鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす

山法師

鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす

 俺の名前は葛瑠夏かずらるか。年は十九、性別は男。だけど俺は、女の格好をしている。

 女物の服を着て、胸まである髪はグレイアッシュに染め、流行りのメイクをして、ピアスとネックレス、ネイルもしてる。親譲りの大きな瞳と、長い睫毛と小さな顎と、高い声に、華奢な体。それら様々な要素もあって、その辺にただ突っ立っているだけなら、誰もが俺を、女だと思うだろう。

 だけど俺は、自己紹介をする時、自分を男だと言う。性自認は男だからだ。高校の時に知ったけど、こういうのを『クロスドレッサー』とか言うらしい。


「こんちわー」


 そして俺には今、好きな奴がいる。

 挨拶とともにドアベルを鳴らせば、玄関を開けたのは、身長百七十で八センチヒールのパンプスを履く俺より背の高い男。山之辺歩やまのべあゆむ。こいつが、俺の好きな奴。


「また来たの、お前」

「いいじゃん。上がらせてよ」

「ハァ……」


 俺より四つ年上のソイツは、溜め息を吐きながらも、俺を中に入れてくれる。


「今、仕事中だから。大人しくしてろよ」

「へーい」


 玄関で赤のパンプスを脱いだ俺は、猫背気味になっている歩の後ろ姿を見つめる。

 くたびれたシャツ、黒のジャージ。肩に届かないくらいの黒髪は、少しだけ、ウェーブがかかってる。本人曰く、母親譲りの髪質らしい。


「あ、そうだ」


 歩は廊下を歩く足を止め、俺に振り返る。


「何飲む?」

「コーヒー。ブラック」

「分かった」


 歩はまた前に向き直って、歩き出す。ここの廊下は長い。家も大きい。聞けば、親の遺産だと言っていた。歩は、頼れる両親も親戚も、恋人だっていない、独り身だ。

 歩は廊下を右に曲がり、キッチンに。俺もその後をついていく。

 歩は棚からマグカップを二つ出し、インスタントコーヒーを淹れる。俺のはそのまま、自分用には、砂糖とミルクをたっぷりと。

 歩は、甘党だ。酒も飲むけど。


「ほら、ドア開けてくれ」

「はいはい」


 マグカップを二つ持って手が塞がった歩は、俺を使って廊下に出る。そしてまた右に曲がって、少し進んで、左に折れて、右側の部屋へ。

 歩の仕事部屋だ。


「開けて」

「ほーい」


 ガチャリとノブを回し、外開きのドアを開ける。そのまま俺が先に中に入り、本に埋め尽くされた部屋の真ん中にある、二人がけのソファへ。

 ぽすっと座り、ショルダーバッグを肩から外していたら、


「はい」


 目の前に、いつも俺が使うマグカップ。


「ありがと」


 俺はそれを受け取って、一口。


「……ねぇ」


 ソファとは別にある、仕事用のパソコンデスクに腰掛けた歩に、言ってみる。


「キスしない?」

「しない」

「ちぇっ」


 今日も歩の反応は、暖簾に腕押し。


「今はなに書いてんの?」

「新作」

「中身は?」

「ホラー」


 簡潔に言う歩。歩の職業は、小説家だ。

 ブルーライトカット眼鏡をかけ、自分のコーヒーを一口飲んだ歩は、俺が来る前からしていたらしい執筆作業に戻る。

 カタカタと、キーボードを打つ音が響く。


「……」


 俺はソファに寝転び、スマホをいじりながら、また、歩の方へ目を向ける。

 こいつとは、電車の中で出会った。出会ったっていうか、助けられた。


 満員電車の中だった。俺は、俺の後ろにいるどこぞのおっさんに、痴漢に遭っていた。まあ、よくある。俺は女の格好をしてるし、こういうのは慣れてたから、抵抗もしてなかった。たた、嫌な気分だけは、いつまでも消えないけど。


