第26話 互いの距離

「アネットはリシャール様のことをどう思っているの?」


食後のお茶を頂いていると、クロエから不意に訊ねられた。驚いて顔を上げると真剣な表情のクロエと目が合い、居住まいを正して答える。


「以前はただの同級生として認識しておりましたが、今は友人だと思っております」


気づいたばかりの心情を告げると、クロエは小さく嘆息した。


「お姉様、リシャール様には本当に良くしていただいていますわ」


少し前までクロエはリシャールに対して悪感情を抱いていたので、今回のことでリシャールの印象が悪くなってしまったのなら申し訳ない。


「いえ、そうではないの。アネットが望むのなら構わないのよ。……ただ今回のように危ない目に遭うのであれば、リシャール様とは距離を置いたほうが良いのではないかと思ってしまったの」


クロエの言葉にアネットが考えたのは数秒のことだった。


「ではリシャール様に明後日お話ししておきますね」

「アネット!?」


さらりと伝えれば目を丸くしてクロエが驚きの声を上げた。


「殿下も最初おっしゃっていたように、それで嫌がらせが止むのなら誰も傷つきませんもの」


協力してもらったリシャールには申し訳ないし少し寂しい気もするが、それはアネットが飲み込めばいいだけの感傷だ。友人だと思えるぐらいの存在ではあるが、それは学園内だけの関係性であり卒業してしまえば身分も異なる上に、ましてや将来平民になる可能性のあるアネットには遠い存在になる。


(それならば今離れてしまっても問題ないわ)


以前目にした悲しそうなリシャールの表情を振り払っていると、落ち着かないように彷徨っていたクロエの瞳がまっすぐにアネットを捉えた。


「アネット、それは違うわ。リシャール様はきっと傷つくし、貴女だって友人だと思っている相手を切り離して平気な子ではないでしょう。…わたくしの不用意な発言で惑わしてしまってごめんなさい」


しゅんとしてしまったクロエにアネットは挽回すべく必死で頭を巡らせる。


「いえ、リシャール様は私のことを友人と思ってくださっているか分かりませんし、どのみち一時的な関係ですから。逆の立場であれば私もお姉様を説得したと思います」

「一時的な関係、とはどういうことかしら?」


うっかり言葉にしてしまった言葉にクロエが敏感に反応する。ミリーは既に下がっていてクロエと二人きりだ。

少し緊張しながらもアネットは侯爵家に留まるつもりがないこと、卒業後は平民としてどこかで職を得ようと考えていることなどを打ち明けた。


「……アネットと会えなくなるのね」


ぽつりと漏れたクロエの第一声が、貴族令嬢としての義務を放棄するアネットへの叱責でなかったことにアネットは安堵する。アネットの考え方は普通の貴族であれば眉をひそめるものに違いない。


「お父様には育ててもらって教育を施してくれたことに感謝の気持ちもありますが、それでもお父様の望むとおりの人生を思い描くことができないのです。そのために掛かった費用は一生かけても支払いたいとは思っています」


散財はしなかったが、侯爵家で与えられたものは決して安価ではなく恐らくかなりの額になる。だからと言ってそれすらも放棄してしまうような無責任な人間になりたくなかった。


前世で生きた年齢に満たないとはいえ、貴族の常識や生き方をアネットは知っている。政略結婚が当たり前の世界で相思相愛の結婚する者など一割にも満たないだろう。

アネットにとって、それはひどく寂しく疲弊するものに思えた。誰かに愛されたいと切実に願うわけではないが、そのような未来よりも一人で生きる力が欲しい。

そんなアネットにクロエは真剣な表情のまま、アネットの頬に両手を添えた。


「リシャール様を手放さないでちょうだい」

懇願するような口調にアネットは戸惑った。


「アネットはわたくしに多くの大切なものを与えてくれたわ。だからこそわたくしは貴女に何一つ諦めて欲しくないの。学園に通う間しか一緒にいられないのなら、わたくしの用いる全てを使って貴女を守るわ」


