第5話 二人の覚悟

 二人だけの食事が終わり後は食器などを洗うだけだった。

 なのにどうしてか猪俣 智司は外にいた。

 まだかまだかと思えば思うほどに一ノ瀬 涼香が気になった。

 外に出させようと無理に説得されたがなにをするつもりなのだろうか。

 玄関ドアに腰を当て猪俣 智司は落ち着いていた。

 機嫌でも損ねたのだろうかと心配したが心当たりがなかった。

 どんなに考えても答えが見つからないでいた。

 とそんな時――。


「もう! いいから! きて!」


 遂にこの時がきたか。そう心構えた。

 猪俣 智司にとって一ノ瀬 涼香が許嫁とはいえ分からないことだらけだった。

 心に溜め込んだ息を吐き出すと腰を離し振り返った。

 ドアノブに手をやり下ろすと扉をゆっくりと静かに開けていた。

 流れるように入る途中に一ノ瀬 涼香はいなかった。


「ん?」


 完全に入り扉が閉まる音がした時にも確認していたがいなかった。

 奥にいるのかと猪俣 智司が靴を脱ぎ上がろうとした。

 これは相当に怒っているのかも知れないと覚悟を決めた。

 廊下を抜け広間に着くと一ノ瀬 涼香の後ろ姿が映り込んだ。

 顔を合わせられないくらいに怒らせたのか? と警戒し始めた。

 と次の瞬間――。


「え?」


 一ノ瀬 涼香は振り返った、それもエプロンを付けた状態で。

 急な出来事に猪俣 智司はついていけなかった。

 なのに一ノ瀬 涼香は天然を発揮したかのように振る舞い始めた。


「どうかな? 似合ってるのかな? 私?」


 痛恨なまでに猪俣 智司はなにが? と思ってしまった。

 この時ですら一ノ瀬 涼香のエプロン姿に気付かない鈍感力は凄まじかった。

 まるで異流文化でもしたのかと言えるくらいの出来事になっていた。

 余りの空白な時間に一ノ瀬 涼香は猪俣 智司の鈍感ぶりにすぐに気付いた。


「嘘。なんで」


 余りのショックに一ノ瀬 涼香は返事を待たずに走り始めた。

 いきなりな出来事に猪俣 智司は呆然としていた。

 その間に一ノ瀬 涼香は横切り玄関ドアへと突っ走っていった。

 もうエプロンなんていらないと一ノ瀬 涼香は脱ぎ捨て廊下に落とした。


「は!?」


 遅すぎた勘付きに一ノ瀬 涼香は応えようもなく玄関ドアを開け外に出た。


「待て!」


 聞こえたかどうかは分からないが玄関ドアが閉まる前だった。

 追いかけた頃には閉まっていたが落ちてたエプロンを通り過ぎていった。

 勢いよく玄関ドアを開けようとしたがまるで時が止まったかのように動かなかった。


「なんで!? ……まさか!? そこにいる!?」


 静かな時に耳を澄ませるとむせび泣く一ノ瀬 涼香の声がした。

 この時の一ノ瀬 涼香は玄関ドアに腰を当て開かないようにしていた。

 どうしてすぐに気付いてやれなかったんだと後悔した。

 時を戻せるくらいの話術があればいいが今の猪俣 智司はただのニートだった。

 悔やんでも悔やみきれないほどの怒りが込み上げ玄関ドアを叩こうとした。

 その時だった。


「猪俣くん! 私ね? 本当に不器用だよね? 望んでばかりだよね? こんな私で――」

「謝らないで! それに違うんだ! 一ノ瀬さん!」

「ううん。違わないよ、依存してるって何度も後悔したから、私」

「え?」

「やっぱり私に猪俣くんの許嫁は荷が重すぎたのかな? 私って馬鹿だな」

「そんな!? それなら俺だって! 俺だって……。今になってニートでいることを後悔した。あの時の思い出を守るためなら俺は今なら頑張れるよ? その頑張りをくれたの一ノ瀬さんじゃないか! だからさ! 戻ってきてよ! 一ノ瀬さん!」


 静かな時が流れた。必死の問い掛けに一ノ瀬 涼香はしばし沈黙を貫いた。

 余りの静けさに猪俣 智司は一ノ瀬 涼香が流されたのかと思い始めた。落胆したようにドアノブから手が離れた。

 振られたからといってここで諦めたらなんの為に説得したのかが分からない。ここは追いかけてでも会うべきだ。

 猪俣 智司は自分を奮い立たせドアノブに手をやろうした。その時――。


「え?」


 あれ程に重たかった玄関ドアが素直に開いた。開けたのは一ノ瀬 涼香だった。


「こんな私でも……猪俣くんの許嫁でいいですか?」


 泣き顔に笑顔って最高に矛盾した空間に猪俣 智司は初めて心の底から信用出来る人に出逢えた気がした。


「ああ! もちろんだ! 一ノ瀬さん! 一緒に頑張っていこう! な!?」


 こんなにも遠くて近い存在が自分にはいたんだということに二人は確信した瞬間だった。

 磁石のように反発する時もあればくっつく時もある。互いの息が合致しあえることを二人は心の底から喜んでいた。


「猪俣くん!」


 抱き合う二人がそこにいた。抱き付こうとしたのは一方的に一ノ瀬 涼香だったが力強かったのは猪俣 智司だった。

 全ての不安や不満が解消された訳ではないがすべからず二人の距離は縮まっていた。


「お帰り。一ノ瀬さん」

「有難う。そしてただいま。猪俣くん」


 互いに心の中から素直に言えた。そんな成長が今後の人生にどう関わるのかなんて二人には分からない。

 たった一つの人生が重なり合うことで出来上がる同棲になにがもたらされるのかなんて分からない。

 でもそれでもなんだかこの二人ならどんな困難も乗り切れそうな気がしてきた。そう。信じ合えるほどに確かめ合えたのだから。

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