わたしのマーメイド

マツ

わたしのマーメイド

しおりがないから文庫本を開いたままテーブルに伏せて、アイスコーヒーを3口飲んだあと視線を戻すと文庫本が消えていたのでびっくりした。背後から「おまた」と声がして、振り向くとシノノメさんが立っていた。肌が異様に白いので、どぎつい赤の口紅が血に見える。羽織っているダッフルコートも真っ赤だ。ファミマの壁は白いから、シノノメさん自体が血だまりのようだ。

私の文庫本はシノノメさんの細くてきれいな人差し指と中指と親指に挟まれていた。白い蛇に捕らえられた蛙のようだった。うぐいす色のブックカバーに散らばった血痕はシノノメさんの爪に塗られた赤いマニキュアだ。彼女のセンスはいつも私を不穏な気持ちにさせるが、それは胸の高鳴りと区別がつかない。

「後ろから私の本を取ったん? いつの間に? ぜんっぜん気づかんかった。忍者みたい」

「マイちゃん今日もぼーっとしてて隙だらけやな。海やったら捕食されてるよ」

「捕食」。ほかならぬシノノメさんが口にするとこの熟語は生々しい。心臓がきゅっと縮む。かすかに潮の香りがする。「海」が幻臭を生じさせたのだろうか。

「大丈夫やよ」

一瞬おびえた私の心を見透かしたように、シノノメさんがすかさず耳元に唇をよせた。貝殻を耳に当てた時の、くぐもった声、暖かい息。魔法のように不安が消る。潮の香りは幻臭ではなかった。これは彼女の体臭だ。シノノメさんはその本性を、もう香水で隠そうともしていない。

コートを脱いで文庫本と一緒に私の両膝に預けると、レジへ向かう。制服やとふつうの女子高生と変わらへんのにな。シノノメさんの後ろ姿を目で追いながら頭でそんなことを考えつつ、太ももはコートの温もりに神経を集中させていた。表地の起毛の先端までシノノメさんの体温が残っている。まるで体を預けられているみたいで嬉しかった。ふつうとかふつうじゃないとかどうでもいい。裏地に鼻を近づけるとやっぱり潮の匂いがする。

コーヒーのカップを持って戻ってくるのだろうと思っていたら、シノノメさんは手ぶらだった。そのまま右隣に腰掛けた。

「なんか急になんにも欲しくなくなった」

彼女はいつも気まぐれだ。

「youtubeの動物動画ってぜんぶ虐待やよね」

そしていつも唐突だ。

「そう?かわいいのもあるよ?」

「そのかわいいのために、人間以外の生物がどんだけ酷い目に合ってるか知ってる?」

「知らへん、何か嫌なサイト見たん?」

「いや特には。それより真冬にアイスコーヒー?」

「このファミマ暖房効きすぎててめちゃ暑いから」

店員が私たちに視線を向けたような気がした。

「出よっか?」

私が立とうとすると、「その前に」と言ってシノノメさんは上目遣いになって肩を心持ちすくめた。この所作は知っている。媚態というのだ。ふつうは男が女を誘う時にする。ね、かけて、とシノノメさんの切れ長の目が促す。イートインコーナーには私たちしかいないこと、店員が唐揚げか何かを揚げ始めたことを確かめて、シノノメさんの耳元に、氷でよく冷やした息をフーッと吹きかけてあげる。唇をすぼめて細くして、冷たいのがもっと冷たく感じられるように。シノノメさんの形の良い耳たぶの一番柔らかくて敏感そうな端を狙い定めて。

「ひゃ!」

いつもクールな切れ長の目が、ふにゃんとひしゃげている。嬉しくなった私はもう一度フーッとやってあげる。ククク、と笑ってシノノメさんが私にしなだれかかる。

「ねえ、何読んでたん?」

「江國香織」

「江國香織の何?」

「『私の彼女は頭がおかしい』」

「知らへんなぁ」

じゃあ少し読んだげる、と言って私は即興でこしらえた架空の江國香織の小説を、店員を気にしながら小声で音読した。



“髪の毛の長い子と短い子がいたら必ず短い子を好きになった。でも、生まれて初めて付き合うことになった女の子はロングヘアーだった。日曜日、最初のデートの時、チョコレートパフェを食べながら、切ってほしい、と頼んだ

「どうして?」

「ショートが好きだから」

彼女は「へー」と言って少し笑った。

月曜日、ショートボブの彼女が入ってくると、教室はざわめいた。「え、何で」「うそ。どうしたの」「でもでも似合ってるし」クラスメートに囲まれ、はは、なんでもないよと答える彼女を、私は窓際の席から、比類のないほど誇らしい気持ちで眺めていた”



「江國香織を真似るんやったらもっと言葉を一つ一つ慎重に選ばんとね。あとテンポもいまいち」

随分手厳しいコメントが返ってきた。シノノメさんは読書家の人魚だ。人間の言葉はほとんど本で覚えたのだと以前私に教えてくれた。でも今の辛辣な指摘や、怒ったような表情は、もしかすると照れなのかもしれない。

「出よっか」と今度はシノノメさんが言い、先に立ち上がって真っ赤なコートを羽織る。毒婦だ、と私は思う。本物の毒婦を見たことなんてなくて、小説ででしか知らなかったけれど、きっとシノノメさんみたいな人に違いない。彼女が本で人間を学習したように、私はシノノメさんで女を学習する。ある傾向の女。ファムファタール。しかし私は男を破滅させる前に、人魚の女に破滅させられるだろう。シノノメさんの横顔を見上げる。切れ長の目に、ショートボブが本当によく似合うな、と再確認する。私のためのショートボブ。

「人魚が髪を切るってどういうことかわかってる?」

あの日シノノメさんは、試すように、確かめるように、私に言った。

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