第27話 愛は、痛くて

 京都の平安神宮近くに、無鄰菴むりんあんという名勝がある。

 維新の元勲である山県有朋が、高名な庭師である七代目小川治兵衛に作庭を指示した別荘で、いわゆる「無鄰菴会議」の舞台となった地である。

 もちろん幸太は、この古めかしい洋館で歴史の香りを楽しむために美咲を誘ったわけではない。

 商社時代、京都に本社を置く大企業の経営者に話を聞いたことがある。京都はどこも観光客がひしめいて、特に紅葉の時期に名所へ行くと、身動きもままならないことすらある。

 どこか穴場のようなものはあるのか、と世間話ついでに尋ねたところ、この無鄰菴のことを教わったのだ。

 さらに時代が進んでいれば、SNSの普及で穴場情報もたちまち筒抜けになってしまうかもしれないが、この時期はまだまだ知名度も低いはずで、実際、その読みは的中した。

「これ、なんて読むの?」

「むりんあん、だよ」

「勝手に入っていいのかな?」

「大丈夫そうだよ。行ってみよう」

 敷地に入ってみると、100年以上も前の設計ということもあり、時代がついたやや狭い家、それ以上の印象はない。

 だが母屋おもやを案内に沿って進んでゆくと、やがて眼前に素晴らしい庭園が広がる。

「えっ、素敵……」

 縁側に立った美咲は、思わず目をみはり、息を呑むようにしてつぶやいた。

 空が完全な闇に没する手前、わずかな残照を受けて遠く東山がV字に切り取られ、その東山を左右から包み込むように、赤や黄に彩られた木々が鮮やかにライトアップされている。

 見事なものだ。

「庭に下りてみよう」

 美咲をエスコートして庭に下りると、飛び石や砂利の乾いた音と感触が心地ここちよい。庭園内は水のせせらぎとぽつぽつと姿の見える観光客の声がある以外は、穏やかな静寂せいじゃくに包まれている。

「ほんとにきれい……」

 美咲はしばしば足を止めては、夕闇の下に浮かび上がる紅葉を見上げ、うっとりした表情ででた。

 美咲のそういう表情を、幸太は初めて見る。美咲をよく知るはずの幸太でさえ、このひとはこういう表情をするのかという驚きと、世の中にこれほど美しいひとがいるのかというあこがれを改めて持った。

 しばらく、幻想的な夜景のなかを、ふたりきりでただよう。

 母屋に戻り、縁側に並んで座ると、美咲はごく自然と、頬を幸太の肩に預けた。幸太は彼女に、自分のコートを羽織らせた。

「この景色、私に見せたかったの?」

「この前、所沢の公園に行ったときは、時期が合わなかったけど、美咲と紅葉見たいなって思って」

「ありがとう」

 私、と美咲は続けた。

「私、この景色、たぶん、ううん絶対に忘れない。紅葉がきれいだからじゃないよ。コータが、私に見せたいって言ってくれた。私を連れてきてくれた。一緒に見てくれた。だから、私忘れないよ。この気持ち、ずっとずっと忘れない」

「俺も、忘れない。美咲と見た景色も、美咲への想いも、ずっと心に残り続けるよ」

「また、来ようね」

「そうだね。今度は、ふたりで京都旅行に来よう」

「約束よ」

 指切りを交わした美咲の小指は、小さいが意外なほどの力がこもっていた。

 幸太は美咲の肩に手を回し、無言で抱き寄せた。

 未来のことなど、誰にも分からない。美咲との約束が果たせるのか、それは幸太にも彼女にも、ほかの誰にも分からない。分かるはずもない。

 美咲との約束を守るためには、ただ今を誠実に、懸命に生きるしかない。その積み重ねによってしか、ふたりに約束を守らせることはできないだろう。

 そして幸太は、美咲との約束を守るためならば、自分はなんでもしよう、と思った。

 美咲を、絶対に幸せにする。

 彼の人生の、それが唯一の望みであり、彼の人生が終わるその時まで続く、これは使命でもあった。

「もう、時間だね」

 暗に移動を促したのは、美咲の方だった。

 そう、どれだけ名残惜なごりおしくても、もうこの時間、この空間からは離れなければならない。京都駅で班のメンバーと合流し、一緒にホテルに戻らないと、彼らふたりだけでなく、ほかのメンバーまでがお目玉だ。

「そうだね、そろそろ行こうか」

「うん……」

 自分から促しておきつつも、目線は庭園にとどめ、声にさびしさがあり、なおも離れがたい様子の美咲だった。

 靴をき、母屋から敷地外まで続く短い回廊を歩く途中、美咲は幸太の手を握ったまま、立ち止まった。

「美咲、どうしたの?」

「……コータ」

「ん?」

「今日は、私からしてもいい?」

 何を、と言おうとして、幸太は察した。美咲がゆっくりと近づき、少し背伸びをするようにしながら、幸太にもたれかかった。

 唇に、淡く切ない想いが残った。

 ほんのわずかな距離と暗闇の向こうに、美咲のさびしさと愛情をたたえた瞳が揺れている。

「ごめんね」

「どうして、謝るの?」

「なんだか、キス、したくなっちゃった。変かな」

「変じゃないよ。大切な恋人と一緒にいるときは」

「私……私、あなたのことが好き。大好き」

「おいで」

 幸太は美咲を抱き寄せた。美咲の肋骨ろっこつが折れ、肺がつぶれてしまうのではないかというほど、きつく抱きしめた。

 耳元で、浅く速い息づかいが聞こえる。

 幸太の口元すぐそばには、美咲の耳がある。

「美咲、大好きだよ」

 うんうん、と美咲は彼に抱かれながら、何度もうなずいた。

 美咲は泣いていた。彼女の涙の通り道を指でぬぐい、拭ったあとで、幸太はもう一度、口づけをした。やわらかい、愛らしい唇だ。そこへさらに、彼女の熱い涙が流れ落ちる。

 愛情が、あとからあとから津波のように押し寄せ、幸太の胸はぐっ、と強く締めつけるような痛みに襲われた。

 どうして、彼女への激しい愛情を覚えたとき、このように胸が痛くなるのだろう。

 彼の胸は、むしろ幸せで満たされているはずだ。

 にもかかわらず、なぜこのように痛切に感じられるのだろう。

 もしかして、美咲も同じ想いでいるのだろうか。

 長い長い口づけのあと、美咲は再び彼の目を見つめた。

「ごめんなさい。急がないとね」

「謝らなくていいんだよ。駅まで走ろうか。美咲、疲れてると思うけど一緒に走れる?」

「うん、走る!」

 最後に、美咲は明るい笑顔を見せてくれた。

 ふたりは、互いの手を強く強く握りながら、走り出した。

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