第13話 姉妹の距離
自室に戻ったクロエは落ち着かないまま机の前にいた。勉強しなくてはと思うのに、先ほどまでのアネットの言葉が頭の中をぐるぐると回っている。
ノックの音に咄嗟に背筋を伸ばして、返事をすると家令のシリルが現れた。その手にはティーセットがあり、クロエは不思議に感じているとシリルはすぐに説明してくれた。
「ミリーに少し頼みごとをしたので、代わりに私が参りました」
その言葉に納得しながらも、少し引っ掛かるものがあった。ミリー以外にもメイドはいるのだから多忙であるシリルがわざわざクロエの世話をする必要はない。
「アネット様のことでクロエ様がお困りだと聞いております」
お茶を淹れる優雅な仕草を見つめていると、唐突にシリルが口を開いた。多分その話をするためにクロエを訪れたのだと気づき、隙を与えないようお腹に力を入れる。
シリルはお父様の味方だから油断するなとお母様から言われていた。時折厳しいけれど、不在がちなお父様とは違い自分の傍にいてくれるお母様の言うことを聞いていれば間違いない。
(でもあの子のことは、間違っている気がする)
お母様から嘘を吐くように言われた時、素直に頷いたことをすぐに後悔した。自分を庇って怪我をしたのに、さらに罰を与えることになったのは自分がお母様の言葉を肯定したからだ。
「私は――」
誰から聞いたのか分からないが、お母様かお母様の味方からであることは間違いないだろう。ならばクロエの答えはそれを肯定するものでなければいけないが、言葉が思うように出てこなかった。
「クロエ様がアネット様のことをどう思っていても、構いませんよ。アネット様も今はクロエ様に懐いていらっしゃいますが、じきに諦めるでしょう」
思わぬ言葉にクロエは咄嗟に聞き返した。
「諦める…?」
「ええ。どんなに好意を抱いていても、邪険にされればそのうち冷めます。アネット様はまだ幼いので他に興味が移れば、クロエ様が煩わされることもなくなりますよ」
『お姉様、大好きです』
『なかよくなりたい。さびしいの』
嫌な子だと聞かされていた。
急にやってきて侯爵家の娘になるなんて図々しい平民の娘。だから冷たく突き放そうとしたのに、クロエを見るといつも嬉しそうな笑顔を浮かべる。
嫌いだと言えば落ち込んだ顔をするのに、顔を合わせれば屈託のない笑みを見せて話しかけてくる。
押し花の栞は綺麗で、クロエが本当に好きなミモザの栞はとても欲しかったけど、平民の子から物をもらうなんて侯爵令嬢に相応しくないから我慢した。色とりどりの可愛いお菓子もクロエのためにアネットが用意したのだとミリーが教えてくれた。
「……シリル、貴族は平民と仲良くしては駄目なのでしょう?」
平静を装って問いかけた自分の声が震えたのが分かった。答えを聞きたいような聞きたくないような気持ちで、心臓が口から飛び出しそうだ。
「駄目ではありませんよ。ただ互いの常識や文化が違うので難しいでしょうね」
難しい、それが答えなのだろう。クロエだってアネットが今は平民でないことは分かっている。お父様が認めている侯爵家のもう一人の娘なのだが、アネットとクロエでは立場が違う。
「ですが、互いに相手を理解しようと思うなら自然に仲良くなることは珍しいことではありませんよ」
差し出されたティーカップに添えられていたのは、マカロンだった。
お母様に叩かれた痛みが蘇る。あの時は他にも使用人がたくさんいたから、あの程度で済んだ。
自室で叩かれる時はもっと酷い痛みを覚悟していたのに、代わりに叩かれたのはあの子だった。それなのに自分を心配してさらにはもう叩かれることがないように、王子の婚約者であることを引き合いに出してお母様に牽制までしてくれたのだ。
マカロンを口にすればお母様から怒られる。そう思うのに黄色の滑らかなお菓子に自然と手が伸びた。一口かじるとあの時と同じ優しい味がする。
「シリル、ごめんなさい。あの子は悪くないの」
アネットが怪我をした理由を話すクロエを、シリルはいつもより優しい眼差しで見つめていた。
「うゎああああああああああ………」
熱は下がり頭痛もなくすっきりとした気分になるはずが、最低最悪の気分だった。2日前のやらかし具合を思い出して、アネットはひたすらベッドの中で悶えている。
(嫌われた…確実に、今まで以上に……ううっ)
せっかくクロエが本音を明かしてくれたのに、熱で浮かされていたとはいえ、抱きついて号泣するなどあり得ない失態だ。
「お姉様に迷惑を掛けるなんて……もう侯爵家にはいられない………家出して一人で生きて行こう……」
子供でも雇ってくれそうなところを真剣に考えていると、ノックの音がしたが無視する。今後どう生活するかを考えるのに忙しいのだ。
(都会であれば下働きだけど、農村であれば農作物の収穫とか人手が必要そうなところのほうがいいかしら?)
