第5話 夢を見ることはほとんどなかった

 夏帆は夢を見ることはほとんどなかった。19時には夕食を終え、20時にはシャワーを浴び、1時間かけて丁寧に髪を乾かすと、21時にはベッドに入ってすぐ眠りにつく。その生活を繰り返すと、自然と深い眠りに着くことができるようになっていた。しかし、環境が変わると、夢を見る時がある。まさに今日はそうだった。珍しく変な夢を見た。夏帆は飛び起きるとあたりを見渡した。

 誰も部屋にいない。それどころか荷物1つさえない。夏休みだ。夏休みは閉校期間により、皆実家に帰っているのだ。

 ありがたいことに学校は事情を説明すると、夏休みの閉校期間も寮にとどまらせてくれた。誰もいない寮は快適だ。談話室でコーヒーを作ることも、ソファでお菓子を食べることも自由にできる。しかし、それも今日で終わりだった。蝉がけたたましく鳴くのを辞めた頃、どっと生徒たちが寮へと戻ってきた。


 夏帆は入学して2年目を迎えようとしていた。1年前にあまりにも色々なことがあったせいで、今年は何が起きても驚かない自信だけは持ち合わせていた。竹内夏海による嫌がらせも、さすがに夏休みに入ると無くなっていた。

 始業してそうそう夏帆は夏海とすれ違った。夏海は、いつもと同様、とても不安そうな顔をしていたが、夏帆を見るなり、ほんの一瞬にやりと笑った。

 夏海に何をされたところで、別に死ぬこともなければ、魔力を奪われることもないのだから、気にしないでおこう。夏帆はそう自分に言い聞かせた。しかし、去年見せられた陰陽道を使った呪文、あれには幾分殺気を感じた。


 色々と巻き込まれたとはいうものの、山瀬も小道も立川もいない学校は少々寂しさを感じた。去年1月に行われたJ.M.C.お披露目は、今年は従来通り9月はじめに行われる。何もかも正常に戻るというのも芸がなくて虚しい。

 そういえば去年はなぜ延期になっていたのだろう、と夏帆は考えた。9月は特に何もなかったはず、と思ったが、重大なことに気がついた。副校長、綾野文が死んでいるのだ。これはかなりJ.M.C.における重大事項だったのではないだろうか。綾野文は組織出身で、当時は副校長と、権力者。その人が亡くなって、おそらくJ.M.C.の内部はかなり荒れていたのではないだろうか。

 綾野文は本当に心筋梗塞で死んだのだろうか。葬儀は近親者のみで行われ、当日こそ騒がれたものの、翌日には皆が口を閉ざした。それに、あの日、夏帆は確かに、迷い込んだ場所の見慣れない扉の奥に綾野文を見た。そして、その扉の奥の銃声を聞いたのだ。


 夏帆たち朱雀寮の2年生は、昨年と同様クラスに集まってJ.M.C.お披露目会の様子を見ていた。会長の男性、幹部長となった城ヶ崎。幹部たち。しかし、問題はその次だった。書記の二人に竹内直人と花森美咲の二人がいたのだ。やはり顔見知りがいると見ていても気まずく感じるところがある。

 夏帆の隣には、靑木、佐々木、稲生の3人組がいた。

「これ意味あるのかな」と佐々木がお披露目を見ながら言った。

「みんな思ってるけど口にしてないのよ」と直美。

「これね、確か直人さんのお父さんの代に始まったんだよ」と青木。

「直人さん?」と直美。

「竹内直人」

「ああ、直人っていう名前なんだ。竹内先輩って言っていたら、名前あるの忘れてた。竹内先輩のお父さんって学校の理事長?」と直美。

「そう」と青木。「J.M.C.ができた当初は知名度がなかったんだよ。ある時、父親がいちご農家からのたたき上げ政治家って子が入ってきて、広報の仕方をアドバイスしたって言ってた」

