落陽

大田康湖

落陽

 2022年2月23日、天皇誕生日。熟年の女性、遠山とおやま富士美ふじみは駅前のパン屋へ買い物に行った帰り道、夕焼けに包まれた住宅街を歩いていた。

 バス停のある丘の上の交差点から坂道を少し下ると自宅に帰り着く。しかし、交差点の手前にある小さな児童公園にさしかかったところで富士美は立ち止まった。公園の奥でカメラの三脚を立てている人影が見えたのだ。

(何を撮っているのかしら)

 不思議に思った富士美は、公園に入っていった。


 三脚の前にいたのは、黒いリュックサックを背負った中肉中背の女性だった。富士美よりもやや年上だろうか。ダウンジャケットに防風パンツ、ニットキャップの重武装だ。セッティングしているカメラはかなり大きく、望遠レンズが公園の外、北西に向けられている。近づく富士美に気づいた女性は、手を止めて一礼した。

「こんにちは」

「すみません、撮影の邪魔をしてしまって」

 恐縮する富士美に女性はマスク越しに明るい声で答えた。

「まだ時間前なので大丈夫よ」

「何か来るんですか」

 女性は富士美の問いにカメラの先を指さした。

「『ダイヤモンド富士』がここで見られるはずなの」

「ダイヤモンド富士、ですか」

 その名前は富士美も聞いたことはあった。富士山の頂上に太陽がかかる瞬間を狙い、大勢のカメラマンが富士山をのぞむ湖の前で待ち構えているのをテレビで見たのだ。

「私も見させてもらっていいですか」

「ええ」

 富士美の声に女性は軽く答えると、カメラの調節に戻った。


 10分ほどすると、太陽が地平近くに近づいてきた。女性が指を指す。

「ほら、富士山が見えてきたでしょ」

 確かに公園の樹木や高層マンションの間に、控えめに台形に似たシルエットが浮かび上がっている。

「ここから富士山が見られるなんて知りませんでした。どこでお知りになったんですか」

 富士美が尋ねると、女性はカメラの調節をしながら話し出した。

「パソコンの地図ソフトよ。位置と時間を指定すればダイヤモンド富士が見られそうか調べてくれるの」

「へえ、便利なんですね」

「夫がこういうのが好きな人で、カメラの使い方と一緒に教えてもらったの。今は単身赴任中だから、私が代わりに撮ってるのよ」

 女性はリュックサックのポケットから名刺大の紙を取り出し、富士美に差し出した。

「SNSって使ってらっしゃる? 撮った写真を公開しててね。夫も見てくれるし、富士山好きの方からコメントをいただくこともあるの」

 紙を受け取った富士美が見ると、ダイヤモンド富士の写真の隣にツイッターやインスタグラムのアドレスが書いてある。

「『金剛こんごう富士ふじ』さんですか。私の名前にも『富士』が入ってるんですよ」

 共感を覚えてしまった富士美に、金剛富士さんは腕時計を見ると言った。

「私はSNS用の名前だけど、いいお名前ね。そろそろ撮影時刻だからちょっと待っててね」


 オレンジ色の光が空から地上を柔らかく包んでいる。

 富士美が見守る中、金剛富士さんは夕日に照らされて影が濃くなった富士山の写るカメラのファインダーをのぞき込んだ。ソフトの計算通り、やや傾いていた太陽は富士山の頂上めがけて降りてきた。以前見たテレビと違い、太陽が大きいのでダイヤモンドというよりも燃えるルビーのように見える。

(もしかしたら、私にも撮れるかも)

 富士美はスマートフォンを取り出し、富士山に構えてみようとするが、明るすぎてそのままでは撮影できない。あたふたしている間に金剛富士さんのカメラのシヤッター音が響き渡った。

