第五章 真月と三日月

第42話 三つのアイス

「あっつ~」


 6月の終わり、もうすぐ7月になりかけの真昼間、今年の最高気温を毎日更新するような日が続いている。


「冷房、付けよっか?」


 ベッドに腰かけながら、すぐ隣を見る。俺の部屋に平然と入ってきて、勝手にくつろいでいる女子に対してもはや驚きもしなくなってきた。


「いや、扇風機で我慢する」


「あぁ~あぁ~」


 扇風機の強さを最大にして首振りにする。扇風機が月の顔面に向くと、月は緩い声で子供のようなことをしている。


「そういえば、何しに来たの?」


「えぇ~理由が無いと来ちゃダメなの?」


「ダメ」


「じゃあ…君とイチャイチャしに来ました」


「じゃあ…帰ってください」


 ドアの方に手を向けて帰るように促す。しかし、月は伸ばした俺の腕も掴んで手首のあたりに噛みついてきた。気温が高くても月はそもそも体温が低いので、彼女の手はひんやりと感じる。


「いきなり噛むなよ」


「んふ~おいしい」


「何か前より吸う頻度多くなってない?」


「そうだよ。君のせいで普通じゃ満足できない体になっちゃたんだよ。もし君以外の人の血を吸ったらその人が死ぬまで吸っちゃうから、君は責任取って死ぬまで私と一緒に居ないとだめなの」


「なんだよ、それ」


 こいつの言う事はすべてが重いような気がする。いや、物理的な意味ではなく心理的な意味で。


「だから君は誰にも渡さない。他のメスには絶対に触られないでね」


「さすがに死人が出るのはなぁ…」


 そんな会話はしている間も月はずっと俺の腕を掴んで離さない。血管に牙を刺して溢れた血液を飲んでいる。


「ん…んんっ…」


「はい!終わり」


「あぁ…」


 腕を上に振り上げて月の口から離す。彼女は餌を取り上げられたペットのような声と顔をしている。口元から俺のものと思われる血液が零れかけた。


「もうちょっと、もうちょっとだけでいいからぁ…」


「ダメ!吸い過ぎは体に悪い」


「悪くないよ。むしろ体に良いんだよ?」


 自分でも何を言っているのか分からないが、向こうはもっと意味の分からないことで返してきたので気にしないことにした。


「品切れです」


「品切れしないでしょ?だって治るんだもん」


「体の問題じゃなくて、気持ちの問題」


「えぇ…いいじゃん。もうちょっと、もうちょっとだけぇ…」


「おい…寄ってくんな」


 月は俺の腕を求めてすり寄ってくる。俺は腕を自分の真上に持ってくるが、それでも月は体を密着させて迫ってくる。


「おい、押すなって…うわっ」


「あっ…」


 何とか逃げようとベッドから立ち上がろうとすると、月がこちらに体重をかけて来たため後ろに倒れる。


「……ふふ、押し倒しちゃったね」


「早く退けよ」


 いつも寝ているベッドに押し倒される。すでに手首あたりからの出血は止まっている。


「えぇ…なんでぇ~」


「お前…血を吸った後だとちょっとキャラ違うよな」


「そう?」


「うん」


 本人は気づいていないのか、月は血を吸った後だと酔った状態というか、酩酊状態のような感じになる。


「ん~~…」


 月は少しだけ難しそうな顔をしながら何か考えている。やっぱり血を吸った後だと少しだけ精神年齢が下がっているような気がする。


「じゃあ…エッチしよっか」


「今の一瞬で何を考えてたんだよ」


「まだ午前中だけど…」


「だからしないって…ていうか、離せよ」


「ダ~メ、逃げないで」


 何故か月に両手首を掴まれた。既視感がある。あの時と同じような状態だ。


「お前…またかよ」


「へへ…またで~す」


 満面の笑みを浮かべながら手を握って、俺に覆いかぶさってきている。月は白いTシャツにホットパンツという軽い服装している。薄着の上に俺の前だと無防備になるのでいろいろと見えそうで危ない。


