君を呼ぶ頃

かいぐち わし

君を呼ぶ頃


 ふと思い出した子供の頃の話。


 俺は産まれつき体が弱くって、少年時代は病院の入退院を繰り返すような生活を送っていた。特に、小学生時代なんかは酷かった。当時の記憶と言われれば、病院のベッドと病室から見た景色、学校の担任に書かされたと思しき同級生からの手紙や、ツンと鼻を突くような消毒液の匂いくらいしかない。


 そう、最近まで思ってたんだけどね。

 実のところ、もう一つだけあったんだ。

 どうして忘れてたかは知んないけど、どうやらコロリと忘れてしまっていたらしい。なんとも薄情なもんだと、我ながら思ったりする。


 俺はフッと笑みを零すと、今いる部屋を見回した。部屋には殆ど何もなかった。あるのは積み上げられた段ボールと、風に靡くカーテン。


 もう少しで、俺はこの家を引っ越す。だからもう少しだけ、この思い出に浸りたい。


 俺はその場に座ると、荷造りの際に偶然見つけた、古い小箱を見つめて笑った。



 :::::::



 古い記憶。だいたい十五年前くらいか。その頃の俺といえば、病院が家みたいなものだった。


 産まれつきの病気があったからだな。症状こそ安定していたものの、医者曰く、まだまだ予断を許せない状態らしかった。


 それ故、中々病院から解放してもらえず、食って寝て起きて、時々検査みたいな面白くもない生活が、小学生時代の大半を占めたんだ。


 楽しくなんてなかった。

 嫌な思い出もなければ、いい思い出も特にない。毎日にうんざりしていた。暇すぎて死ぬんじゃないかと、本気で思う日もあった。馬鹿みたいだけど、これは結構マジな話。


 そんな当時の俺は、ある日一人の女の子と出会った。


 新しい発見を求めて病院内を探索するのが、その時のマイブームだったんだ。まあでも、俺は入院歴が長いほうなんで、当然病院内など飽きるほど見慣れていた。それでも何とかして楽しさを捻出しようと、四苦八苦していたんだ。


 その必死さには、今でもホロリと涙が出そうになるな。


 少女と出会ったのは、そんな探索の最中。病院の屋上でだった。


 可愛かった。滅茶苦茶にして無茶苦茶に、途轍もなくその少女は可愛かった。


 初めに抱いたのは、そんな感想。彼女は俺と同じ病院服を身に纏っていて、屋上から街の景色を見下ろしていた。絵になる光景だったな。俺は一瞬で、嫌いだった病院服を好きになってしまった。今思えば、一目惚れってやつをしたんだと思う。


 気が付けば、俺は彼女に声をかけていた。


「ねえ、何してるの?」


「街を見てるの」


「街? どうして?」


「好きだから」


「へー。面白い?」


「ぜんぜん」


「え、なんで?」


「……」


 覚えているのは、こんなままならない会話。彼女は楽しくない理由を教えてくれず、俺を無視して街を見下ろし続けた。今思い返せば、無視された理由なんて簡単に推測できるのにな。


 しかし、馬鹿な俺には分からなかった。入院期間が長くって、異性と話す機会がなかったせいだな。はしゃいでたんだ。


 その後も俺は、懲りずに質問を繰り返した。多分、嫌な顔をさせていたはずだ。けれど彼女は、俺の問いに答えてくれた。結構な確率で無視されていたんだけどな。


 名前や年齢を聞いた。趣味を聞いた。通う学校を聞いた。色々なことを聞いた。彼女が答えてくれたのは、名前と年齢くらいだった。


 同い年だった。それが妙に嬉しかったのは覚えているのに、彼女の名前がどうやっても思い出せないのは、やはり俺が薄情なヤツだからなのかもな。


 ほぼ一方的な質問会だったが、時間が経つのは一瞬だった。気が付けば夕日に染まった街並みが、眼下に広がってる。


「あ、もう帰らなきゃ」


 ひとりでに呟いて、俺は自分の病室へ歩き出した。


 もう少し話したい、なんて言葉を後ろから掛けられるのを期待して、去り際彼女に「バイバイ」と手を振ってみたりした。その手が振り返されたかどうかは、やっぱり覚えていないので、ここでは振られたことにしよう。そうでないと、現在の俺がちょっとツラい。


 彼女に呼び止められる、なんてこともなく病室に帰ると、俺は布団に飛び込んだ。


 野暮ったい言い方だけれども、胸が高鳴ってた。彼女の顔が、もう頭から離れない。今はもう思い出せないんだけどね。当時はこのことがキッカケで、常に俺の脳内は彼女のことで一杯だった。