それはまるで厳粛な誓いのように澄み切った泉のような清らかさがあった。クロエの想いがアネットの心にじわりと沁み込んでいく。


「――お姉様、ありがとうございます」

伝えたいことはたくさんあるのに、それ以上言葉にすることが出来ない。クロエはそんなアネットを甘やかすように優しく頭を撫でて微笑んだのだった。



「アネット嬢と距離を置いたほうがよいかもしれないね」


セルジュの表情を見た時からそう言われるのではないかという予感があったので、驚きはしなかった。そしてそれは自分でも考えていたことである。


「分かっている。今回のことは完全に俺の手落ちだ」


そう返すとセルジュは複雑そうな表情をリシャールに向ける。


「君は諦めないのかと思ったよ」


ベニエを分けてくれた優しい少女が特別な存在だという自覚はなかった。だがそれでも彼女の姉に向ける表情を羨ましく思い、関心のない態度を取られているうちにこれが初恋というものだと気づいたのだ。


これまでの非礼を許してもらえはしたものの、あまり関わりたくないと言われた後も未練がましく目を離さないでいたおかげで、嫌がらせに気づくことができたのは僥倖だった。


悪意や度を超えた好意からくる執着が激しく心を消耗させることをリシャールはよく理解している。あのままアネットが一人で抱え込まずに済んだことに安堵し、彼女を護ることに密かに充足感を覚えたこともあったが、今回の失態では自分の浅はかさを悔やむばかりだ。


(俺がもっと気を配っていれば……)

いつもはカーネリアンのように輝く橙色の瞳が、光を失ったかのように虚ろに見開かれているのを見た時にはぞっとした。


保健室に連れていくために彼女の手を引けば、僅かに震えているのを感じて、どれだけ怖い思いをしたのだろうと胸が締め付けられた。

赤紫に腫れた膝は痛々しく、動揺を隠して事の経緯を訊ねれば淡々と話してくれたが握りしめた両手はアネットの感じた恐怖や痛みを表わしている。


『リボン、盗られちゃった…。……せっかく、くれたのに……大切にしてたのに……ごめんなさい…っ』


その言葉だけで充分だった。

自分があげたリボンを大切にしてくれていたことが、それを失って涙を零してくれたことで、リシャールは二度とこの少女を傷付けないと決めたのだ。


「俺が離れることで彼女が傷つかないのならそれでいい。…もう二度とあんな風に泣かせたくないんだ」


だけど二度と関わらないのならその前に彼女に渡したいものがある。


「アネット嬢に代わりのリボンを渡したら、もう関わらない。だからそれまでは見逃してくれ」


セルジュが関わるなと命じればリシャールはそれに従わざるを得ない。

優しい従兄はリシャールに命令することなどほとんどないが、大切な婚約者に関することについては別だ。


「ただの提案であって命令ではないよ。クロエが心配しているのを見てつい苛立ってしまったけど、アネット嬢の言動もまたクロエのためだと分かっているから怒っていない」


自分と同じくクロエもまた感情を表に出すことは少ないのだが、セルジュとアネットにはその微妙な差異が分かるらしい。

二人といる時と他の者と話している時では雰囲気が少々異なるように感じているが、それが分かる者は少ないだろう。


「犯人はちゃんと特定するからお前は動かないでくれ。……ただアネット嬢にも気を配ってくれると助かる。俺は近くで守れないから…」

「勿論だよ。彼女はクロエの大切な妹だからね」


その言葉に胸を撫でおろしたリシャールは、懇意にしている服飾店への手配とカフェへの予約を従者に告げる。


(最後なのだから彼女の笑顔がたくさん見られるといいな)


幸せそうにベニエを頬張っていた少女の笑顔が瞼に浮かび、リシャールは切なさを含んだ笑みを浮かべ、明後日に備えることにした。

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