第14話 深淵の地

 三日後、雪姫ゆきは無事退院した。

 西園寺は念のため、理事長である雪姫の母・真尋まひろが院内をうろつくことがない、来客が来る時間帯を狙って雪姫を院外に出した。

 時刻は夕方の五時、日の入りはまだだが、西にある山のせいで空はもう暗い。

 病院から外に出ると、二月の冷たい空気が顔に刺さる。

 雪姫は下はジーンズ、上は白いタートルネックのセーター、その上に紺のコートという格好で、エントランスに横付けされた黒い高級セダンへと歩き出す。

「体調に変化があれば連絡を」

「はい、ありがとうございます」

 西園寺との短いやり取りの後、セダンの助手席に乗る。

「やぁ、退院おめでとう」

「……ありがとう、ございます」

 運転席に座る一条からの笑顔に、雪姫は微かに緊張を滲ませる。

 その緊張を察し、一条はギアをドライブに入れてから口角をもう少し上げた。

「緊張することはないよ。この前言っただろう、下見だって」

 だから緊張しているのだと、雪姫は心中で愚痴る。


――「人が消えても揉み消せて、平然と人が死ぬ場所、だよ」


 これから行く場所は、先日一条が言っていた、不穏な言葉の場所。

 そんな場所、常識で考えればあろうはずがない、現実味のないものだ。

 だが、一条はふざけているようでも、冗談を言っている様子はなかった。

 なぜそんな場所に行くのか。なぜそんなことを言い出したのか。

 直接話したわけではないが、雪姫だって察している。

 その場所で、母を、白野真尋を■■すると、そういうことだ。

 雪姫にとっては報復、西園寺にとっては害悪の排除。一条にとっては何の意味があるのかはわからないが、何かメリットがあるのだろう。

「その服、似合っているね」

 そんな雪姫の感情など無視するように、一条は信号待ちで隣の少女へと視線を移した。

「あ、あの、服、ありがとうございます」

「どういたしまして」

 今雪姫が着ている服は、全て一条が用意したものだ。それ以外にもマフラーやニット帽なども用意されていた。マフラーは首の傷痕を隠すために気を遣われたものだったが、『首に巻き付ける』ことに抵抗を覚え、巻くことはできなかった。


 車が高速道路に入る。

 そこから首都高へ入り、数十分走るとすぐに下道へ降り、夜なのに明るい都心の只中を高級車が走っていく。

「この辺は来たことある?」

「いえ、出かけても原宿くらいまでなので……」

 街灯と店内から漏れる白い光、前の車のテールランプの赤に視線を移しながら、雪姫は社外の様子を見た。少し右上に目をやると、青い道路標識には右方向に曲がると原宿だと表示されていた。

 つい二ヶ月前まであった日常を思い出し、今の自分の状況と比較して、思わず自嘲じちょうしてしまった。母との仲は悪いが、直接生活に困ることはない環境で、友人と過ごし、学内のヒエラルキー上位の人間であった、ある意味無邪気だったあの頃とは、もう何もかもが違う。

「まだ、かかるんんですか?」

「もうすぐだよ」

 緊張の面持ちの雪姫とは対照的に、一条の張り付けたような笑顔は変わらずに、車が左折し、片道三車線の道路を進む。そして一分も経たずに減速し、左折。

 大きなビルの中に入っていく。


 地下へ続くスロープを徐行し、右、右、右と進む。

 車一台分のスペースに前から入り、エンジンが切られる。

「はい、これつけて」

 一条が手渡したのは、白い仮面だった。ふちに装飾があるが、簡素な造りのもので、鼻から上を隠し、口元は装着しても露出される。

「仮面、ですか?」

「そ、ルールだから」

 一条はいつの間にか仮面をつけていた。雪姫に渡されたものと同じ作りだが、色は黒だ。

 仮面をつけ終えると、車から降りて駐車スペースから出る。

 シャッターが下りて、車が消えていく。地下に格納されるタイプの駐車場だった。

「さ、行こうか」

 一条が手を差し出した。

 仮面をつけていても口角でわかる、笑みの印象は変わらない。

 いや、仮面をつけているからこそ、余計にその笑みは不気味に感じられた。


 車を降りて、白い光に照らされたコンクリートの地面を歩くこと十秒で、黒いガラス扉が現れた。黒いジャケットとサングラスの、屈強な男二人が門番のように左右に立っている。

 何の躊躇いもなく一条は進み、懐から黒いカードを取り出す。

 その動きに合わせるように、黒服の一人が黒いスマートフォンサイズの端末を取り出して一条に差し出す。

 カードが端末の上に翳されると、スッと音もなく黒い扉が左右にスライドした。

 一条が扉を潜り、慌てて雪姫も続く。

「あの、もし何かのパーティなら、この服はちょっと……」

 身に着けた仮面と物々しい雰囲気から仮面舞踏会を連想し、雪姫は自分のセーターとジーンズという格好に戸惑った。車に乗ったときは意識していなかったが、一条はしっかりと紺のスーツを着ている。さっきの黒服といい、雪姫の格好はこの場の雰囲気から浮いているように思えた。