 明日も屋上に行こう。

 探索なんてマイブームは一瞬にして頭から消え去り、俺は明日の予定を即決した。入院生活で明日が楽しみになったのなんて、いつ以来だったかな。思い出せない。今にもはしゃぎだしたい衝動を抑えて、俺はその日なんとか眠りについた。


 翌朝、俺は急ぎ足で屋上へ向かった。彼女が来るまで、街を見下ろして時間を潰す。時間が経つ、昼がやってくる。一度病室に戻る。そしてまた屋上へ戻る。


 けれど彼女はいつまで経っても、屋上にやって来なかった。


 かなりショックを受けたけど、よくよく考えれば当たり前だよな。いくら好きでも、毎日屋上に通うのヤツは変態だ。


 変態であるんだが。奇しくも、ここには変態がいた。の俺である。もちろん今は違うぞ、今は変態ではない。


 翌日も、その翌日も、変態である俺は屋上に向かったんだ。世間では、こういうのをストーカーっていうっぽい。

 当時の俺が小学生で本当によかったぜ。


 朝起きては、検査などがない限り屋上へ向かう。そんな日々に、別に飽きるとかはなかった。どうせ退屈な入院生活、どこで過ごしたって変わりはなかったのだ。


 屋上にいる俺を見て、明らかに嫌そうな表情を浮かべた彼女と再会したのは、いったい何日ぶりだったろうか。ともかく、俺の変態的な執念は実を結んで、大好きなその子と感動の再会を果たしたんだ。

 

「何してるの?」


「街見てる」


 今度は向こうから尋ねてくる。俺は嬉しくなって、けれども素直じゃないことに、照れ隠しで素っ気ない返事をしてしまう。シャイな俺をどうか許して欲しい。


 彼女はあからさまに不機嫌な表情を浮かべつつ、俺に重ねて質問してきた。


「なんで?」


「なんとなく」


「面白い?」


「見てるだけじゃ面白くないよ」


「……」


 そして彼女は、唐突に黙り込んだ。どうしたのかと表情を窺うけれど、幼かった俺は、彼女がどうしてあんな顔をしてたのか想像もつかなかったな。


 でもあの時、仕方なかったとはいえ、彼女の気持ちに気づいてあげられなかったことを、今でも少しだけ後悔している。


 彼女は沈黙したまま、俺の隣にやって来た。当然、俺の心臓はドッキドキになった。覚えてないんだけど、きっと女の子の髪の匂いがするー、なんてアホなことでも考えてたんだろう。


「どうしたら面白くなるのかな」


 屋上の、高いフェンスに手をかけて彼女はぼそりと呟いた。その奇麗な目は、遠く遠く街の方を眺めていた。しかし、基本アホなことしか考えていない俺は、彼女の問いに対する十分な答えを持ち合わせていなかった。


 持ち合わせてなかったんだけどもね、答えられないのは男の子としてダサいような気がして、俺は無理やり答えを絞り出した。


「い、行ってみるとか?」

「どこに?」

「街」


 今思い返しても、随分的外れな回答をしたとしみじみ思う。どうしたらこの景色を楽しめるかに対して、行ってみるとは。当時の俺の知能の高さが窺い知れる。


 でもまあ、小学生らしい回答だよな。頭の堅い大人になってしまった俺にとって、かつての発想力がちょっとだけ恋しい。


「ふっ……」


 話を戻して屋上。彼女は息を吹き出すようにして、笑った。初めて彼女が、俺に笑顔を見せた瞬間だった。うぶな俺は、それだけで嬉しくなってしまう。けどその反面で、馬鹿にされているように感じて少しムッとした。


「あっ、お前笑ったな!」


「笑ってない」


「嘘つけ!」


 そこから、言い合いが始まる。笑った笑ってない論争の、本当にくだらない口喧嘩だ。けれど楽しかったんだよな、俺にとって。


 この気持ちは、今でも鮮明に思い出せる。いつも病院でひとり、ロクに話し相手もいない俺からすると、彼女は初めて対等に話ができる人物だったんだ。だからこんな有り触れた口喧嘩でさえも、いや、だからこそなのか。

 俺にとっては、どうしようもないくらいに楽しかったわけだ。


 夢中になってる時に限って、時間ってやつは一瞬で過ぎるもので、夕時はすぐやってきた。つまりは、もう病室に戻らないといけない。けれど中々、俺は帰らなければいけないことを口に出せずにいて、刻々と時間だけが過ぎていった。


