第25話 大切な宝物

図書館で詩集を手に小さな声で語らっていると、いつもは見かけないような令嬢たちの姿が視界に入った。


遠巻きにこちらに視線を送って様子を窺いながら、声をひそめて何やら話し込んでいる。

たった半日のことなのに、噂がすっかり広まってしまったのだろう。貴族たちの情報収集能力は高さには正直驚かされる。


(そろそろ頃合いかしら?)

機を見計らっていたアネットはここで仕掛けることに決めた。


「リシャール様、少し失礼いたしますね。すぐに戻ってまいりますわ」


この言い回しで何処にと問いかけるような貴族はいないが、リシャールは制止の言葉を口にしないものの難色を示している。だが流石に化粧室に一緒に行くのは無作法だ。

それを見越してアネットは返事を待たずに図書館から出て行った。


何か行動を起こすだろうと化粧室に留まっていたが、誰かが来る様子もない。


「流石に今動くとあからさま過ぎるわよね…」


一人きりになったアネットに何かしてこないかと期待していたのだが、無駄だったようだ。図書館にいない可能性もあるのだからとアネットは頭を切り替える。


(焦っても碌なことがないわ。一旦落ち着かないと……)


クロエに心配を掛けたくないという気持ちもさることながら、誰か分からない相手から悪意を向けられているという状況は心がじわじわと摩耗していく。

鏡を見てにっこりと笑みを浮かべて、きちんと笑えているかを確認する。


(リシャール様にも心配掛けないようにしないとね)


そう思った自分に少し戸惑ったが、知らないうちに同級生から友人という認識に変わっていたのかもしれない。

クリーム色のリボンを見て、アネットは静かに微笑んだ。


油断していた、というよりか意識を他に向けていたのがまずかった。何の成果もなく、ただリシャールを待たせた形になっていたので、図書館に戻ることしか考えていなかったのだ。


化粧室を出て数歩進んだところで、不意に背中に強い衝撃を感じた。

咄嗟のことで踏みとどまることなど出来ず、アネットは思い切り床に倒れ込んだ。両手を前に出して顔面を強打しないようにするのが精一杯だった。


(……え、何が起こったの?)

固い床とぶつかった痛みよりも困惑が勝る。僅かに髪が引っ張られる感覚があって、反射的に身を強張らせたが、バタバタとすぐに足音が続いてアネットは我に返った。


急いで身体を起こして振り向いたが、そこには誰の姿もなかった。化粧室のすぐそばは階段に続く曲がり角だ。手遅れだと思いつつ痛む身体を無視して、角を曲がったがやはり人の姿も気配もない。


信じられない失態にため息を吐くと、頬に髪の毛がかかる。思わず髪を撫でれば先ほどまで結んでいたリボンがなかった。廊下を見渡しても見当たらず、背中を押した人物が持ち去ったのだと気づいて愕然とした。


「アネット嬢!」

なかなか戻らないアネットを心配したのか、リシャールが駆け寄ってきた。


「…何があった?大丈夫か?」

倒れた拍子に制服は少し乱れていたし、何よりアネットの様子に察するものがあったのだろう。


「少し、転んでしまって……」

きちんと話さなければいけないのに、込み上げてくる感情のせいで上手く言葉にならない。


「保健室に行こう。もし歩けないようなら俺が抱えていくから」


俯いたまま無言で首を振ると、リシャールが手を差し出した。子供ではないのだから大丈夫だ、いつもであればそう答えるが、今は素直に有り難いと思える。

アネットがそっと手を重ねれば、気遣うように優しくリシャールは手を引いてくれたのだった。



幸いにも途中で他の生徒と会うとこもなく、保健室に辿り着いた。養護教諭に転んでしまったと告げれば、呆れたような表情をされながらも丁寧に手当てをしてくれた。膝や手の平が赤く腫れていて、激しくぶつけたのが分かるためお転婆な令嬢だと思われたのだろう。


「アネット嬢、何があったのか話せるか?」


養護教諭が準備室に消えたのを見て、リシャールはいつもより優しい口調で訊ねた。

手当を受けている間、ずっと話す内容を整理していたので大丈夫だと思っていたのに、リシャールの気遣いに落ち着いた心が波立つようだ。

アネットは深呼吸をすると、出来るだけ淡々と起こった事実だけをリシャールに伝えることにした。


「折角の機会を無駄にしてしまって、申し訳ございません」


話し終わったアネットは深く頭を下げた。協力してもらったのに、犯人の情報を何一つ得ることができなかったのだ。

申し訳なくてリシャールの顔を見ることができない。


「アネット嬢、謝るのは俺のほうだ。必ず守ると約束しておきながら、君に怪我をさせてしまった。……怖かっただろう」


最期に付け加えられた言葉が、アネットの心の何かに触れた。ポロリと涙が零れ落ちて慌てて感情を制御しようとする前に、リシャールはアネットの前に跪きそっと指先を手に取った。