「へぇ、お披露目の由来を知っているなんて、物知りな人もいるものね」と佐々木。

「いや、本人が言ってた」

「本人!?」と佐々木。

「うん」

「本人って、いちご農家の息子?」と佐々木。

「会う機会あるの!?」と直美。

「よく来てるよOGだし」

「あ、女?」と佐々木。

 夏帆は黙って自分の席へと戻った。

「てか、そんなことより、理事長ってこの学校出身だっけ?なんか違った気がして」と直美。

「おいくつだっけ?卒業アルバム見てみる?」と佐々木。

「どうやって?」

「え、お父さんの」

「どういうこと?」

「お父さんこの学校出身だから載ってるかなって」と佐々木は言った。

「それで、今年は誰がやばいの?」と稲生は佐々木の話を遮って言った。

「やばいって?」と靑木。

「去年は、山瀬先輩に目をつけられるなってわかりやすかったじゃない。今年の会長のあの男の人よく知らないんだけど」

「怖いくらい優しい人だよ。決闘は強いけど、怒らないし、穏やかだし、将来は美容師目指すって言っていたかな」

「美容師?別にいいけど、もったいない」

「うーん、あまりプライベートを話さないから何考えているのかよくわからないんだよね」

「医者とか、経営者とか、おうち継がないといけない訳ではないんだね」と直美。

「あまり話したがらない人なんだよ。ああ、それでいったら、幹部長の城ヶ崎さん、あの人はやばいよ。決闘は弱くて勉強できるだけって感じの人だけど。魔術院もすでに論文何個か書いてで卒業資格を得ていて、人間界の勉強もほぼし終わっていて、卒業後は、アメリカのハーバード大学に留学するって」

「ハーバード?」

「人間の世界の最高学府だよ。経営を学んで、人間界と魔法界の間のビジネスを復活させたいらしい。ほら、城ヶ崎グループの跡継ぎ候補だろ」

「跡継ぎ候補なの?」

「そうだよ。ただのご令嬢じゃないよ。組織の中に解析用コンピューターを持ち込んで、全学生の決闘解析を行っているって噂だよ。5年の竹内直人をマランドール選考で勝たせるために。だって直人さんがマランドールになるなら今年優勝するしかないけど、ほら、わからないだろ。今年は2年の俺らも、マランドール戦参加できるわけだから」

 夏帆は3人からの刺さるような視線を感じた。

「城ヶ崎さん、いつそんなに勉強する時間あるの」と直美。

「天才なんだよきっと」と靑木は言った。

 占い学の先生が入ってきて、一斉に生徒は席についた。占い学の先生はどこにでもいそうな中年の女性だった。

「2年生の最初はタロットですからね。机の上にイギリス版タロットカードを出してくださいね」

 皆が一斉にごそごそと机の中からタロットカードを出した。

「タロットカードには、イギリス版とフランス版が有名ですが、日本においては、イギリス版を使用しますよ」

「では早速やりましょう。まずタロットカードを混ぜて。そう好きな混ぜ方でいいのよ。それでまずはそうねぇ、自分の今日の運勢を占ってみましょう。まぜながら、深くもぐりこむように、意識を集中させて、今日の運勢はなんですか、と心に尋ねてみてください。これでいいと思ったところで一枚ひいて」

 先生は、歌うように高い声でリズム的に授業を進めていた。

 夏帆が出したカードは、世界というカードだった。

「あなたの決断次第でどちらにでも転ぶ」と先生はやはり歌うように、夏帆に問いかけた。

「あなたの中でその意味はわかる?」

 わからなかったが、夏帆はうなずいておいた。この先生を夏帆は苦手に感じた。

「あら青木君筋がいいわね」と先生が言った。「占いにおいてはカードの混ぜ方も重要よ。とても芸術的な混ぜ方をするわね」

「俺手先だけは器用なんですよね」

「このカードの意味がわかって?」

「えっと、とても苦しいことが起きる?」

「逆よ。一度教科書を開いた方がよさそうね」

 占いという授業は苦手とする生徒が多かった。特に、最高学府の本学校では理論的に思えない、という理由で避けてしまう人がいる。しかし夏帆は、占いはよくわからないものの、嫌いにはなれなかった。理論的でないものほど、理論で説明したいという欲求が生まれた。