「あ、もう帰るね」


 そう切り出したのは、俺でなく彼女。フェンスから手が離れる音がして、彼女は俺から遠ざかっていった。


 俺は何も言い出せない。ただただ、この時間への名残惜しさと、彼女とまた会いたい気持ちだけが募っていった。


 また会いたい。その一言を言えばいいだけなのにな。口喧嘩したことと、拒否された時に傷つく自分の自尊心が心配で、愚かにも俺は何も言えなかった。ほんとうに下らないよな。でも小学生って、そういうもんだろう。


 俺は彼女の背中を呆然と見送る。去り際、彼女は何かに気が付いたように振り返って、俺に「バイバイ」と手を振った。途端、俺を押しとどめていたしょうもない自尊心が消えた。


「あ、明日ここ来れる?」


 もうだいぶ離れてしまった彼女に向けて、ギリギリ俺は声をかけた。偉い、偉すぎる。よく頑張ったぞ、俺。あの時の勇気には、花丸に蝶と花瓶を付け足してあげてもいいくらいだ。


「ごめん、無理かも」


 けれど俺の勇気は、敢え無く撃沈。したかのように思えたんだけどな、違ったんだよ。


「でも、明後日の午後からなら来れると思うよ」


 当時の俺には、きっと彼女が女神か何かに見えたことだろう。沸き上がる感情の波を隠そうともせず、俺は何度も頷くと手を振った。


「じゃ、また明後日! バイバイ」

「うん、バイバイ」


 ここから、俺と彼女の関係は進んでいく。

 日が開くことはあれど、俺達は会える日に会って、何気ないことを日が沈むまで語り合った。他に、特にこれといったことをすることはなかったけれど。ただ話をして、笑い合って、時々口喧嘩して、そんなのが俺にとって、とても心地よかった。


 多分、ずっと憧れてたんだろうな、こういうのに俺は。それがやっと叶ったんだ。


 今までの薄っぺらい病院での記憶が、どんどんと厚く塗り替わっていった。退屈一色だった生活が、無数の色彩を孕んでいった。

 そして、俺の今までの生活が変われば変わるほど、彼女と時間を共にすればするほど、時間の流れは無慈悲にも加速していったんだ。


 退院日が決まったのは、彼女と初めて会った日から、ひと月と少し経った頃だったかな。医者と親からそれを告げられた時、俺はまるで余命宣告を受けた患者のような気持ちになった。

 今まではずっと、退院したい気持ちで一杯だったのにね。


 そして俺は、退院日を正直に彼女に伝えた。こういうのって、勇気がいるみたいに思われがちだけど、俺はなぜかそうならなかった。

 なんでだろう、ずっと彼女と話していたからかもしれない。この屋上でなら、彼女になんでも打ち明けられるような気がしたんだ。


「あと一週間くらいで、退院することなった」


 日が沈みかけた空を眺めながら、俺は話した。

 口に出してしまうと、そのことをまた意識してしまって、悲しさが胸の奥からこみあげてくる。


 うろ覚えだけど、彼女の返答はなかった気がする。それで俺はどうしたのかと、彼女の表情を窺って、ハッと息を吞んだ。


 信じられないことに、彼女は泣いていたんだ。ポロポロと頬を伝う涙を拭おうともせずに、彼女は潤んだ瞳で俺を見つめていた。

 泣くなんてイメージ、彼女には少しもなかったのにな。少し口当たりが強くって、ザ・強い女の子って印象があったせいだ。


 俺はどうしたらいいか分からなくなって、オロオロとすることしか出来ない。

 我ながら情けないな。けど多分、現在の俺でも泣く女の子を前にしてしまったら、こんな反応をすることしか出来ないと思う。本当に情けない話だ。


 とにかく、俺は焦っていた。こんな反応をされるとは、夢にも思わなかったんだ。


「いや……! 退院しないで……」


「な、なんで?」


「会えなくなる!」


「会えなくなるって、別に退院してからなら普通に」


「会えない! ここじゃないと、会えない……」


 彼女はその場にへたり込んだ。

 涙がポタポタと、降り始めた雨のように地面を濡らす。俺はかける言葉を失いそうになりながら、それでも彼女に諭すように尋ねた。


「なんで?」


「私は、病院から出られないから……」


「……どうして?」


「……」


 出会った時と同じ、また無視だ。この頃には、俺もなんとなく察していた。彼女は答えたくないことを聞かれると、黙るのだ。


 下唇を噛んだ、この時の痛みは今でも思い出せる。泣く彼女を見て、どうにかしてあげたい気持ちが渦を巻いていた。


 けれど、彼女がこうなってしまっている原因が自分に在って、その原因がどうにもできないこととなると、俺はもう結局どうすることも出来ない。馬鹿な俺でも、それくらいのことは分かってしまった。