「本当にすまない……俺がもっと気をつけねばならなかったのに。アネット嬢は何も悪くない。本当によく頑張ったな」


リシャールがわざわざ膝を折ったのは、悪意に晒されたアネットを怖がらせないため。優しい言葉はアネットが自分を責めないためのもので、止まらなくなった涙とともにアネットは胸につかえていた思いを吐露した。


「…っ、リシャール様、ごめんな…さい。リボン、盗られちゃった…。……せっかく、くれたのに……大切にしてたのに……ごめんなさい…っ」


仕方なく持っていたはずなのに、いつの間にか大切な物に変わっていた。ルヴィエ家に引き取られてから心が弱った時に宝箱を開いた。僅かな物しか入っていないが、そこにある柔らかなリボンの色は確かにアネットの心を慰めてくれたのだ。

預かり物だったからずっと使わないのだと思っていたが、本当は大切だから使いたくなかったということにアネット自身気づいていなかった。


怪我をしたことよりもリボンを奪われたことがショックであったし、すぐにリシャールに知られたことも申し訳ないような、ひどく物悲しい気持ちになってアネットは動揺した。


「……大事にしてくれていたのか」


俯いて涙を流していたアネットはリシャールがどんな表情をしていたのか知らない。だがアネットが泣き止むまでリシャールはただ静かに傍にいてくれたのだった。



教室に戻るとセルジュとクロエが残っていてくれた。一見して分かるところに痣はないが、アネットの目が赤くなっていたことに気づいたクロエの表情が曇る。


(私のせいでお姉様を悲しませてしまった…)


クロエの反応に連動して落ち込むアネットを気遣ってくれたのか、リシャールが代わりに事の経緯を伝えてくれた。


「俺の力不足でアネット嬢を危険に晒した。クロエ嬢、すまない」

「っ、違いますよ!私の軽率な行動が原因なので、これは自業自得です。リシャール様は悪くありません」


クロエに頭を下げるリシャールに慌ててアネットは説明する。クロエは怪我をしたアネットをただ痛ましそうに見ているが、セルジュは珍しく険しい表情だ。


(殿下は私と似ているから…)


アネットの中でセルジュはクロエに対する好意と反応から、単なる友人というより推し友という感覚だった。だからこそこの状況で犯人に対してはもちろんだが、アネットに対する怒りも僅かに感じ取れる。大切な推しを悲しませることはあってはならないのだ。


「お姉様、ごめんなさい。殿下もお騒がせしてしまって申し訳ございません」


クロエの心を乱したことが伝わるような言い回しで詫びれば、意図は伝わったようでセルジュの眼差しが和らいだ。


「私に詫びる必要などないよ。それよりも直接的な暴力を受けたのであれば、こちらも少々立ち回りを考えたほうがいいだろうな」


いつもより低い声音にひやりとする。

アネットに何かあればクロエが悲しむと知っているセルジュは何か行動を起こすつもりのようだ。クロエに影響を受けないことはもちろん歓迎なのだが、事が大きくなりすぎてもよくない。


王族とてそれなりの制限があり、セルジュの行動によってクロエが逆境に立たされる可能性だってあるのだ。いつでも第二王子の婚約者として正しく振舞わねば、政敵や野心家に足元を掬われる。


(もちろん殿下だって分かっていらっしゃるはずだけど、私と同じくお姉様のことに関しては少々冷静さを欠く傾向にあるから心配だわ)


「セルジュ、お前は動くなよ?学園内でしかも学生同士のいざこざに権力を使えば、厄介なことになる」


そんなアネットの内心を代弁するようにリシャールが窘める。にっこりと笑みを深めたセルジュに不安を覚えたが、クロエが呼び掛けるといつも通りの笑顔に変わった。


「アネット、今日はわたくしの部屋で過ごしましょう」


幸い明日は週末であり、怪我を気遣っての提案にアネットは喜んで甘えることにした。セルジュとリシャールに別れの挨拶をすれば、リシャールから声を掛けられる。


「アネット嬢、明後日は何か予定があるだろうか?渡したいものもあるし、一緒に街へ出掛けないか?」


お茶会や刺繍、買い物などを好む貴族令嬢と違って、アネットは読書や勉強、お菓子作りなど部屋で過ごすことが多い。今週末も2週間後に学期末の試験を控えていることから、部屋で勉強でもしようかと思っていた。


(予定がないと言えばないのだけど……)

ちらりとクロエの様子を窺えば、特に目を合わせることもないため、アネットの判断次第だということだろう。


怪我をして心配しているとはいえ、今回のことはリシャールの責任ではないと判断したようだ。それならば、とアネットはリシャールの提案を受け入れることに決めた。今の自分には気分転換が必要だという気がしたのだ。


「お誘いありがとうございます。私でよければ喜んで」


そう伝えれば、嬉しそうというよりも安心したようにリシャールは微笑んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る