考えに没頭していると、不意にドアが大きく開いた。
「起きていらっしゃるなら、返事ぐらいしてください。もう風邪は治ったと聞いていますが、まだどこか体調でも悪いのですか?」
元気なのにベッドでだらだらしているのか、とシリルの心の声が聞こえた気がする。だがそれよりもシリルの背後の存在に気づくなり、アネットは勢いよく居住まいを正した。
(ど、どどどどうして、お姉様がいるの?!)
長身のシリルの陰に隠れていて見落としてしまったが、その気品あふれる佇まいに思わず目を奪われる。
実際にしばしクロエを見つめていたのだが、自分の恰好に気づいてベッドから抜け出して居住まいを正した。
「お見苦しいところをお見せしてしまって、申し訳ございません」
遅いと分かっていながら、丁寧にお辞儀をして非礼を詫びる。
「クロエ様、このとおりアネット様もまだまだ幼く、足りないところだらけなのですよ」
子供とはいえ本人のいる前でそういう物言いはいかがなものか。むっとしたアネットだったが、続くシリルの言葉で一転する。
「ですから、共に学ぶことで互いに良い刺激を受けることになるでしょう」
「えっ?!」
驚きのあまり、思わず淑女らしくない声が出てしまい慌てて口を押えるアネットをシリルは呆れた表情で、クロエは感情の読めない顔で見つめていた。
「シリル、私がお姉様と一緒にお勉強するの…?」
恐る恐る確認すると、あっさりと肯定が返ってきて余計に混乱する。
「クロエ様もアネット様も悪いことをしたので、同じ場所で謹慎してもらいます」
アネットは元々クロエと義母への言動を理由に罰を言い渡されていたが、クロエは何もしていない。
「お姉様は何も悪いことなどしてないわ」
周りの期待に応えようと懸命に努力をしているクロエが、どんな悪いことをしたというのだろう。反射的に言い返したアネットだったが、それに反論したのはクロエだった。
「嘘を吐くのは悪いことだわ」
静かに答えるクロエに対してアネットは返す言葉がない。
「別々だと効率が悪いですし、二人でいれば専属メイドが甘やかすこともないでしょう。休むときは自室ですが、それ以外は5日間図書館で過ごしていただきます」
既に決定事項らしくシリルは淡々と説明したが、その口調が罰を与えるという割には柔らかいように感じて、アネットは首をひねった。
静かな図書館ではページを捲る音がやけに大きく聞こえる。本の内容は一向に頭に入ってこないが、クロエの邪魔をしないようにただ大人しくするために本を開いているだけだ。
(謝りたいけど、話しかけられない!!……そもそも話しかけることすら迷惑なのでは?!)
心の中で葛藤していると、ぱたりと本を閉じる音がして顔を上げるとクロエがこちらを見ていた。
(うるさかった?!心の声が漏れていたとか?それとも視界に入るのもやっぱり嫌?)
「ミリー、お茶を淹れてちょうだい」
視線をずらしてクロエが静かに命じたのを聞いて、ちょうどアネットの後方に用があったのだと胸を撫でおろしかけたが、クロエはすぐにアネットに視線を戻した。
「……どうして今日は大人しいの?」
「あの、ごめんなさい。お姉様にご迷惑ばかりおかけしているから、せめて邪魔にならないようにと思って…」
動揺しているせいで、たどたどしい口調になってしまった。クロエに恥じないような妹になろうと頑張っていたのに、最近ではみっともないところばかり見せている。
落ち込むアネットだったが、クロエは気にした様子もなく言った。
「邪魔ではないわ。妹の面倒を見るのも姉の役割だもの」
「……妹」
クロエがアネットのことを初めて妹だと言ってくれた。それだけではなく、アネットの面倒を見るのが当たり前だとも――。
「ちょっと、どうして泣いているのよ?!」
「う、嬉しすぎて…。ひっく、お姉様大好きです!」
「もう、仕方ないわね」
呆れたような口調だったが、それは今までとは違い確かに温もりのある声だった。
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