「占いって結局相手のお悩み相談だろ?相手の心の中を読んだ方が早くない?」と青木は授業後に言っていた。


  歴史の先生は去年と替わらなかった。

「2年生からは世界史な!」と相変わらず元気が良かった。

「お題は魔女狩り!。魔女狩りっていっても男性も含まれます!」

 そういうと、魔女狩りについて書かれたプリントを配った。魔女狩りとは異教徒追い出し!、と大きな文字で書かれていた。

「まず、キリスト教が、ヨーロッパでは盛んになってきました。そこで、いわゆる、異教徒が魔法使い、といわれて追い出され、エジンバラといったスコットランド地方に追い出されます。本物の魔法使いは、宮廷に取り入ったり、うまく姿を隠して、街中に潜んでいたと言われています。立場を危ぶまれた魔法使いは強いリーダーを求めます。そこで、時のヨーク朝に敵対する形で魔王を生み出します。魔王の証といえるのは3種の至宝、呪いの指輪、勿忘草のカップ、合わせ鏡です。この三つは、ウィリアム・ピアーズによる小説『呪いの指輪』、『王妃の不倫』、『合わせ鏡』の3大悲劇と呼ばれる物語でモチーフとして使われています。はい、そこ空欄埋めて」

 プリントを見ると、大量の文字の中に、かっこで空欄になっている箇所がいくつかあった。去年と授業形態が違う。保護者から授業に関してクレームがあったとの噂もあったが、それは本当だったのだ。先生も試行錯誤しているのだろう。

「はい、それで、ヨーク朝は魔法使いと一戦交えるのだけど、突如内輪もめが始まって休戦。魔法使い側は勝った、といってるけど、人間側は人間が勝った、と思っていて」

「いえ、そうじゃないと思いますけど」と夏帆は思わず口にした。「人間側は魔法使いの存在を教えもしてないんじゃないですか」

「あはは、そう、かもしれない」と先生は苦笑いした。「とにかく!人間は、魔王をまるで悪人かのように仕立て上げて……」

 歴史の授業が相変わらずつまらないことに関しては違いなかった。

 2時間目は体育だった。体育と行っても、週に1度は、教室で保健の授業を行っていた。

「本日は薬物乱用についてです」

 浅木遥はプリントを配った。

「はい1番忘却の水薬、2番エンジェルオイルについてです。そこにプリントの穴埋めしてね」

 どうやら教師陣の中ではプリントの穴埋めが流行っているらしかった。

「まずは忘却の水薬です。皆さん、王妃の不倫って舞台見たことある?この中では、稲生さんが演劇部だっけ」

「そうです!去年の文化祭でやりました!」と稲生は言った。

「そうそう。何役だっけ?」

「私、ルーシー!」

「あらそれは大役ね。この王妃の不倫にも出てくる忘却の水薬。たぶん、4年生とかで応用薬学実験で作り方を学ぶかな。この忘却の水薬ですが、その名の通り、忘れることができる薬です。何を忘れたいかによって、調合する薬剤や、かける魔法を変えます。そのため繊細な調合技術が必要となり、はい3番、魔術師の資格を持ったうえで、該当項目に魔術院にて薬学専攻をしているもののみが市販する権利を持ちます」

浅木の授業はいつも説明が足りない。魔術師のことを夏帆はよくわからなかった。しかし、なぜか魔術師資格に関しての興味を持ってはいけない、と考えている自分が存在した。その状態で魔術師とは何か、と質問をするのは少々気が引けた。

「また、この水薬にはカウンセリングが必須条件となっています。飲んだものは、4番、3日ほど眠り続けます。これは、脳の細胞に記憶されたプログラムを完全に消去するために必要な時間です。詳しくはあやかし学で習ってね。消去されている間は、5番、夢を見続ける、と言われています。この夢に関しても学者によってかなり意見がわかれるのだけど、走馬灯を見ているようだとも言われているかな。起きた時、どちらが現実かわからなくなるクライアントも少なからずいるらしい。次はエンジェルオイルね」

