第43話 自覚
その日アネットはいつもより早く部屋を出て、学園へと向かった。
(お姉様から何もしないように言われたけど、状況把握だけはしておかないと)
あれからアネットがしつこい程に訊ねてもクロエは黙って首を振り、当初の意見を変えず自分と距離を置くように諭し続けたのだ。一向に譲らない姿勢に、アネットはクロエの意思を尊重すべく折れざるを得なかった。
(まずはエミリア様本人に話を聞いてみなくちゃ)
クロエが理由を告げないのは、エミリアがアネットの友人であることを気にしているのかもしれない。
自分の教室を通り過ぎエミリアの教室に向かおうとしていたアネットだが、窓ガラスの向こうにいるエミリアとリシャールに気づき足を止める。
(何で……リシャール様がエミリア様と一緒にいるの?)
女性と一定の距離を置いているはずのリシャールがエミリアに向かい合って何かを話している。その距離の近さに親密さを感じ取ってアネットは呆然とその様子を見つめていた。
そんな視線に気づいたのか、ふとリシャールが顔を上げるとその表情に驚きと戸惑いが浮かんでいるようだった。
覗き見していたような気まずさがあったが、自分の教室に入るのはおかしなことでもないし、エミリアに話を聞かなければならない。正当な理由があることを心の中で確認してアネットは意識して笑顔を浮かべて、二人の元へと向かった。
「エミリア様、リシャール様、おはようございます」
「ああ、おはよう」
どこか気まずそうな表情で返すリシャールだったが、エミリアはというと眉を下げて困ったような表情を崩さない。それどころかリシャールの袖を引き、不安そうに呼び掛ける。
「……リシャール様」
それはとても不快で苛立ちで胸の奥がぐっと詰まる。そんな自分に気づいたと同時にリシャールが真剣な表情で口を開いた。
「アネット嬢、もし違っていたら言ってほしいんだが、君は——幼少の頃にクロエ嬢から嫌がらせを受けていたのか?」
目を瞠ったのは驚きよりも、何故そんなことを尋ねられるのか分からなかったからだ。面識がほとんどない他の貴族子女ではなく、友人だと思っていたリシャールからの言葉に色々な感情が押し寄せて言葉にならない。
そんなアネットを見てリシャールの表情に同情の色が宿り、アネットはようやく自失状態から抜け出した。
「誰がそんな酷いことを?お姉様を貶める発言をしている方をご存知でしたら教えていただきたいですわ」
怒りを含んだ声にエミリアが反応したのをアネットは見逃さなかった。
「エミリア様、お心当たりがあるようですが、どういうことなのでしょう?」
「アネット嬢、落ち着いてくれ」
アネットが一歩踏み出すとリシャールがエミリアを庇うように間に入った。
(馬鹿なアネット……)
自嘲するように胸の中で呟きながら、アネットは小さく息を吐く。全ては自分の愚かさが招いたことならば、自業自得というものだ。そして器用ではない自分が取れる最善の行動は、たった一つの大切な物を優先することだけだった。
「私の大切なお姉様を侮辱するのなら、私は誰であっても容赦しません。それがナビエ公爵令息、貴方であってもです」
冷やかな口調はアネットの意地であり、選ばなかったものへの未練を切り捨てるためだ。エミリアはリシャールの背後に隠れていたが、アネットと目が合うと怯えたように顔を伏せた。
先ほどのリシャールの問いかけがエミリア自身の発言かどうか分からないが、それでもアネットに何の弁解もしないのであれば、後ろめたいことがあるからだろう。
(そもそも私に近づいたのも、別の目的があったのかもしれないわ)
とめどなく彷徨う思考を振り払いながら、アネットは教室から出て行った。
これ以上二人と同じ空間にいれば、醜態を晒してしまうような気がしたからだ。背後でリシャールの呼び止める声やエミリアが何かを必死で訴える声が聞こえたが、アネットは振り返らなかった。
当てもなく歩いていると、いつの間にか中庭に辿りついてしまった。人気がなく朝の瑞々しい草花の香りがささくれた気持ちを落ち着かせてくれる。
(こんな時に気づくなんて、本当に馬鹿だわ)
エミリアとリシャールの二人を見た時に、心に落ちた感情は嫉妬だった。
公爵令息だから、一緒にいるのは今だけだからと遠ざけておきながら、彼と交わす会話や雰囲気に心地よさを感じていた。
リシャールが与えてくれる優しさに甘えるばかりで、それ以上考えようとしなかったアネットに今更想いを告げる資格などない。好意を伝えたところで困らせるだけなのは目に見えている。
(鈍感にも程があるわ。気づくのが遅すぎるのよ)
まだリシャールがアネットに好意を持ってくれている時に気づいたのなら、どうなっていたのだろうか。意味のない仮定の想像が惨めさに拍車をかける。
『アネット、わたくしはもう大丈夫よ。だから心配しないで』
『君はもう少し自分のことを考えてみたほうがいい』
クロエやフェルナンの言葉の意味がじわりと心に沁み込むようだった。いつだってアネットの最大の関心はクロエに向けられていて、他のことを疎かにしてしまっていたから、自分の気持ちに気づかずにいたのだ。
昂った気持ちを逃がすように深呼吸をしながら、ゆっくりと心の整理を行う。泣くのはちっぽけなプライドが許さないし、クロエに心配を掛けてはいけない。
「大丈夫。お姉様とは仲直りができたもの。大切な人が一人でもいるのなら幸せなことだわ」
辛い時ほど笑っていればそのうち本当に笑えるようになるのだと、かつての教育係であるジョアンヌは教えてくれたのだ。
口角を上げて作った淑女の笑みは自分では見えなかったが、何となく大丈夫だと感じたアネットはゆっくりと教室へと向かった。
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