 これほど歯痒いことはそうないだろう? そして、俺というヤツは馬鹿だから、こんな場面でさえも的を得ないことを口に出すんだ。


「な、なら脱出しよう!」

「え?」

「脱出しよう、この病院から!」

 

 一瞬で、唖然とする人物が交代した。

 ほんとうに、こんなバカで申し訳ない。でもこれが俺なんだよ。ポカンとする彼女を置いて、俺は脱走の計画を立て始める。

 もう勢い任せだ、暴走した列車は止まらない。


 脱出と言えばやっぱり夜だよな。

 警備員とか看護師に見つかったらどうしよう。

 トイレでごまかせるかな。いつ集合にしようか。


「ふっ……」


 そんなことを早口に言う阿呆な俺を、彼女はまた笑ってくれた。涙とは一転、笑ったのだ。初めて会った時と同じだけれど、そこに俺がムッとする要素なんてどこにもなかった。ただ単純に、飛び上がるほど嬉しかったよ。


「夜の11時くらいがいいかも」


 彼女が答える。こうして、俺達の真夜中の脱出計画は決定されたわけだ。さっきの涙はどこへやら、入念に計画を立てて、その後俺達は解散した。


 俺は病室で、静かにその時が訪れるのを待った。この時だけは、時間の流れがものすごく遅いように感じたな。


 ただまあ、結論から述べておくと、この脱走劇は敢え無く失敗に終わった。


 理由は至極単純、計画が甘かったからだ。普通に警備員に見つかり、看護師にお叱りの言葉を受けて、各々の病室に連れ戻された。現実とは薄情なものである。


 けど、最高に楽しかった。彼女との日々で、過去一番といっていいくらいにだ。本当に刺激的な夜だった。なぜ今まで、この夜のことを忘れていたんだろうかと自分を責めたくなるほどに。


 後日、俺はいつも通りに屋上へと向かった。

 けどそこに、彼女の姿はなかった。もう見慣れてしまった街の風景を見下ろして、俺はずっと彼女を待った。


 けれど彼女は、いつまで経っても姿を現さなかった。すぐに一日が終わる。


 次の日も、俺は屋上へと向かった。次の日もその次の日も、検査の予定以外、行ける日は必ず、俺は屋上へと足を運んだ。彼女をずっと、待っていた。


 そうして時間は移ろって、退院日一日前。

 何とか検査の時間の合間を縫って、俺はいつものように屋上へと向かった。


 そこにある後ろ姿を見つけて、ドッと安堵が胸に広がる。感動の再会だな。でも、こういう時になんて声をかけるべきか、俺には全然これっぽっちも分からなかった。


「久しぶり」


「……」


 考えに考え、迷いに迷った末、俺はありきたりな言葉を彼女に掛けた。返事はなかったな。無視である。俺は黙って、彼女の隣に立って表情を窺った。


 けれどその顔色からは、何も窺い知ることはできなかった。


「渡したいものがあるんだけど、いい?」


 無言の時間がずっと続いて、彼女は唐突にそんなことを言ってきた。彼女のことが大好きな俺が、嫌だと拒否することなんてあり得るはずがないよな。

 俺はコクリと頷くと、彼女がポケットから何かを取り出すのを待った。


「これ……」


 そう言って差し出されたのは、手のひらよりも小さい小箱だった。俺はこれが何かと尋ねようとして、シーっと人差し指を立てた彼女に言葉を遮られた。


「この箱は絶対開けちゃダメ。」

「え、なんで?」

「なんでも!」


 俺はポカンとしてしまう。彼女との別れ間際に、絶対に空けてはいけないという箱を渡されたんだ。浦島太郎の玉手箱かよ。


「じゃあ、私もう行くね。今までありがとう!」


 戸惑いを隠せない俺を置いて、彼女は満足したようにそう言った。

 まあ、俺は当然、何が何だか分からないわけだ。「バイバイ」と手を振りながら去っていく彼女の後ろ姿を見送りながら、全く状況が呑み込めなかった。


 それに、明日退院なんだぞ。あっさりとし過ぎやしないかい?


