第10話 心臓止まった

 次の日から、美咲は目立って笑顔が少なくなった。

 幸太とは目も合わせず、挨拶をしてもひどくそっけない。

 明らかに、幸太を避けている。しかも、心中にわだかまりが生じて、幸太のいないときでさえ、鬱々としているようだった。

 幸太のクラスで特に美咲と仲がいいのは、伊東、瀬川、小林といった同じ吹奏楽部の女子たちだが、彼女たちも美咲のいつになく暗い様子に深刻な不安を抱いたようだった。

 あるとき、美咲の離席中、伊東が英語の教科書を片手に、幸太の席へと近づいてきた。幸太の英語の成績は一躍トップクラスで、しかも英会話の授業でも群を抜いて流暢りゅうちょうに話せたから、英語で困ったらコータに聞け、とこの頃には評判が立っていた。

 伊東は教科書中の英文についてコータに尋ねるふりをして、

「美咲、昨日からおかしいんだけど、何かあったの?」

「あぁ……あった」

「美咲のあんな顔、初めて見るよ。何があったの?」

「告白した、おとついの放課後」

「ヒィィィィェ!?」

 伊東はまるで『ト〇とジェ〇ー』のト〇のような声で絶叫し、腰を抜かしたように尻もちをついて倒れた。

 意外に生地面積の小さい、ピンク色の下着だった。

 教室内の全員が、伊東の姿を見て笑う。

 慌てて起き上がってきて、小声で話を続ける。

「それほんとなの!? 美咲はなんて?」

「何も」

「何も?」

「そう、何も言ってくれなかった。それからは、何も話せてない」

「ちょっと、美咲のこと傷つけるようなこと言ってないよね」

「俺が聞きたいよ。こんなに好きなのに、相手を傷つけることがあるのかって」

 週が明けて月曜日。

 美咲は週末でリフレッシュをするどころか、憂いがむしろよほど深いのか、休憩時間に席を立って友達と話すこともせず、表情もまるで別人のように固く、陰気になっていた。

 授業も、当然、集中できていない。

 数学の時間、教師の川口が美咲に回答を求めた。美咲は上の空で、一度目の指名に気づかず、二度目は「すみません、聞いていませんでした」と小さく、それでも言い訳することなく答えた。

「授業中なんだから、ちゃんと聞いてなさい」

 川口は、少なくとも厳しいとか、怒りっぽいとか、そういう悪評が出たことのない、穏やかな初老の教師であるとみなされている。このときの口調も、その言葉ほどはきつくも激しくもなかった。

 むしろ激しかったのは、直後に美咲が見せた反応の方であった。

「すみません……」

 と、それだけを口にして、号泣と言っていいほどに泣き始めたのである。

 全員が、動揺した。

 幸太は、美咲を2年生で同じクラスになったときから知っている。その頃から、彼はずっと、美咲の姿を目で追っていた。いつもほがらかで、誰よりも笑顔が豊かで、精神的な不安定さを感じさせたことは一度もない彼女である。

 その美咲が見せた極端な反応に、クラスメイトたちは異常さを感じた。

 その理由について、幸太には思い当たる節が充分すぎるほどにある。

 あるだけに、彼は心臓を鷲掴わしづかみにされているような痛みを胸に感じた。

 自分が、美咲をこれほどまでに苦しめてしまっているのか。

 あのようなことを、彼女に言うべきではなかったのではないか。

 いっそ自分は、彼女の前から消えてしまった方がいいのではないか。

 とさえ、思った。

 彼は監督を名乗るあの男によって、高校3年の、彼が最も戻りたいと願った時期に意識を送り込まれた。そして、今度こそは後悔のない人生を送ろうと思った。美咲を愛し、彼女とともに生きてみたい。彼女を幸せにしたい。

