社畜が溺愛スローライフを手に入れるまで

たまこ

第1話



 ぱちり、と目を覚ますと見慣れない真っ白な天井と点滴が見えた。



 倒れて目を覚ましたら病院なんてドラマみたい、と心の中で苦笑する。体が上手く動かせず、視線をキョロキョロさせるが時間も分からない。まぁ、いいか。



 はぁーっと長い息を吐き出した。





「もう、無理だなぁ」


 自分の言葉が重く、ゆっくり、ゆっくり、落ちていくような感覚がある。



 辞めよう、でなければ死んでしまう。








 私、加藤瑞樹は、Webデザイナーとして働いて12年になる。恐ろしい程、激務で朝早くから夜遅くまで働いている。家にいるより職場にいる時間の方がずっと長く、休日出勤は当たり前、残業ありきの業務を続けていた。



 ずっと憧れていた仕事で、専門学校を卒業してから今の会社に入り、ずっとずっと働いてきた。激務が嫌になることもあったが、それよりこの仕事が好きだった。大好きだった。だから続けてこれた。生きがいだった。





 だけど、病室のベッドで目を覚まして気付いた。いや、本当は以前から気付いていて、見て見ぬふりしていた。


 こんなに体がボロボロになって、楽しいこともない、大切な人もいない、そんな人生でいいのか。このままでは寿命がどんどん削られてしまう。体も、心も、ずいぶん前から悲鳴を上げていた。


 そして、今日、私の心のバランスを取っていた細い紐が、ブツリと切れてしまった。





 大丈夫。32歳で、趣味も彼氏も何にも無いけど。今から職まで無くなるけど。




 大丈夫。今から始めよう。生きているんだから。




◇◇◇






 さて、今から始めよう、とは言ったものの、どうしましょう。



 まず、病院では精密検査が行われ、倒れたのは過労が原因だが、その他にも病気が見つかった。倒れたおかげで見つかった、と喜ぶべきか、倒れるほど働いたせいで病気になったと怒るべきか。




 主治医には働きすぎを散々叱られ、忙しさから健康診断も全く受けていないことを散々叱られ、医師が患者にこれほど怒るのかと驚いた程だった。



 そして、見つかった病気の治療のことも考え、退職を勧められた。主治医がご丁寧に過労が原因だと診断書に書いてくれたおかげで、退職はとてもスムーズだった。





 また、倒れた時、私は野菜直売所で買い物中だった。看護師さんの話では、たまたま居合わせた方が、救急車を呼んだり、病院まで付き添ったり、色々と助けてくれたらしい。看護師さんは、その方の名前や連絡先を聞いてくれたそうだが、遠慮され教えてもらえなかったようだ。




 退院も退職も出来たことだし、とりあえず、野菜直売所へ行って、お詫びとお礼をしてこよう。







 野菜直売所の職員の方々は、私のお詫びとお礼を快く受け入れてくれ、体調まで気遣ってくれた。快気祝いだと言って、たくさんの野菜をプレゼントしてくれた。一生、ここに通おう、と心の中でこっそり決意する。




「私が倒れた時に、助けてくれた方がいると聞いて…どなたか分かりませんか?お礼に行きたいんです」




「あぁ、あれはマサちゃんじゃなかったか?」


 他の職員さんもうんうんと、頷いている。マサちゃん、川上雅也さんは農家をしている40代半ばの男性で、私が倒れた日は野菜の納品に来ていたらしい。体格が良く見た目が怖い、とか、無口でほとんど話さない、無表情だから何を考えてるか分からない、とか、余計な情報もちらほら聞かされた。



「今日はここにいるはずだよ、行ってごらん」



 手渡されたチラシには『手芸教室 生徒募集!』と大きく書かれていた。





◇◇◇




 教えてもらったチラシを手に、市民センターの一室で行っている手芸教室を覗く。教室は終わったようで片付け作業をしていた。


「あの~…すみませんが…」


「あら!若いお客さん!ごめんなさい、今日はもう終わりで…せっかく来てくれたのに」


 年配の女性が明るく対応してくれる。優しげで感じの良い方だ。


「あ、違うんです。私、川上雅也さんに用事があって伺ったんです。いらっしゃいますか?」


 すると、奥のパーテーションの方からゆっくりと男性が顔を出した。


「何か?」


 眉間に皺を寄せ、不機嫌そうな表情で近付いてくる。身長も高く、筋肉質な体型で強面なので威圧感がある。この人が、川上さんか。農業をされているからか、肌は焼けていて、40代半ばと聞いていたけどもう少し若く見える。


「急にお邪魔して申し訳ありません。先日、野菜直売所で助けていただいた者です。どうしてもお礼を言いたくて、野菜直売所の方にこちらにいらっしゃると聞いて伺いました。あの時は本当にありがとうございました!」


 ガバっと頭を下げる私に、川上さんは少し戸惑っている様子だ。持ってきた菓子折りを渡そうとするが、遠慮されてしまう。



「雅也!こんな時は、有り難く頂くんだよ!あんたがもらわないと、この子は余計困ってしまうだろう。善意は有り難く受け取るんだよ!」


 女性に一喝され、川上さんは気まずそうに受け取ってくれた。


「まさか、雅也が人助けなんてね。明日は台風だね」


 ニヤリと笑う女性と川上さんを見比べていると


「雅也の母、川上悦子です。わざわざお礼に来てくれてありがとうね」


 と自己紹介された。そして、週二回、ここで手芸教室をしていること、息子の雅也さんには送迎や会場設営、片付けをお願いしていること、生徒さんが来てからの時間になると雅也さんは野菜の納品をしたり、納品しているお店を回ったりしていること、など矢継ぎ早に教えてくれた。





「体は?」


 悦子さんの話がようやく落ち着くと、雅也さんがぽつりと聞いてきた。



「いや~倒れた原因は過労だったんですが、別の病気も見つかってしまって」


 雅也さんが怒った表情でこちらを見ている。




「過労って?」



 私は、病気のこと、仕事で働きすぎていたこと、今は退職できたこと、外で働くのは厳しいので在宅ワークの準備をしていること、など初対面の方を相手にペラペラ話してしまった。雅也さんの顔が怖かったせいでもあるが、仕事を辞めてから話し相手もおらず話したい欲求が強くなっていたせいかもしれない。




「瑞樹さん、大変だったわね。お仕事辞められて良かったわ。そうだ!もし体調が良くて、外に出たい時は良かったらここに遊びに来てちょうだい。参加費もかからないし!」


 悦子さんの提案にすぐ「ぜひ!お願いします!」と答えていたのは、やっぱり、話し相手を欲しているせいかもしれない。



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