第2話

 こうして彼のことを思い出し、それにふけっていると、自然彼の最期が思い出される。


 彼は頭の切れる男であったが、実生活には生きられない男であった。彼のこころは常に〝うんちく〟に向けられていたのだ。

 社会の荒波に丁寧に揉まれたあげく、彼はファッション感覚で精神障害を気取りはじめた。そしてそのすえの焼身自殺である。


 彼は遠足用のビニールシートのうえに座り、自宅の近くのスタンドから強奪してきたハイオクガソリンを被り、事を成した。


 私は彼の意思を尊重した。死体袋のような色をした〝ござ〟を敷き、そのうえで湯豆腐をつつきながら、彼の死にゆく様を横目で眺めつづけた。


 炭のようになってゆく〝田所〟。見ていて決して気持ちのいい、いいものではなかったけれど、あの時点では、そこまでこころを掻き乱されるものではなかった。思い出すたびだ。思い出すたびに、〝田所〟に、〝いい田所〟でいてほしかったという私のエゴが募ってゆくのだ。思い出のなかのいい田所までもが、灰のようにくすんでゆくようで、たまらない。愉悦ゆえつに満ちた記憶が燃えていく。炎に包まれる田所が、いい田所を犯していく。頭のなかを侵食しそのすえ固着した記憶。それは私に、〝バーベキューで使い切れなかった食材を冷凍保存するイメージ〟を抱かせた。


 薄情な言い方をすれば、田所は田所の都合で燃えたのだ。田所の精神に私が介入できた領域りょういきは、私が思うよりもずっと狭かったのだと、分かってはいる。だけれども、……私は、田所に生きていてほしかったのだ。いい田所と、いい親友でいて、いい人生をともに生きたかったのだ。だのに、彼はひとりで燃え尽きてしまった。


 そこまで考えて、私はようやく憤怒ふんぬにかられるのだった。

 私は無意識に、家のなかを競歩にせまる速度で徘徊していた。


 視界のすみに箪笥たんすの影がちらついた瞬間、私は強く床を蹴っていた。私は全力疾走の勢いのままに、右足の小指で思いきり箪笥たんすを蹴り抜いた。むろん、気分はサッカー選手である。


 痛みは、すこしも感じなかった。右足の感覚がまるでない。〝私の思いつきもそう捨てたものじゃないぞ〟とえつるうち、私は、床に転がるものに目をひかれた。


 それは私の爪だった。


 どうやら蹴った拍子に小指の爪がはがれてしまったものらしい。実際の痛みは毛ほども感じないが、目に映る光景は極めて痛々しかった。それを嫌い、私は爪の修復を試みることに決めた。私はキッチンに向かい、冷蔵庫から冷えた接着剤を取り出した。そしてそれを使い、剥がれ落ちた爪をもとの位置に丁寧に接着した。仕上げとして、はみ出た接着剤をやすりで削り取ると、爪が根元から剥がれ落ちたとは思えないほど、小指はもとの通りになっていた。


 がしかし、すぐに別の問題が浮上した。小指が痛むのである。おそらくはアドレナリンが切れたのだろう。その痛みはさして強いものではなかったが、得も言われぬ立体感をもっていた。ふたたび怒りで痛みを忘れてしまえと、田所のことを頭に浮かべてみるものの、二度目であるせいか満足に痛みを消すことができなかった。さりとてそれ以上の怒りなどあるわけもなく、私はただ歯噛みするばかりであった。


 自らへの慰めというわけじゃないけれど、私は夜食として、〝麩菓子ふがし〟を胃におさめた。体が痛かろうが、こころが穏やかでなかろうが、麩菓子ふがしだけは止めることができない。端的にいえば大好物なのである。


 そんなさなか、ふと、思い出しよろこびが起こった。そのせいなのか、痛みが幾分引いたような気がした。ふむ、なるほどね、と私は、よろこびのなかに自ら進んで没入していった。


 そのよろこびとは、自身に向けられるスマイルである。


 そのスマイルを私に与えたもう主は、私が頻繁ひんぱんに利用するコンビニエンスの、若いアルバイト店員さんである。男性である。おそらく大学生なのであろう。なんとなく私には分かるのだ。そういう鼻が利くのである。つまり、自らの肌感覚によって、相手の肌の瑞々しさを嗅ぎ分け、その質感をつぶさに受けとることができるのである。


 私は、サンドウィッチは分解して食材ごとに食す派なものだから、サンドウィッチを買うときにはかならずおはしもおねがいしていた。私はそこに、何か特別な優越感を持っていた。私だけの特別オーダーという気がして、気分が上がるのである。それはいいとして、私はいつも自分からそのオーダーをしていた。サンドウィッチをはしで食すスタイルは少数派であろうからだ。がしかし、先日のことである。彼の方から提案してくれたのである。


『おはし。ご入用ですよね。おはしです、木製のおはし


 私のことを特別なお客としてもてなしてくれたその気遣い、その労力が素直にうれしかった。それに、そのときの彼のスマイルは、すごくよかった。

 そのスマイルに私は、ある種の田所の面影を感じたのである。


 そのようにして、思い出しよろこびに背中をぞくぞくさせていると、不思議と痛みを感じないで済んだ。よろこびに身を委ね、麩菓子ふがしの表層をながめ、私の夜は更けていった。


 ふと気がつけば、私はふかふかのカーペットのうえに、膝を抱いたかっこうで横になっていた。部屋のなかは、エアコンが利きすぎて暑いくらいだった。もし仮にこのまま入眠してしまったとしても、寝冷えする心配はないだろう。あんしんだ。こころおきなく思い出しよろこびにひたれる。

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