魂し合う者たち

倉井さとり

第1話

 風のない静かな夜のことであった。――さらにこう言い添えておこう。〝かたくなに黙したような夜であった〟、と。


 座椅子に体をあずけ、爪楊枝つまようじの切っ先ではない方を子細に眺めていると、突然ある考えが生まれた。

(……なぁ私? 怒りの頂点でもって、また自らの意思で箪笥たんすの角を思いきり小指で蹴ったとしたら、はたしてそのとき私の痛覚はいつもどおりに働くのかあ? キャハッ!!)


 座りすぎによる血流の停滞のためだろう、その場に立ち上がると貧血のような快感がほんの一瞬起こった。(……ぉおおおおぉぉ……!)


 快感が引くと私はすぐさま、家のなかをぐるぐると歩きまわることを始めた。そうして――さて、私が近々感じた現在に肉薄するほどの質感をおびた怒りはなんだろうと考えてみると、さほど時間をかけることなく、「んあぁこれだぁ」というのが頭に浮かんだ。

 それは、親友のあり様についてである。それに対する私の認識、またその変化である。


 私だけの親友。彼の名は〝田所茜子たどころあかねこ〟であった。彼は去年の春、桜の咲きほこる河川敷で焼身自殺をしたのだが、それはいい。本質は別にある。

 彼という男は、この世に存在する〝うんちく〟を収集するのを無上のよろこびとしていた。彼はまるで熱い息を吐くように、何わきまえることなく、ところかまわず、自慢の〝うんちく〟を垂れながしながら生き、そのまま死へと飛び去った。


 彼の切実な様子は、見るものに次のようなイメージを湧かせる。浴槽に浮かぶ黄色いアヒルくんよろしく熱燗あつかんの入った風呂桶を温泉に浮かべ、そいつを丁寧に喉に引っかけながら湯に浸かり、〝いま、ここ〟に集中する末期の肝臓ガン患者。


 彼の〝うんちく〟ははばかるということを知らなかった。陰謀論いんぼうろんめいたもの、彼の妄想じみたもの、そういったものも多分に含まれていた。だけれども私は、彼には信頼をおいていた。たとえその〝うんちく〟が嘘偽りであろうと、彼の思考に触れるだけでそれは価値のあるものだと、私は固く信じていたのである。


 そんな彼が、最後に残した〝うんちく〟というのが、〝爪楊枝つまようじの尖っていない方、つまり角ばってる方は、パキンと折ってはし置きにするためにこの世に存在する〟であった。それは彼らしくない〝うんちく〟であった。彼はたしかにたびたび、知らずともよい〝うんちく〟を披露ひろうすることはあった。しかし、これは程度がはなはだしい。この事実を知ったところでいったい何人の人間が、爪楊枝つまようじの尖っていない方をはし置きに使うというのか。大工の青年たちよろしく、鉛筆えんぴつをそうするようにはしを耳にかけた方が、よほどおさまりがいいじゃないか。


 彼らしくない、彼の最期。……私はそれが許せなかった、いいや、気に食わないという方が正確かもしれない。

 彼はスケールの大きな男であった。けっして爪楊枝つまようじの尖っていない方がどうこうなどという、実生活にいやしくこびり付く、さまつでくだらない〝うんちく〟におさまるような男ではなかった。


 ただ最後の〝うんちく〟がそうであったというだけだ。何も気にすることはない、と頭では理解しているつもりだ。だけれど、そうしようとすればするほど、私はやるせない思いにかられていった。彼がちっぽけな男であったと、世界がそれを認めるようで、私はそれが嫌だったのだ。


 そうしたことを思い出すうちに、怒りによって私の体は勝手にうごきはじめた。右手に持っていった爪楊枝つまようじを逆手に持ち替え、そのまま、〝なるほど〟というように、左の手のひらに勢いよくふり下ろした。爪楊枝つまようじは手のひらに、三分の二ほども挿入せられただろうか。手のひらをほとんど貫通しているようだ。貫通までは、あと皮三十枚といったところかあ? キャハッ!!


 耐え難い痛みが手のひらに走る。幼い頃、ゴミ捨て場にあったビニール袋のぞんざいな置き方に激怒し、それに蹴りをいれた拍子に中に入っていたサボテンを踏みつけ、刺で足を貫通させてしまったことがあったが、それに差し迫る激痛であった。


「 ひ、ひ、ふぅ ひ、ひ、ふぅ 」と私は、唇を意識的にうごかし、そう言った。すると、痛みはきれいさっぱりなくなってしまった。痛みがないとはいえ、爪楊枝つまようじを引き抜いてみると、手のひらからは血がしたたっていた。その様子を目にしていると、名状しがたい羞恥心を感じた。その気恥ずかしさが、こそばゆくてならない。それならと私は、傷穴にセロテープを貼りつけ、手のひらを補強した。

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