「もうちょっと気にしろよ…」


「ん?何?」


「なんでもない」


 口の中だけで呟く。至近距離でも聞こえないくらいの音量だったので顔の前にある月の顔は不思議そうな顔をしている。


「えいっ」


「うぶっ!」


 そんなことを考えていると、いきなり重たいものが腹の上に…いや、体全身にのしかかってきた。しかし、硬くはなく逆に全身が柔らかいものに包まれている。


「おま…え、いきなり落ちてくんなよ」


「どう?冷たくて気持ちいい?」


 さっきまで覆いかぶさってきていた月がいきなり下に落ちて来た。衝撃で少しだけベッドが軋んだ。


「うっ……まぁ…」


 確かに月の肌は気温が上昇している部屋の中でも冷たく感じるくらいひんやりとしていた。肌の色が限りなく白に近いため熱を吸収しにくいのだろうか。


「だから…こうやってくっついてあげる~」


「いや、くっつき過ぎたら逆に熱いだろ」


「でも…」



「こっちの方がドキドキするでしょ?」



 月は顔を俺の耳元に近づけて囁くように言ってきた。


「いや…しないし」


「すぅ~はぁ~…真のにおいがする」


「勝手に人のベッドのにおい嗅ぐなよ」


「やだっ」


 月は俺の体に密着したまま勝手に枕やシーツのにおいを嗅ぎ始める。俺は何とかベッドから抜け出すために月の体を持ち上げて退かそうとするが、びくともしない。


「くっそ…」


 力を込めて体を揺さぶるが、わずかにベッドが軋むだけで何も変わらない。ふと見えた首筋が赤くなっているようにも見えた。



「ねぇ、お兄。電子辞書、貸し…」


「あっ…」


「えっ…」


 一瞬、空間がフリーズする。外からの物音も雑音も何故か止まり部屋が静寂に包まれる。


「千紗ちゃん…お邪魔してま~す」


「な…な…」


「千紗…違うから、何とは言わないけど…違うから」


「何やってんだぁぁぁぁぁ。貴様らぁぁぁ」


 普段聞いたこともない怒号が飛んでくる。俺が千紗の叫び声を聞くのは多分初めてだ。部活でもここまでの声量は出ないだろう。


「はやく…早く離れて。離れろ」


「えぇ…」


 名残惜しそうに月は上半身を起こす。密着していた体が離れたため自由が利くようになった。


「千紗…違うからな」


「ちょっと…お兄は出てって」


「えっ?こいつじゃなくて俺?」


「この人に話があるの。分かる?」


「はい」


 何故か俺の部屋なのに俺が出ていくことになってしまった。


「へぇ…家ではお兄って呼んでるんだ~かわいいね」


「貴方はちょっと黙ってて」


「は~い」


 ふざけているのか、それとも理解していないのか、月は緩い声で返事をしている。その声がさらに千紗の精神を逆なでしている気がする。


 俺はトボトボと部屋の外に出て、そっと部屋の扉を閉める。


「そういえば、アイス在ったな」


 せっかくなので一階の冷蔵庫にあったはずのアイスを取ってくることにした。甘いものを与えれば機嫌を直してくれるかもしれない。階段で一階に降りていくとリビングには母親がいた。


「どうしたの?すんごい声が聞こえたけど?」


「いや、ちょっと千紗がね?」


「は?」


「ねぇ…アイスってあったっけ?」


「冷蔵庫の一番下の冷凍庫にあったと思うけど…」


 とりあえずこれ以上余計な言及を避けるために話を逸らす。冷蔵庫の方に向かっていき、一番下の冷凍庫を開けると確かにアイスがあった。


「ん~どれにしよっかな」


 バニラ系のアイスもあれば、真ん中でパキッと折るタイプのアイスもある。


「これで機嫌治るかな?」


 いつも食べてるガ〇ガ〇君を二本取り出して、ハーゲ〇ダッ〇を一つ取り出す。


「まぁ…いっか」


 アイスを三つ抱えながら二階への階段を登っていく。

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