『すみません。ちょっといいですか』


 その声とともに、尻をまさぐっていた不快な手の感触が離れる。


『は? 痛っ!』

『?』


 そんな声に振り向けば、背の高い男が──歩が、そのおっさんの腕をひねり上げていた。


『痴漢は、いけませんよ』


 その言葉に、あたりがざわつく。

 え? 痴漢? なんだなんだ。痴漢だって? あのおじさんが? あの子を? あの人が助けたのか。等々。


『次の駅で、降りてもらいますよ』

『ち、痴漢などしていない! 君の思い違いだ!』


 おっさんはわめいたけど、歩は無に近い表情を変えず。


『してたでしょ。嘘をつくと、罪が重くなりますよ』

『していない! 私が誰を痴漢していたっていうんだ?! なぁ!』


 おっさんはそう言った。痴漢に遭った人は、大体がそれを隠そうとする。このおっさんも俺が何も言わないと踏んで、そう言っているんだろう。

 けど、俺は口を開いた。


『されました。尻を触られましたね。しつっこく』


 辺りがまた、ざわめく。

 本当に痴漢だ。うわ、最悪。変態じゃん。などなど、また声が上がる。


『君、何を証拠に──いでっ!』


 ギリィ、と、歩はおっさんの腕にかける力を、強めたらしい。おっさんは顔を歪め、


『は、離さなかいか……君……っ!』

『離したら逃げるでしょう、あなた』


 そうこうしている内に、電車は駅に着き。ドアが開く。


『さあ、降りましょう』

『わっ私はしていない! していないぞぉ!』


 わめき続けるおっさんを引きずり下ろすようにして、歩は電車を降りた。

 その声に、電車を降りようとしていた乗客も、乗ろうとしていた人達も、一歩下がる。


『さあ、嫌だろうけど、君も』


 俺にも目を向けた歩は、静かに言った。


『……』


 俺は、そのあとのことを考えると嫌だったけど、ここは素直に降りるのが得策かな、と思って、言われた通り、電車を降りた。


『誰か、駅員さんを呼んでくれませんか。この人、電車内で問題を起こしたんです』


 ざわめく構内で、なかなかに通った低いその声の内容は、瞬く間に伝播して。


『何かあったと聞きましたが』


 早々に、駅員が二人ほどやって来た。


『ええ、この人が、この子に』


 歩の言葉だけで伝わったんだろう。駅員二人ははおっさんの腕を掴むと、俺に目を向けた。


『悪いけど、君も来てくれないかな』


 ああ、嫌だ。痴漢も嫌だけど、このあとのことも、想像するだけで、嫌だ。


『……はい』


 けど、俺はついて行かざるをえなかった。ここで拒否すれば、もっと嫌なことが起こるって想像がついたから。


『僕もついていきましょう。証人です』


 歩もそう言って、計五名で、駅の事務所まで行くことになった。俺はただただ陰鬱な気持ちで、そこまでついていった。

 駅員はどこかに連絡し、おっさんはパイプ椅子に座らされ、俺と歩も、おっさんと離れた場所に、隣同士で座らされて。


『君、身分証を、いいかな』


 駅員が、手を差し出してきた。

 ああ、これが、嫌なんだ。


『……はい』


 当時高校生だった俺は、学生証を取り出し、渡す。


『……』


 中身を検めていた駅員は、ある項目を見て、眉をひそめた。


『……失礼だけど、君は、男の子なのかい?』

『なにっ?!』


 おっさんが声を上げた。


『男ですけど、何か』


 努めて冷静に、声を震わせないように、答える。

 俺の声は高い。女のように。俺の見た目は可愛らしい。女のように。その上俺の通う高校は、私服が許されてる学校だった。だからいつも、今日のような平日も、こうやって身分証で確かめたりしなければ、大抵のやつは俺を女と間違える。

 俺はただ、好きな格好をしているだけなのに。


『そうか……。一応聞くけど、あの男性に、何をされたのかな』

『尻をまさぐられましたね。それはもう、しつっっっこく』


 言えば、おっさんは吠えた。


『していない! 私が男の尻を触りなどする訳がないだろう! これは冤罪だ!』


 わめき声が、うるさい。駅員の迷うような視線が、俺の胸の中を、じくじくと痛めつける。


『──男だろうが女だろうが、関係ないでしょう』


 そこに、あの通る低い声が、響いた。

 ちらりと横を見れば、あの無表情のまま、歩は淡々と言葉を並べていく。


『私は見ましたよ。この子の臀部を、この人が執拗に触っていたのを。そのまま警察に突き出して、その人の手のひらを検査してもらえば良い。彼のスカートの繊維が、検出されるでしょうから』

『なっ……』


 おっさんが、唖然とする。

 さっきの物言いといい、この反応といい、このおっさんは常習犯なんだろう。


『ええ、まあ、そうですね』


 駅員はそれに、多少ぎこちなくとも頷き、歩の身分証も確かめ、またどこかへ連絡を始めた。


『……』


 俺は、横の男を、歩を、見つめていた。

 前に、俺は声を上げたことがある。痴漢だと。助けてくれと。俺は痴漢野郎と、痴漢野郎を逃げないように捕まえててくれた大学生らしい数人のグループと一緒に、今回みたいに駅で降りて、駅員に事務所まで連れられた。そこで、