「ああ、気にしないで。たまにそういう格好のお連れさんがいることもあるから、周りの人もあんまり気にしないよ」

 一条は雪姫の不安など一蹴し、先に進んでいく。


――「人が消えても揉み消せて、平然と人が死ぬ場所、だよ」


 改めて、雪姫は一条のセリフを思い出す。

 そう、ここはのはずだ。

 だというのに、今歩いている通路は暖色の壁紙に毛の短い赤いカーペットと、どこぞのホテルのようだ。とてもそんな不穏な場所には思えない。

 二十メートルほど歩いたところで、先ほどと同じ黒い扉が現れた。今度は近づいただけで開いた。

 扉の先は、左右に分かれる形で円弧状の通路が続いていた。五メートル間隔に木製の扉があり、延々と続く通路と扉の組み合わせは、異空間に迷い込んだように錯覚してしまう。

 一条は通路を右に進み、十個目の扉の前で立ち止まった。

 ドアを開け、「さ、入って」と雪姫を促す。

 警戒しつつ、雪姫が扉をくぐると、サイドテーブルのついた高級そうな革張りの三人掛けソファが前後二列並べられていた。オレンジの落ち着いた照明に照らされている幅四メートル、奥行き五メートルほどの室内は、通路と同じく暖色に彩られ、ミニシアターのような印象だ。

「座りなよ」

 一条は既に前列ソファーに腰かけ、背もたれに体を預けながら雪姫に振り返る。

 戸惑いながら、雪姫は一条の横に座る。三人掛け用に二人で座るため、体が触れることなくゆったりとスペースを使うことができた。


『皆さま、長らくお待たせいたしました』


 スピーカー越しに、紳士的な低い声が発せられた。

 見ると、部屋の四隅の天井には小さなスピーカーがしつらえられていた。

 

『本日のショーを開始いたします』


 前を見る。

 少なくとも五十メートル四方はある長方形の空間、それを見下ろし取り囲むように、四角いボックス席が上下左右に規則的に並べられている。

 雪姫は小学生時代に家族でフィギュアスケートを見に行ったことがあったが、あれを一回り大きくしたような広さの空間を、オペラのボックス席で全て取り囲んだような印象だ。眼下の広い空間を五メートルの塀で囲み、その上にボックス席を縦に五段ほど積み上げ、横はざっと六十、いや七十以上のボックス席が取り囲んでいる。


『では、ショーの主役をご紹介しましょう』


 雪姫のいるボックスの対角線に当たる位置の塀が開き、そこからふらふらと戸惑いながら男が一人出てきた。そこで、雪姫の足元に二十インチほどのディスプレイがあることに気づき、そこにその男がアップで映し出された。

 白いTシャツと白いスラックスを着た、ぼさぼさ頭に深いほうれい線と荒れた肌の男は、「ここはどこだ!」「なんなんだ!」と大声で喚いている。


『この男は三名の若い女性を強姦した上で絞殺、更に死姦に及びましたが、精神鑑定の結果、心神喪失状態として無罪となりました』


 周囲からざわめきが聞こえる。

 他のボックス席には、雪姫たちと同じように仮面をつけた人々が男女問わず座っており、先のアナウンス内容に口元を覆う、腕を組んで唸るなど、「なんてヤツだ」「世間のゴミめ」「制裁を!」と非難の声を漏らしている。


『無論、このような結果は認められません。人を死に追いやった罪は、死をもって償わねばなりません。被害者は三名。その分、むごたらしく、恐怖と苦痛を最大限与える必要があります』


 アナウンスの声は、その調子こそ淡々としているが、周囲の人間たちのテンションを徐々に上げていく。


『この男は日本の法制度を悪用したのです。遺族の悲しみは、この男の死をもってそそがねばならないのです』


 眼下の戸惑う男、その後方の扉が閉まる。

 続いて、雪姫のいるボックス席真下に当たる部分の扉が開く。

 他の観客たち――という表現で合っているのか雪姫にはまだわからないが――からおぉっ!と歓声が上がる。

 そこから現れたのは、鱗に覆われた体を低い姿勢でどしどしと進む全長六メートルの肉食獣――巨大なワニだった。

 先ほどまで喚いていた男は声を失い、背中を塀に押し付けるまで後退った。


『では、ルールを説明しましょう。彼の前に現れた全長五.八メートルのイリエワニの入ってきた入口、そこに彼が辿り着けば解放となります。彼は生き延びることができるのか、ワニの餌になってしまうのか。皆さま、結末を予想しながら存分にお楽しみください』


 会場が沸いた。

 ワニが一歩を踏み出す度に、会場の興奮が増していく。

 隣に座る一条は変わらぬ微笑を湛えながら、足と腕を組んで、足元の画面を見下ろしている。


 これは冗談ではないのか?

 本当に現実なのか?

 現代の、日本で?


 雪姫はこの異常な空間に戸惑いながら、ゆっくりと歩を進める巨大ワニと、恐怖に表情を歪ませる男を交互に見やることしかできなかった。

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