第44話 胸騒ぎ

「アネット嬢!」


追いかけようとしたリシャールだが、左腕に重みが掛かり引き留められた。振り返ればエミリアが両手でリシャールの腕を抱え、必死な表情を浮かべている。


「お待ちください、リシャール様!アネット様はきっと混乱しておいでですわ。落ち着く時間が必要でしょうから、今はそっとしてあげてください」


アネットのためだと訴えられると後を追うことに躊躇いが生じる。


(だが、俺は間違えた……)


取り返しがつかないほどの失敗を犯したのだとすぐに分かった。アネットの瞳が痛みを堪えるように歪み、その次の瞬間には今まで見たことがないほどの怒りと拒絶の色に変わったのだ。あれほど苛烈な眼差しを向けられたのは初めてだった。


間違えたのはあの問いかけだけではない。いつからか少しずつずれていっているような感覚を覚えていたが、それをきちんと考察しなかった結果が今の事態を引き起こしたように思えてくる。


フェルナンがアネットの婚約者に立候補してから、少しずつ距離を置こうとしながらも視界に入ればつい目が追いかけてしまうのだ。彼女がクロエに向ける慈愛にも似た眼差しや、勉強中の真剣な表情を見つめては何度視線を逸らしただろう。


「リシャール様、アネット様のことは私にお任せください。このような場合は女性同士のほうが話しやすいですもの。リシャール様のお気遣いはアネット様ならきっと分かってくださいますわ」


(アネット嬢は確かにエミリア嬢のことを友人と呼んでいたが――)


気遣うように告げるエミリアを訝しむ気持ちが湧いたが、リシャールは無言で頷いて了承の意を示した。




「気に入らない子爵令嬢を打擲したんですって」

「普段から高慢に振舞っていたそうだけど、暴力まで振るうなんて第二王子殿下の婚約者としての自覚が足りないんじゃないかしら」


一晩であっという間に広まった噂は真実と嘘が交じり合いながら、あちらこちらで囁かれている。寮から教室までの僅かな距離でも、クロエの方を意味ありげに窺いながら声を潜めて語り合う貴族子女たちの姿に、早くも心が折れそうだ。


(アネットに大丈夫と言ったからにはこの程度でへこたれてはいけないわ)


そう思うと背筋が伸びるが、教室の扉に手を掛けた時には一瞬の躊躇いが生じた。自分の取った行動が原因なのだから、誰に何を言われても受け入れるしかない。だがセルジュの反応を見るのが怖かった。


教室に入ると一斉に自分に視線が向けられたことを感じながら、クロエはいつもと同じ態度で自分の席へと向かう。


「おはよう、クロエ」

「……おはようございます、セルジュ様」

いつもと変わらないセルジュの笑みにほっとしながらも、心の片隅に疑問が浮かぶ。


(わたくしがしたことをご存知ないはずがないのに、どうしていつも通りなのかしら……)


クロエが内心戸惑いを覚えていると、数人の足音が近づいてくる音がした。振り向けばロザリーがクロエを見据えながら、数人の令嬢を引き連れてクロエの前に立ちはだかる。

これから何が起こるのか予想できたクロエはひとまずこの場にアネットがいないことに安堵した。


「クロエ様、同じ高位貴族として貴女の行動を見過ごすわけにはいきませんわ」


大げさなほどに深い溜息を吐きながら、クロエを見つめる瞳には優越感が浮かんでいる。自分の行いは確かに褒められたことではないのだからと、クロエは黙って続きを待った。


「その場にいたお友達が教えてくれましたわ。無抵抗の子爵令嬢に暴力を振るって謝罪をするどころか、脅迫までするなんて恥ずかしいと思いませんの?貴女の言動はセルジュ殿下の評判にも影響を与えるのですよ!」


無言を貫くクロエに苛立ったのか、ロザリーの声が徐々に尖り、こちらを睨みつけている。反論をすれば逆効果だと分かっているからだが、迂闊な発言で言質を取られるのを避けるためでもあった。

だがロザリーは執拗だったし、クロエの弱点も把握済みだった。


「妹が妹なら姉も姉ね。一緒に育つと品性まで似てくるのかしら」


明らかに挑発だと分かっているが、クロエは思わず自分の手を握りしめる。自分のせいでアネットが侮辱されることが悔しくてたまらない。


からりと扉が開く音がして視線を向けると、アネットの姿がありその表情が瞬く間に険しくなっていく。こちらへと足を向けたアネットをレアとフルールが二人で引き留めている。

彼女たちには昨晩のうちに手紙を書き、しばらく距離をおくこととアネットのことを頼んでいた。


返事を書く時間がなかったため、今朝も何か言いたそうな顔をしていたが、クロエの願いを汲み取って話しかけてくることはなかった。

セルジュの婚約者という立場上、状況によっていは学園外にも影響を及ぼし政治的な駆け引きも絡んでくるのだ。妹だけでなく友人たちも巻き込んでしまっては、彼女たちの実家にも申し訳が立たない。


「わたくしたちが一緒についていてあげますから、トルイユ子爵令嬢に謝罪に参りましょう」


親切ごかした提案はクロエが下位貴族に頭を下げるところを見たいだけなのだろう。黙ったままのクロエに怒りの色がよぎるが、始業時間を知らせる鐘が鳴った。


ひとまず引き下がったロザリーだが、恐らくはしばらくこの状態が続くことは容易に想像できる。内心溜息を吐いたクロエだったが、そんなことよりも気に掛かるのは一つ前の席に座っている存在だった。


いつもならこのような場合クロエを守るためにやんわりと牽制するセルジュが一度もこちらに視線を向けず、何も言わなかったのだ。


それがどういう意味か考えることが怖くて、クロエは授業に集中することで嫌な想像を打ち消した。

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