『君、男の子なのかい?』


 学生証を見せたら、駅員に驚かれた。そして、痴漢野郎はわめき出した。男など触らないと。これは冤罪だと。俺を守ってくれていたはずの人達も、どうすればいいのかと、周りの顔色をうかがっていた。

 そして、痴漢野郎と俺を持て余した駅員は、痴漢野郎を冤罪だと認め、解放した。俺と大学生らしい人達も、そこから出された。

 大学生らしかった人達はそそくさと行ってしまい、俺だけが、ぽつんと残された。

 惨めだった。世間から見放された俺は、どうしようもなく、惨めだった。

 なのに、今日は。

 この、男は。

 俺を庇ってくれた。否定しなかった。

 柄にもなく、泣きそうになって。俺は膝の上の拳を、握り込んだ。

 それほど経たず、警察が来て。おっさんは連れて行かれ、俺もまた、身分証を検められて。

 そこでもまた、眉をひそめられたけど、さっきほど、苦痛は感じなかった。それより、最後まで側にいてくれた、この隣の男が気になっていた。

 事が一応収まると、ヒールで百八十近くなっている俺より背の高いその男は、『じゃあ』と言って、立ち去ろうとした。

 俺は、勇気を振り絞った。


『あ、あの!』


 男がそれに振り返ったのに安堵しながら、俺は言葉を続けた。


『あの、本当に、ありがとうございました。……何か、お礼を、させてください』

『いいよ、お礼なんて』

『お願いします。俺の気が済まないんです。……ご迷惑、ですか』


 すると、彼は困ったような顔になった。


『……いや、迷惑ではないけど……年下にたかるのは、気が引ける』

『っ……なら、連絡先、だけでも……!』

『……』


 彼は一瞬考え込んだような顔をして、


『じゃあ』


 背中のリュックを前に回し、カードケースのようなものを取り出すと、そこから一枚、紙を抜き出し、俺に差し出した。


『これ。俺の名刺。これでいいかな』


 受け取ったそれには、小説家、山之辺歩、と印刷されていて。メールアドレスとSNSのアカウント名が、下の方にあった。


『山之辺、さん?』

『そう。あ、それ、ペンネームじゃなくて、本名ね。俺、本名で活動してるから』


 言いながら、リュックを背負い直し。


『じゃあ、これで』


 俺を助けてくれたその人は、くるりと背を向けて、今度こそ歩き出してしまった。


『あっ、ま、待って!』


 名刺をポケットに入れて、それを追いかける。追いかけながら、なんでこんなに必死になっているのかと、頭の片隅で思う。


『これから、どこ行くんですか』


 隣に並び、問いかける。


『……。家に、帰るんだけど』

『ついてっていいですか?』

『……』


 歩は、困った顔をして、立ち止まった。


『……君、今日学校は?』

『帰りです。今テスト期間中だから、早く終わるんです』


 時刻は、午後一時半。まだ日は高い。一日の終わりには、遠い。


『それに今日、午後はまるっと空いてます』

『なら、家に帰りなさい。そして家でテストの勉強をしなさい』


 言って、歩はまた歩き出す。


『……家、帰りたくないです』


 呟けば、歩の足がまた止まった。


『……なら、友達の家か図書館か、ファミレスにでも行きなさい』

『あなたの家に行きたいです』

『…………ハァ……』


 歩は頭をかき、こっちに振り向いて。


『……俺は、初対面の未成年を家に上げるほど、非常識な人間じゃないの』

『来月には十八になります。成人です』


 俺は八月生まれで、その時は七月だった。


『……そういうことじゃなくて……』


 歩はくたびれた雰囲気を出し、滔々と、語りだす。


『俺が君を家に連れ込めば、誘拐になるかもしれない。それが俺や君の意思に反していても。というか君、初対面相手の家に上がろうとしないの。もっと危機感を持ちなさい。さっきも嫌な思いをしたばっかりでしょ。俺があのおっさんと違うとは言い切れないでしょうが』