 エンジェルオイルは脳を活性化し、判断力の向上を促す薬だった。極限ともいえる状態にもっていける一方で、反動も強く、頻繁に使用すると依存性が高まる。市販はされているものの、こちらも魔術師による利用管理が義務づけられている。もっとも、25%という高い税金がかけられており、庶民には手が出しづらい。

 授業が終わった。

「示し合わせたかのように歴史とリンクした授業だったな」と青木が直美に言った。「俺魔術師取りたいんだよね」

「あんたには無理でしょ」と佐々木。

「いや、俺一応次席だからね?」

「学年首席でさえ取れるか取れないかっていう資格でしょ」と佐々木。「高橋さんは取れそうだけどね」

 夏帆はその会話を聞いていないふりをしていたが、やはり言葉に鋭く刺さるようなトゲを感じた。

「ねぇ恋は魔術師って知ってる?」と直美が言った。

「何それ」と佐々木は興味津々で言った。

「人間の作家によるスペインのバレエで、昔バレエを習っていた時に一度私も踊ったことがあるの。あれさ、絶対魔法使い絡んでると思うの。まず曲の演奏が難しすぎて、魔法使いくらいしか弾けないような曲なのよ」

「え、どんな曲?」

 直美はがさごそと音を立てると、突然大音量のピアノの音が部屋に響き渡った。

 思わず夏帆は振り返った。直美は、何か板状のものから音楽を鳴らしていた。その板状の上には、Danza ritual del fuegoの文字が浮かび上がっている。

「何それ」と青木が言った。

「え、スマートフォン」

「スマートフォン?」

「人間はみんな使ってるよ」と直美が言った。

「知ってるそれ」と佐々木が言った。

「え、最新のやつじゃん。領域内でも通信できるように改良されて、文字が浮かびあがったりするような魔法がかけられているって」

 今更、夏帆は気が付いた。なぜ皆人間界について詳しいのだろう。そしてなぜ人間の文化を楽しむのだろう。別に人間に嫌悪感があるわけではなかったが、その文化を楽しみたいと思うほど好きというわけではなかった。どちらかというと無関心に近い。

「パパが買ってくれたんだ」と直美は言った。

「それでね、ウィリアム・ピアーズの舞台とすごく話の内容が似ているの。恋は魔術師、夫の亡霊に悩む女性が、火の踊りで旦那を呼び出し、最後は火の中に封印される話なの。この火の踊りって、王妃の不倫の中でも除霊の儀式のシーンがある。それに封印って合わせ鏡でも悪魔が鏡に最後封印されるでしょ」

「それだけ?」と佐々木は興味なさそうに笑った。

「それは、3大悲劇のオマージュというよりは、潜在意識ってやつじゃない?」と青木は言った。なんか難しすぎてよくわかってないんだけど、俺も陰陽道で使うよ。式神を出すときに、潜在意識に語りかけるんだよ」

「潜在意識?」

「ユングの潜在意識。スイスの人間。魔法使いも含めて人には共通認識が存在するっていう説だよ。世界には、小説1つとっても、似たような話たくさんあるだろ。見るなの法則とかああいうの。陰陽道を理論化して一つの科目にするときに、土御門なんとかさんがユングの仮説を利用したってこの間授業で習った」

「なんでも陰陽道の話にしないで」と直美が言った。

 陰陽道は陰陽師の資格がほしい人が追加科目として習うことができた。しかし、別料金が発生するうえに、仕事で役立つわけでもなく、夏帆は受講していなかった。


 夜中、夏帆は寮内にいくぶん違和感があり、部屋を出た。部屋に帰りたい、眠りに就きたい、そういった考えは全く浮かばなかった。1階の中庭で、秋風を感じながら椅子に座っていたが、それもしばらくすると飽きてきて、一階の廊下を眠たくなるまで、ぐるぐると歩き回っていた。

