第56話 アリア

(どうしてこんなことになったのかしら……)


夫や使用人から冷たい視線を向けられる中、アリアはこれまでもずっと自問し続けてきた言葉を胸の中で繰り返した。


血の繋がった娘への誹謗中傷を行う母親だと非難され、最悪離縁されるかもしれない。それでも黙っているわけにはいかなかった。


(これ以上あの子が恐ろしい罪を犯す前に止めてあげたい。どんなに変わってしまったとしてもエミリアは私の可愛い娘だもの)


目を閉じれば無邪気に笑う幼いエミリアの姿が瞼によぎった。



一人娘ということもあり、夫はもちろんアリアもエミリアに惜しみない愛情を注いだ。贅沢な生活とまではいかなかったが、エミリアが望む物は出来るだけ与え、エミリアの願いも大抵のことは叶えてあげていた。

だからと言って決して我儘な娘に育ったわけでもなく、人見知りなところがあるが植物が好きな優しい子だったのだ。


エミリアが6歳の時、突然孤児だという子供を連れて帰ってきた。空腹な子供に食事を与えたいという優しさに胸を打たれたが、全ての子供たちに手を差し伸べるわけにはいかない。

幼い心を傷付けないように、優しく諭そうとすればエミリアは不思議そうな口調で答えた。


「お母様、ジェイは私の将来の護衛になるのよ。だからこれからもずっと一緒にいるの」


当然のように言われて面食らったものの、夫と相談して結局受け入れることにしては、エミリアが懐いているばかりではなく、ジェイという名の子供は利発そうな顔つきをしていた。生育環境から年齢よりも大人びて見えたが、エミリアを見る目は柔らかい。

娘を大切に護ってくれる侍従兼護衛として、最終的にジェイを迎え入れることに決めた。


(でも、もしかしてそれが間違いだったのかもしれないわ)


二人は兄妹のようにどこに行くのも一緒だった。エミリアはいつもジェイの傍にいたがったし、他の使用人たちとともにその様子を微笑ましく見守ったものだ。


だがいつしかジェイは他の使用人と距離を取るようになった。周囲が気遣って言葉を掛けるが、最小限の会話だけしか交わさなくなり、トーマスにも苦言を呈される姿をよく見るようになった。

そんな中エミリアだけは変わらずにジェイを慕い、ジェイもエミリアの言うことは素直に聞く。


「ジェイはいい子だわ。ずっと私と一緒にいてくれると約束してくれたの」


満面の笑みを浮かべるエミリアに、少し距離を置いたほうが良いのではという話も立ち消えてしまった。

あの時決断をしていたのなら、何か変わっていたのだろうか。


(いつからかジェイが倦んだような暗い瞳を浮かべていることに気づいていたのに、私は何もしなかった。だからこれは罰のようなもの)


儚く消えてしまいそうな病弱の令嬢の姿にまた胸が締め付けられる。



「ふふ、クラリス様は何も心配なさらないで。だってあの方が一番大切に想っているのはクラリス様ですもの」

「そんな、わたくしなんて。でも………もしあの方がそんな風に想ってくださるなら、どんなに幸せなことでしょう」


そんな可愛らしい恋愛相談が聞こえてきて、アリアは開きかけた口を閉じた。人見知りだった娘が学園に通うようになって初めてできた友人なのだ。迎えが来たことを伝えるつもりだったが、御者にはもう少し待ってもらうよう伝えたほうが良いかもしれない。


「大丈夫ですわ。私が良い方法を教えてあげますから。恋する乙女の邪魔をする方はご退場いただきましょうね」

そんな不穏な言葉に踵を返そうとしたアリアは、思わず足を止めた。


「……上手くいくかしら。それにやっぱりあの方に嫌われてしまうのではなくて?」

「うふふ、大丈夫ですわ。でも私がお伝えしたことは誰にも言ってはいけませんわよ?もし約束を破ったら、大切な物を失ってしまうかもしれませんから」


エミリアの声は朗らかだったが、アリアは何故かぞくりとした。それが恐怖からくるものだと気づいて、アリアはますます動揺した。


「あら、お母様?」

「――っ!」


いつの間にかエミリアが傍に立っていて、いつもと同じような笑みを浮かべている。そのことが妙に恐ろしく感じたものの、娘に対してそんな態度を出してはいけないとアリアは自分に強く言い聞かせた。