『……そこまで言ってくれる人が、悪い人には思えません』


 思ったままを口にすれば、彼はまた、溜め息を吐いて。


『……どうして家に帰りたくないの』

『家にいると気まずいんです。親はどっちも、俺のことを、こんな格好をする俺を、認めてくれてないから……』


 無意識に、声が沈んだ。


『……。……分かった』

『!』

『でも、家には上がらせない。近くの喫茶店に寄る。……それが、妥協点』

『やった!』


 それで、喫茶店で、卵サンドとクリームソーダを食べて。コーヒーを飲んでる彼の目の前で彼の本を検索して、


『やめなさい』

『やだ』


 そのまま一番売れてるらしいのを電子で買って、読んで。


『……目の前に読者がいるの、気まずいんだけど……』

『ちゃんと感想も聞いてね』

『まじか……』


 困った声と顔になる歩が、なんだか面白くて。

 読んだ小説は、不思議な話だった。というか、あまり本を読まない俺には、その面白さが掴めなかったのかもしれない。

 でも、どうしてか楽しく読めた。

 そう率直に、感想を言ったら。


『……どうも』


 なんとも言えない、みたいな顔をして、歩はそう言った。

 それが、一年前。


「……ねぇ」


 俺はソファから立ち上がり、デスクチェアに座る歩の横に行く。


「何」

「好き」

「そう」


 歩はこちらをちらりとも見ないで、キーボードを打ち続ける。

 あれから、俺はSNS経由で歩と連絡を取り合って──まあ、ほぼ俺が突撃してたんだけど。歩との繋がりを持ち続けた。持ち続けられた。これは、歩が優しかったおかげだろうと思う。

 それで、成人したからと、また会う約束を取り付けて。入り浸って。

 半年ほど前に歩への好意を自覚した俺は、最初狼狽えて、悩んで、悩んだ末に、告白した。フラれた。

 泣きながら、俺が男だから駄目なのかって言ったら、


『そうじゃない。……そうじゃなくて、ただ……』

『ただ……?』

『お前を、そういう目で見てこなかったから……』

『じゃあ、これから見て。好きになって。ほんのちょっとでも可能性があるなら、俺は、諦めないからな……!』


 嗚咽混じりに言ったら、頭を撫でられて。


『叶うか、分かんないぞ』

『ならっ、頭なんか撫でんなよぉ……っ』


 それから俺は、何かにつけては歩に好意を示して。歩はそれを受け止めてくれるけど、返してはくれない。

 抱きしめたことだってある。寝てる布団に潜り込んだり、不意打ちでキスしたことだってある。どれもこれも、有効打にはならなかったけど。


「ねえ、歩はどんなのがタイプ?」

「前にも聞いてきたな。好きになったヤツがタイプだ」

「それ、答えになってないって言った」


 かわいい系とか、清楚なのとか。言ってくれればどんな格好でもするのに。……男の格好だって、するのに。

 俺がぶすくれてると、歩はやっとこっちを見て。


「……面白い顔になってるぞ、お前」


 フッ、て、笑った。


「……面白くない」


 ずるい。そういう時ばっかそんな顔すんの、ずるい。

 俺ばっかりが、翻弄されて。なのに、そんな歩が、大好きで。


「ぜんっぜん、面白くない」

「俺は、面白いけどな」


 歩はキーボードから手を離して、頬杖をつく。

 俺を見るその顔は、楽しそうで。


「……じゃあ、もっと面白くしてやる」

「ん?」


 俺はある本棚に向かっていって、そこから一冊、抜き取った。


「……お前」


 この棚は、歩が出した本が入ってる棚。だからこれは、歩が出したうちの一冊。


「これから、この本を音読して、感想を言ってやる」

「だから、やめろって」


 歩が立ち上がるけど、お構いなしに本を開く。


「えー、タイトル、君の──むぐっ」

「だから、俺はそういうのは苦手なの。言っただろ」


 後ろから手を伸ばされ、口を塞がれる。そのまま本も取り上げられ、目の前でパタンと閉じられた。

 ……この体勢、ほぼバックハグじゃね?


「瑠夏」


 耳元で、名前を、呼ばれた。


「今度やったら」


 歩の、低い声が。その吐息が。


「お仕置きだからな」


 耳にかかる。


「〜〜〜?!」


 たぶん、今の俺の顔は、真っ赤だ。


「ったく、お前は懲りないヤツだよな」


 歩の手が、口から離れる。歩は俺の隣に並んで、俺が抜き取った本を、棚に戻した。


「……ずるい」

「あ?」

「ずるいずるいずるい! 歩はずるい!!」


 隣にいる斜め上のその顔を睨めば、歩はまた、楽しそうに。


「ずるくて結構」


 俺の頭を、ぽんと叩いた。


「俺はお前といられて楽しいよ」


 言いながら、デスクに戻る。


「バーカバーカ歩のバーカ」


 ボソボソと言ってやると。


「聞こえてるからな」

「ケッ」


 俺もソファに戻って、飲みかけのコーヒーに口をつける。

 苦いはずのそれは、どこか甘く感じられた。



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