 あまりにも淡泊な別れ。俺は彼女にとって、その程度の存在だったのかよ。子供の頃の俺は、すごく泣きたくなってしまった。


 可哀そうだろう、哀れな俺を慰めてやりたい。

 けどな、実のところ本当に可哀そうだったのは、あの子の方だったんだ。


 とても後悔している。あの時、バイバイと儚げに手を振る彼女に、何でもいい、何か声をかけてあげられなかったことを。


 後日、結局その背中を追いかけられず、俺は病院をあっさりと退院した。退院日当日に、俺が屋上に行くことはなかった。


 なぜかって? 俺がへそを曲げていたからだ。あんな適当で一方的な別れ方をされて、俺は大層おかんむりだったわけだ。本当に本当に、下らない意地っ張りで小さい男である。


 少しだけ思う。もしかしたらあの退院日に、彼女はいつものように屋上で街を見下ろしていて、こんな俺を待っていてくれたのではないかと。

 そして俺が、いつものようにそこに行けば、またくだらない話をして、笑い合って、最後には涙ありかもしれないけど、別れの言葉なんて照れ臭いものを言い合えていたのかもしれないと。


 けれど俺は、薄情で馬鹿なヤツである。

 ちっぽけなプライドを護るために、一生の後悔を選んだ愚か者である。


 俺が自分の罪に気が付いたのは、彼女の言いつけを破って、箱を開けた時だった。


 退院して数週間がたった日のことだった。

 彼女のことが頭から離れなかった俺は、その小さな箱を開けってしまった。


 そして中にあったものを見て、俺は嗚咽した。胸が締め付けられた。

 自分の馬鹿さ加減に、ようやく気が付いたんだ。

 けど気が付いたところで、もう取り返しなんてものは付かないんだがな。


 ここらで、回想は終わりだ。


 過去から引っ越し準備中の俺の部屋に戻って現在。俺は手に持った小箱を、もう一度開けた。


 中には、折りたたまれた手紙が一つだけ入っていた。それを広げて、読んでいく。所々、少年時代の俺の涙で滲んでいた。



『会って話すと、きっと泣いてしまうから、手紙に書きます。ごめんなさい。この手紙を読んでいるということは、私の言いつけを破っているのでしょう。だから、ここに書く私の秘密も、どうか許してほしいです。


 私には持病がありました。生まれてすぐに、お医者さんから余命を告げられていました。お母さんたちは忙しいので、私は全然家に帰れず、ずっと病院にいました。だから私は、屋上から見る街の景色に、ずっと憧れていたんです。


 そんな時、私は君と出会いました。最初は変な人かと思ったけど、会うたびに、やっぱり変な人だと思うようになりました。でも、君は良い変な人でした。私とずっと話してくれました。私と口喧嘩をしてくれました。私を笑わせてくれました。私をこの病院から、連れ出そうとしてくれました。

 人生で、いちばん楽しい時間でした。


 だから、ありがとう。この言葉を直接伝えられなくて、ごめんなさい。

 私に楽しさをくれてありがとう。泣いたり我がままを言って、ごめんなさい。

 沢山伝えたいことがあるけれど、ここには書ききれないようです。そして最後まで、君を困らせることをここに書きます。ごめんなさい。


 私はあなたのことが、大好きでした。


 もうすぐ私は、遠くの方の病院へ移ります。

 けどもし、また会えたら、その時はどうか返事を聞かせてください。』



 俺は手紙を箱に戻す。彼女がその後どうなったのか、俺は知らない。だから当然、返事を伝えられることもなかったわけだ。


 けどもし、また会えたら。

 当時の俺の答えは、間違いなくイエスだっただろう。そうしてお互いの気持ちを伝えあって、俺は彼女に謝っただろう。


 気持ちに気づいてあげられなくて。病院から連れ出してあげられなくて。君の後姿に声を掛けられなくて。あの日屋上に行かなくて。最後の最後までバカで、愚かで。本当に本当に、ごめんなさいと。


 けれど、現実とは無慈悲なものである。そして俺は、愚かでどんくさくて、薄情なヤツである。もう今では、彼女の名前すらも思い出せない。


 それでももし、奇跡と運命が重なって、君が余命を乗り越えた世界線で、もう一度会えたなら。話したいことが、笑い合いたいことが、溢れる程に沢山ある。



 最初は君の名前を聞こう。

 そうして俺は、君の名前を呼ぶ頃に、もう一度戻りたい。



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