のスラックスは剛直を主張していた。

 狂っている。

 雪姫は素直にそう思ったが、

「ほら、君だって、興奮してる」

 その言葉に、雪姫は衝撃を受けた。

 男が叫び散らしながら捕食され、断末魔の叫びを上げている様に、自分が興奮を覚えていたというのか。

「もう、準備はいいみたいだね」

「あの、こんなところで――」

 さすがに他のボックス席から丸見えであることを気にした雪姫に対し、

「大丈夫だよ。俺たち以外にもみんな――」

 一条は飄々と語った。

 視線を左に、他のボックス席に視線をやると、確かに濃厚なキスを交わしている男女や、窓際に体を預けて上半身を晒す女など、先ほどまでとは別の興奮が会場に満ちていた。

「ほら、君も楽しみなよ」

 息を弾ませながら体を動かす一条に、雪姫も徐々に快楽を得ていく。

(やっぱり、違う……)

 快楽はある。一条にこの手の技術はある。慣れているのだろう。

 対して、つい数日前まで相手をしていた七人の男たちはどうだっただろうか。

 技術はお世辞にも高かったとは言えない。ものの数十秒で果てる、不器用で強引な手技、独り善がりな単調運動。

 そんなものばかりだったが、彼らは雪姫を求めていた。

 一条はどうだろうか。手慣れていることに不満があるわけではない。ただ、イニシアティブを取られている気がするのだ。そこは間違いないだろう。

 七人の男たちに対しては、雪姫は『させてあげていた』。

 一条に対しては、雪姫は『されている』。

 同意がどうこうという話ではない。

 七人の男たちは白野雪姫を欲していたのに対し、一条はたまたま隣にいる女を欲しているだけだ。

 そのせいか、このひと月半の不快を孕みながらも充実した行為とは違い、今はどこか虚しさを感じてしまう。

 母を殺せるのかという不安も相まって、雪姫は呆然と、行為中であることも忘れて天井の模様を意味もなく眺めていた。

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