第6話 さりげない約束

 二人の覚悟が終わりすっかり眠たくなった。

 最初に出会ってから色々とありすぎて疲れきった様子だ。

 今日の夢に一ノ瀬 涼香が現れてもなんら不思議ではなかった。


 さすがに許嫁とはいえ別々に風呂に入り出た後は自由行動だった。

 

 猪俣 智司は居心地の良くないソファに腰を下ろし座っていた。

 座る分には居心地が悪くはないが寝る分には居心地が良くなかった。

 肝心のベッドは一ノ瀬 涼香に譲ることにした。すでに掛け布団を被り仰向けで寝ていた。


 寝息とは違う一つの溜息からさりげない会話が始まった。


「猪俣くん。起きてる?」


 ここは夢ではなく確かな一ノ瀬 涼香の声が聞こえてきた。

 実に静かで甘い誘惑な声音だった。それでいて耳障りにならなかった。


「起きてるよ。一ノ瀬さん」


 こういう時に限り猪俣 智司の本当はどう返事をしていいかやや戸惑った。短絡的に言葉を選んだ結果が優しい匙加減だった。


「あのね。凄く猪俣くんの匂いがするの」


 さりげない会話に猪俣 智司は匂いを臭いと勘違いした。急に慌てふためくと立ち上がり気が動転し始めた。


「ご、ごめんよ! 一ノ瀬さん! 臭かった? 俺のベッドが!?」


 最後まで気が動転していた。匂うのは掛け布団とかでありベッドではなかった。


「フフ。そうじゃないの。猪俣くん。嬉しいんだよ、凄く。私がね」


 こうして一ノ瀬 涼香の微笑んだだけの笑い声を聞いたのはこっちでは初めてだった。


「そうじゃない? 嬉しい? 一ノ瀬さんが?」


 ソファに座ることもなく立ち上がったまま疑問だらけだった。一つの疑問ならともかく何回も考えさせられると混乱しそうだった。

 仕方ないとやや冷静に戻り一ノ瀬 涼香に訊くのが手っ取り早かった。


「あのね。猪俣くん。君の匂いは私にとって凄く居心地がいいんだ。独り占めに出来るってこういうことなんだね。嬉しい」


 恥ずかしさを紛らわそうと一ノ瀬 涼香は掛け布団で口元を隠した。頬は赤裸々と化し実に可愛かった。


「なんだ! 良かった! てっきり俺のせいかと思ったよ! 一ノ瀬さん!」


 責任を感じてしまう前に猪俣 智司はようやく一ノ瀬 涼香の気持ちに勘付いた。かすかに抱いた一ノ瀬 涼香の気持ちは確かに継承された。

 猪俣 智司は解決したと思い込みソファに座り直した。


「ううん。逆だね。猪俣くんのお陰だよ。優しい猪俣くんが大好きだから、私」


 調子に乗るほどにもう子供ではないと感じた。でもそれでもつい微笑み以上の喜びの表現をしたくなっていた。


「もう……独りにさせないからな。もし俺を措いて独りになろうとしたら許さないからな。俺だって出来ることはあるんだ。もう逃げたくないんだ、誰からも」


 こんなにも自分自身の人格が落ちたのかと猪俣 智司は感じた。今までは他人のせいに出来たが今は出来なかった。いや。したくなかった。

 今更な人生を変えるからには今まで以上の覚悟が必要だった。けっして旨く行くとは思っていない。

 でもそれでもの精神を持たなければ社会から歓迎はされないだろう。


「うん! 独りはもういいの! だから約束してね。もう逃げないって」

「ああ。俺は逃げない。立ち向かう。たとえ壊せない壁があったとしても約束する」


 さりげない約束が交わされたことで二人はたくましくなった。たった一夜の成長に恋の神様はなにを想うのだろうか。


「約束だよ? 猪俣くん? ね? 私が君を守るから――」


 優しくいられるのは一ノ瀬 涼香が優しいからだと気付いた。言おうとした頃には一ノ瀬 涼香の寝息は聞こえていた。

 仕方がないので猪俣 智司はソファに置いてある毛布を掛け寝ることにしたのだった。

 明けない日はないの戯れ言を見直す時が一夜にしてやってくるなんて誰も思わなかった。それくらいに今日が刺激的な一日だった。

 明日はなにが変わるのだろうか。そう思いながら猪俣 智司は寝息を立て始めたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る