 だが、彼が想いを伝え、そのことが彼女を傷つけただけであったのなら、彼の人生のTake2に、なんの意味があったろう。

 二度目のチャンスなど、なかった方がよかったのではないか。

 翌日、美咲は学校を休んだ。

 幸太は頭をかち割って死にたいほどに悩乱のうらんした。

 週の真ん中水曜日。

 美咲は登校した。

 心配した伊東らが美咲のそばに集まる。会話が漏れ聞こえた。

「心配かけてごめんね。ちょっとその……重くて。もう全然平気!」

 人がばらけてから、美咲の方から挨拶があった。

「おはよー」

「おはよう。もう大丈夫?」

「ダイジョばナイかも……うそうそ、大丈夫だよ。心配した?」

「うん」

「ごめんね……」

 美咲の表情から察するに、心の重しが完全に解消したとは到底言いがたいようであった。

 無理に明るい顔をつくろうとする美咲がむしろ痛々しく見えて、幸太は戸惑うしかない。

 放課後。

 幸太は、美咲よりも先に教室を出た。

「おいコータ、一緒にマッ〇行こうぜー」

「悪い中川、今日は寄るとこあるんだ」

「お前、水曜日は付き合い悪いよな。なにかあんのか?」

野暮用やぼようだ」

 そうか、まぁ頑張れ、とそれだけを中川は言った。意外に繊細で敏感なところがあるから、野暮用とやらに心当たりがあるのかもしれない。

 まぁ、持つべきものは親友ということだ。

 幸太は早足で歩きながらあることに思いをせた。

 今日、美咲はあの公園に来ないかもしれない。

 (それでも、待ってみよう)

 サックスの音がしない公園は、ただだだっ広くて、退屈で、無機質な風が流れている。

 あの人の姿がない公園は、まるでセピア色のレンズを通したように、彩りが欠けている。

 幸太は待った。

 10分がち、20分が過ぎ、30分待ったとき。

 幸太は突然、何者かに背中を軽く押された。

 振り返ると、美咲がいたずらっぽく笑っている。

「あははっ、びっくりした?」

「……心臓止まった」

「心臓止まったのに、なんでうれしそうなの?」

「うれしいから」

「ふーん」

 と、美咲は隣にちょこんと座り、両足をぶらぶらと交互に上下させながら、一週間越しに、ゆっくりと想いを語ってくれた。

「早川君、この前はありがとう。それとごめんね、きっと心配させたり、不安な気持ちにさせちゃったよね」

「いいんだ」

「私、なんだかびっくりしちゃって、そう、心臓が止まっちゃったの。まさかあんなこと言われるなんて思ってなくて、どうしていいか分からなくて」

 幸太は先を促すことなく、じっと美咲の話が進んでいくのを待った。美咲が、自分の気持ちを懸命に表現しようとしてくれている。それを聞いていたかった。

「早川君の気持ち、すごくうれしい。感動したの。こんなに私のことを見てくれて、こんなに私のことを想ってくれて、こんなにきれいな言葉で伝えてくれる人、いるんだって。だから心臓が止まったの」

「心臓が止まって、泣いちゃった?」

「うん、そうかも。でね、私も……」

「私も……?」

 幸太は全身の血液が頭部に上がってきて、オーバーヒートしそうな意識のなか、鈍化どんかした聴覚に神経を集中させた。

 美咲は少しためらって、やがて意を決したように、

「私も、早川君のことが気になるの。すごく気になってる。早川君と、たくさんお話ししたい。それに、いずみが早川君に告白したって聞いて、たぶん、やきもち焼いちゃった。でも、よく分からないの」

「何が?」

「これが、好きってことなのかなって」

「自分の気持ちが、よく分からないんだ」

「そう、そうみたい。私、子どもなのかな? みんな、好きな人とか、付き合ってる人、いるのに」

「ほかの人は、関係ないよ」

「そうなの?」

「ほかの誰がどうでも、君は君だよ。自分の気持ちを、人任せにしない方がいいと思う。そういうことすると、きっと後悔する。自分の気持ちを分かってあげて、それを言葉にできるのは、自分自身だけだから」

「…………」

「もし君が許してくれるなら、俺は待ってたい。君が自分の本当の気持ちを見つけるまで。どれだけ時間がかかってもいいよ。やっぱり俺のこと好きじゃないってなってもいい。だから、君はゆっくり、自分の気持ちと大切に向き合って、その気持ちをいつか教えてくれたらうれしいよ」

「……早川君」

「ん?」

「ありがとう」

「どうして?」

「私のこと、好きになってくれて。私のこと大切に想ってくれて」

 美咲はそのけがれのない瞳にみるみる涙を浮かべ、きゅっと唇を結んで、すぐに破顔した。

「ね、あの樹の下、行こ。サックス吹いてあげる」

「今日は何の曲?」

「んー、面白い曲にしよっか!」

 美咲は少し考え、やがてピンク・〇ンサーのテーマ曲を吹き始めた。吹きつつ、おどけた足どりでそこいらを歩き回って、幸太は思わず年甲斐としがいもなく腹を抱えて笑った。

 楽しくなり、幸太もピンク・〇ンサーの顔と動きを真似てみせると、美咲も口を大きく開けて笑い転げた。

 二人は連絡先を交換し、毎日メールを、たまに電話もして、互いの声を聞けるようになった。

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