「なんでしょう」夏帆はこらえきれずに叫んだ。

「あら、私がわかった?」姿を現したのは竹内夏海だった。

「わかるも何も隠そうとしてないですよね?それで、要件はなんです?」

「私、あなたの情報をまた一つ仕入れたの」

「そうですか」

 夏帆は寮に帰ろうと歩きだした。

「待って、待って、あなた、コーヒーに砂糖2個入れるでしょ」

 その言葉を聴いて、夏帆はピタリとあゆみを止めた。

「察しはいいようね」と夏海は言った。

 以前夏帆は類に言われたことがある。共産主義のロシアでは、権力者の批判を禁じている。逆らうものの摘発のため、多くの秘密警察やスパイがいるのだと。そしてそのスパイは、よく『コーヒーに入れる砂糖の数』を他人に指摘する。その意味は、あなたのことをすべて知っていますよ、だ。

「あなた、奨学金をもらっているそうね」

「そうですけど、それが何か」

「奨学生が将来どうなっているのか、あなたは知らないでしょう」

「お話の意味が解りかねます」

「奨学生は将来スパイになるのよ」

 沈黙の時間が続いた。

「それ、どういうことですか?」

「国の血税を使った人間は、ゆくゆくは政府の犬とならなくてはならないのよ」

「えっ……」夏帆は理解しきれなかった。

「あたりまえでしょう。ただで学費を出すわけないじゃない。院長さんがおっしゃらなかったかしら?あの方のことだもの。きっとあなたには言わないわね。最悪、受験辞めるなんて言わらたら困るもの。欲に目がくらんだのよ。日本魔法魔術学校合格者1名という欲に。もし、私が政府の役人ならこう思うわ。後々スパイになるような人間に強くなってはほしくないって」夏海はいつもと打って変わったかのように流暢に話した。

「どういうことですか?」

「J.M.C.出身というのは社会に出て大きな箔が付くのよ。官僚が孤児院出身者程度のような奴に負けるなんてプライドが許さないわ。言っておくけど、官僚のほとんどはJ.M.C.出身。あんたなんかに入られて、後々権力でも持たれたらしゃれにならないでしょ?」

「あまりにあなたの話が論理的でなく、何をおっしゃりたいのか・・・・・・」

「もうわかっているはずよ」夏海は夏帆の胸をぐさりと刺すように言った。夏帆はだんだんと体が震えるのを感じた。

「私は政府に利用されるだけの駒になるため、今ここにいるということですか」

「賢いわね」と夏海はにやりと笑って言った。「あなたは権力など持てない。社会に出ても出世は見込めない」

「出世したいとは思わない」

「さあ、どうだか。人の欲とは、底知れないものよ。何がきっかけで、何を得たくなるかわからないもの。でもね、あなたにはもう、職業選択の自由さえもない」

「特になりたい職業もありませんけど」

「時期にその辛さがわかるわよ」

 竹内夏海はふわっと夏帆に近づき、耳元でささやいた。

「院長先生に真偽を確かめてもいいのでは。今あの人は領域内にいる。花森病院で入院中よ。危篤状態と聞いているわ。今日は私、それをあなたに伝えに来たの」

 そういうと夏海はどこやらへと消えていった。


 日本魔法魔術学校の受験を決意したのは5年前のことだった。

 OBの類は既に社会人となり出版社で働いていたが、土日になると孤児院にやってきて、勉強を教えてくれていた。

「なっちゃんの学力なら、もしかしたら日本魔法魔術学校も受かるんじゃないかな」と類は、食堂で勉強をしていた夏帆に唐突に言った。

「……」

「日本で一番頭の良い人たちが行く学校だよ。こんなに勉強できるのに進学しないのもったいない気がするな」

 突然、食堂で泣き出した子がいた。孤児院は当時の夏帆にとって、この世の地獄ともいえる場所だった。

「院長先生に相談しにいきなよ」類はそういうと、泣く子供をあやしに行った。

 夏帆はこくりとうなずくと食堂を出た。

 夏帆は院長室に行くのが嫌いだった。単純に怖いからだ。何かにつけてヒステリックに怒る。物心がついた頃からすでにそうだった。それに院長室に行くとなぜか毎度体調が悪くなる。半日は治らないほどだ。それが嫌でしょうがなかった。