「……お迎えの馬車が到着したから呼びに来たの」

どこか言い訳じみた言葉に、エミリアは微笑んでアリアに礼を言い、クラリスを馬車まで送り届けた。


気のせいだったのだろう、そう思い込もうとするのに心臓がうるさいほど音を立てていたことを覚えている。そしてその日から幸せな日々が徐々に壊れていくのをアリアは為すすべもなく見ていることしか出来なかった。


「アリア、エミリアに折檻を与えているそうだな」


深刻な表情の夫がそう告げた時、アリアは身に覚えのない内容にぽかんとした表情を浮かべていたはずだ。だが夫にしてみれば、アリアがしらを切っているように見えたのだろう。その結果、娘を溺愛している夫の逆鱗に触れてしまった。


「躾と称して過分な暴力を振るうなど、恥ずかしいと思わないのか。エミリアはそれでもお前を慕っているというのに」

「お待ちください、旦那様。何か誤解があるようです。わたくしはエミリアにそのようなことを――」

「あの子はずっとお前を庇っていたのに、そうやって言い訳しかできないのか!」


かみ合わない話に困惑しながらも、少しずつ情報を整理していけば、思わぬ状況にさらに混乱するしかなかった。

まずは侍女がエミリアの身体に強くつねったような痣に気づいたそうだ。訊ねればエミリアは頑なに口を閉ざしたが、アリアの部屋を訪れた後に痣や腫れが増えていることを知り、トーマス経由で夫の耳にも入ったらしい。


「エミリアにいくら尋ねても、あの子は自分を責めるような言葉ばかり口にする――誰だ、取り込み中だから後にしてくれ」

ノックの音に夫がそう返すと、ドアが開いてエミリアが入ってきた。


「お父様、お母様を虐めないで!私、お母様に認めていただけるようにもっと頑張るから」

何が起こっているのか分からず一人取り残されたアリアをよそに、夫は痛ましい表情でエミリアを抱きしめる。


「お母様、私頑張って自慢の娘になるから、嫌わないでくれますか?」

涙を浮かべたエミリアが声を震わせながらアリアを見つめている。


「まあ、エミリアを嫌う訳がないわ。でもこれは一体どういう――」


言い終わらないうちにエミリアが堪りかねたように、アリアにしがみついてきた。幼い子供のような仕草だが大切な娘を抱きしめ返した時、耳元に落ちた声に冷水を浴びせられたようにぞっとした。


「もう二度と盗み聞きなんてしちゃ駄目よ、お母様?」


呆然とするアリアにエミリアはいつものように無邪気に微笑んでいた。それからアリアが子爵家で孤立することになるまで、そう時間はかからなかった。



「トルイユ子爵夫人」


呼び掛けにはっと顔を上げると、カディオ伯爵の姿があった。娘のクラリスが病状悪化のため領地に戻ったことは聞いていたが、そこにエミリアの関与があったとアリアは確信している。


「はい、いかがなさいましたか?」

罪悪感を隠しながら、返答するとカディオ伯爵は真剣な表情のまま続けた。


「ご息女の部屋を拝見しても?こちらの品はエミリア嬢が作ったものだと使用人が話していました」


その手にあったのは小さなポプリで、エミリアが使用人たちに配っており、アリアもプレゼントされて大切に机の中に保管している。

ちらりと夫の方を見ると、苦虫を噛み潰したような顔をしているが、拒否すると言う選択肢はなさそうだ。


「こちらでございます」


どのみちここにいても居たたまれない気持ちなのは同じである。

せめてもの矜持でアリアは背筋をしっかり伸ばして、カディオ伯爵をエミリアの部屋に案内した。

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