 太陽はあっという間に富士山の影に隠れた。金剛富士さんは撮影した写真をチェックしている。

「いい写真が撮れたわ」

「おめでとうございます」

「今日はいい夕焼けになりそう。私はもう少し撮っていくけど、良かったらあなたも一枚いかが」

 金剛富士さんは富士美の持つスマートフォンを見ながら呼びかけた。


 富士美はスマートフォンを持つと、シルエットになった富士山と夕焼けの空を撮影した。金剛富士さんも街を見下ろす夕景を撮影している。

「それにしても、どうしてここを選んだんですか。もっと撮りやすい場所があると思うんですけど」

 富士美の問いかけに、金剛富士さんは写真のチェックをしながら話し出した。

「今日は『富士山の日』。有名な場所にはたくさんカメラマンが来てるから、誰もいなさそうな場所を選びたかったの。それに、写真は一期一会いちごいちえだから。今日撮れた場所でも、来年はビルが建って遮られてるかもしれない。いろんな所から見た富士山の方が、見る人も楽しいと思うの」

「それでは、来年の『富士山の日』はまた別の場所で撮られるんですね」

「いい所がなかったらまたここに来るかも。あなたもよかったらスマホで撮れるよう練習してみてね」

 金剛富士さんはカメラを片付け始めた。

「はい。そういえば」

 富士美はエコバックからビニールに包まれた台形のパンを取り出した。台形の狭い側がグレーズ掛けされている。

「バスで駅まで帰られるんでしたら、バスターミナルの向かいにおいしいパン屋があるんです。いつもは会社のお昼用に買うんですけど、今日は富士山の日にちなんで『富士山パン』を売るってインスタで宣伝してたんで、さっき買って来たんですよ」

 金剛富士さんは目を細めると、『富士山パン』を見つめた。

「いい情報をありがとう。帰りに寄ってみるわ」

「こちらこそ、また来年会えるといいですね。それでは、私はお先に失礼します」

 富士美は一礼すると公園を離れる。すでに辺りには夕闇が広がり始めていた。


 その夜、富士美は金剛富士さんの写真を見るためSNSのアドレスを開いた。今日撮ったダイヤモンド富士の写真と一緒に、『富士山パン』の写真が上がっている。

(良かった、パン買えたのね)

 富士美は金剛富士さんに呼びかけながら自分のパンを掴んだ。

(あの時は言えなかったけど、私の名前に『富士』が付いているのは2月23日生まれ、『ふじみ』だから。もう名前を付けてくれた両親はいないけど、今日は久しぶりにいい誕生日だったな)


 富士美が金剛富士さんと出会ってから約一年経った。ダイヤモンド富士のシーズンに入り、毎日金剛富士さんのSNSに上がる写真をチェックしてた富士美だが、一月初めに「体調不良で本日は休みます」という告知を上げてから音沙汰がなく、密かに心配していた。

 二月初めに久しぶりにあった更新は「金剛富士の夫」を名乗る者からだった。金剛富士さんは肺炎で1月下旬に亡くなったというのだ。これまでの閲覧、交流への礼を手短に述べる文章に、抑えられない辛さがにじみ出ているように富士美には感じられた。


 そして、今年も2月23日が巡ってきた。去年好評だったらしい『富士山パン』を買い出しに行った帰り、富士美は公園のダイヤモンド富士撮影場所に向かった。

(やっぱり、誰も来てない)

 幸い今年も好天だ。今頃各地の撮影地ではカメラマンたちが富士山を狙っているのだろう。富士美はエコバッグから黒いケースを取り出した。

(今年はスマホ用三脚も買ったし、撮影モードの練習もしたから。これからは金剛富士さんが見られなかった景色を撮っていくね)

 残念ながら、西の空には低い雲が浮かび、富士山の形はよく分からない。それでも夕日はうっすらと見える富士山の頂上を狙って滑り降りようとしていた。

(また来年、いい富士山が見れますように)

 祈りを込めながら、富士美はスマートフォンの撮影ボタンをタップした。

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落陽 大田康湖 @ootayasuko

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