 院長室は孤児院の最上階にあった。最上階は不自然に高級な絨毯が敷かれている。夏帆は木でできた重たい扉を開いた。

「なぜノックもしないのですか!」という院長の言葉に夏帆は固まった。

 部屋には、シャンデリアにアンティーク家具、それに大きな額縁。テレビからは通貨統一の決定を速報している。テレビの映像が国会に切り替わると、議長の竹内義人が『魔法領域での流通通貨の廃止をここに宣言し、人間界同様の円を使用する』と高らかに述べている。

 また歴史で覚えなくてはならないことが増えた、と夏帆が思っていると、突然、目覚まし時計を投げつけられた。

「もうあなたのせいで!」と院長は叫んだ後、我に返ったようだった。

「要件はなんですか?」と院長はまだ整わない息遣いで言った。

「あの、私、日本魔法魔術学校に進学したいです」と夏帆はたどたどしい声で言った。院長の顔がみるみるうちに曇るのがわかった。

 そこへ子供をあやし終えた類が入ってきた。

「いんちょーせんせ!ってあれ、この学位記、魔術師とれたんですか?」

「そうよ」

「おめでとうございます!」

「苦労をさせられてきたかいがあったわ」と院長が言った。「ねぇ高橋さん。あなたたちには本当に」

 夏帆はこくりとうなずいた。

 院長は手に持っていた太宰治の斜陽を机の上に置くと、レコードをかけた。

「好きですね。パガニーニの24のカプリース」と類が言った。

「特にこの人のバイオリンが最高なのよ」と院長。「心を落ち着かせる時に最適」

「これ、バイオリンなの?」と夏帆は類に小声で聞いた。「ラッパのように聞こえる」

「ラッパ?」と類が言った。院長も夏帆を探るような目で見た。

「なっちゃん、もしかしてだけど、魔力を敏感に感じ取るタイプなのかな」

「高橋さん下がりなさい」

 院長先生の冷たく刺さるような言葉に、夏帆は再び身を震わせた。

 5年経った今ならわかる。当時はとても不景気で、院長も焦っていたのだと。土地の安い領域外ともいえど、施設の子たちを守り切れるか不安でいっぱいだったのだと。私には知りえない、院長先生の過去があるのだと。

 夏帆は中庭のベンチに座ると頭を抱え込んだ。そうだとしても、それは私を傷つけて言い理由になるのだろうか。死に際の患者は人が優しくなるという。今、お見舞いにいけば、私は院長先生を許してしまうのではないだろうか。院長先生の耳元で怒鳴ってしまうのではないだろうか。夏帆は心が苦しかった。

 夏帆はベンチから立つと、校内を歩き回り、疲れ切ったところで、寮へと帰った。夏帆は談話室のソファに座り込み、長い夜を過ごした。朝方になって、竹内夏海が帰ってきた。

竹内夏海は、夏帆の目をじっと見つめると、何も言わずに寝室へと帰っていった。夏海の頬に切り傷があることが夏帆は気になった。

 この日の未明に院長が息を引き取っていたことを夏帆が知ったのは、それから数か月後。雑誌に魔術師追悼特集が組まれていたことからだった。


 魔法使い版最後の斜陽族。領域外の孤児院ひまわりハウス経営者。『長い夢を見ていたかのようだった』これが彼女の最期の言葉だった、と施設関係者は話した。彼女の人生は壮絶だった。日本魔法魔術学校を首席で卒業し、魔術院に進学。経済学を専攻した彼女は政府の財務官僚として順調に出世し、将来、女性初の日本中央銀行総裁になるのではないかと噂された。その折に日本中央銀行副総裁を努めていた父親である松岡智宏氏が急死。同時に人間界におけるバブル景気の際に多額の借金を抱えていたことが発覚する。領域内の土地を売り、領域外で生活することを余儀なくされた。この一連の騒動は当時大きな関心を集め、一時は対立していた綾野副議長による陰謀論までささやかれた。

 しかし、そんな彼女が最期に口にした言葉は、「夢を見ていたかのようだった」孤児院で子供たちに囲まれ、幸せな日々を過ごしていたからこそであるに違いない。


夢を見ていた?


類には失礼だが、雑誌というものはここまで憶測で記事を書けるものなのか、と夏帆は憤った。

 



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